ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

引佐・龍潭寺 ・・

2017-02-27 21:34:22 | 神社・仏閣

承前・ 直虎

雑談・

北浜松、引佐郷、井伊谷 ・・・
 井伊直虎の育ったところ、、
 馴染みのない人は、おそらく読めまい・ イナサ郷イイノヤと読む。
桜田門外で、幕末の志士たちに殺害された、大老・「井伊直弼」の井伊家の発祥の地である。
・ちなみに、井伊家「彦根藩」は、徳川幕府成立以後の話・

引佐・龍潭寺は井伊谷・井伊家の菩提寺・・、この境内奥に井伊谷宮がある。
 ・井伊谷宮は、南朝・後醍醐天皇の皇子・宗良親王を祀ってある。


 
さて、今日の雑談は、・歴史の話ではなく、、”龍”の読み方の話・

 

この”龍”の文字は、位置により、読み方が変わるのをご存じか、?
 ・つまり、
 >1:龍○〇のように、龍が頭にくるときは「リョウ」と読み、
 >2:〇龍〇のように、龍より先に文字がある場合は、「リュウ」と読む。
 
 したがって、「引佐・龍潭寺」は「イナサ・リョウタンジ」であり、
       「龍馬(坂本竜馬)」は「リョウマ」であるわけで、
       「天龍川」は「テンリュウ川」と読む。
       
「龍」を頭文字にする寺は、臨済宗に多いのだが、
それも、鎌倉を総本山とする「建長寺派」ではなくて、
京都を総本山とする「妙心寺派」の寺が多い・・


直虎 ・・覚書

2017-02-21 16:01:48 | 歴史

直虎 ・・覚書

最近、直虎が話題に上がる・・
2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」の直虎、、TVの主人公の話・・
もっと詳しくは、戦国期の遠州・今川家が全盛に期、、尾張に信長が台頭し始め、三河は吉良や徳川が群雄し、
甲斐では、武田家が隆盛しつつある頃の話、・・・
浜名湖の北、、井伊谷では、、名門・井伊家が逼塞していた。
井伊家の直系・直虎は、女だてらに今川家に対抗する・
徳川家康の四天王の”井伊直政”は、その頃は幼年、直虎の養子になり、家康の小姓になり、やがて井伊家を継承することになる。

というような、徳川幕府の有力家臣の井伊直政のストーリーを追いかけるのはTVに任せておいて、
それ以前の井伊家の物語を、少しだけ覗いてみる。

私が井伊直政の父・直親のことを書いたのは、2013年のことになる。あれから4年経っている。


参照:「南朝の道 秋葉街道 1」引用 2013-05-14 21:16:50 | 歴史
 ・・・井伊家は、松平・徳川家のなかで、各戦に参加し、武闘派として台頭していく。特に、織田・徳川連合軍が武田を破ったとき、信州は織田に、甲斐は徳川に領分され、井伊家は、武田の武闘派残党を組み入れ家臣とした。この武闘派集団の戦い装束は「赤備え」といって赤で統一された物で、「赤備え」もそのまま継承した。この時点から、井伊軍は徳川軍のみならず、豊臣軍までを含め、当代最強と言われる軍団を持つに至る。以後、江戸幕府時代、一貫して老中・大老を歴任して幕末に至るわけである。
井伊家が南信濃と関係する逸話がある。
戦国の頃、井伊家は駿河の今川家に圧迫されていた。形勢は不利で、お家存続の危機を覚えた井伊家は嫡子の亀ノ丞をしばらく隠すことになった。選ばれたのが、南信濃の市田にある松源寺である。松源寺と井伊家の菩提寺の龍澤寺は住職を通して関係が深かった様である。この亀ノ丞は後の井伊直親であり、直親は井伊直政の父である。また、松岡家が武田方として、織田・徳川軍に抵抗したことで改易されそうになったとき、井伊直政は松岡家を助けた。松源寺は松岡家の菩提寺であった為とされる・・

この時、私の意識の中には、名門・井伊家は、南北朝時代の南朝の支柱の豪族で、幾度となく南朝の「後醍醐の王子達」を助け、特に宗良親王は、ある時期には、浜松の井伊谷を拠点としていた。
この時、敵対する北朝の足利一族に、三河に吉良があり、吉良から派生した今川家は、井伊家の最大の敵であった。・・・吉良家は、足利一族の本家継承権の第一位であり、継承権第二位が今川家であるという、別家の存在。今川家の発祥は、吉良家の本貫地・西尾の今川町(西尾市役所の海寄り約1Kmの地籍)に起因する。やがて、今川家は駿河を本貫とした地頭となって移籍する。
南北朝の対立に起因する井伊家と今川家の対立は、ことあるごとに戦乱し、井伊家の当主は、その度に戦死を繰り返したという歴史。

 

井伊家が、今川家に深い恨みがあったかどうかの資料は見たことはないが、徳川の祖の世良田(新田一族)が、南朝の旗頭の宗良親王やその遺族を援けて落ちていった先に井伊谷であったとしてもおかしくないし、井伊家が、南朝同盟の誼で、世良田(徳川)の安住の地を手配した可能性は、仮説として充分にありうる、と構想したのだった。
世良田(徳川)の安住の地の最初は、愛知県・奥三河の設楽であり、井伊谷と設楽は鳳来を挟んだ近接であるという経緯は、今となっては想像しかないのだが・・ここで、世良田は「松平」という名を手に入れる。・・この部分は資料があるようだ。
この仮説には、かなり自信はあったが、いかんせん資料の裏付けがなかった。・・・といっても、真剣に資料を漁ったわけでもないのだが、、、先述の引用文の、歴史の背景の風景の話である。

そういえば、井伊直親のことを書いた、前の年・2012年、、、猫好きの家内を案内して、世田谷の豪徳寺へ行った。

井伊家の菩提寺である。華奢な感じが少しもない、剛健な趣の寺。ここが、世田谷吉良家の世田谷城跡と聞くと、歴史の皮肉を感じる。


初桜 折しも今日は よき日なり

2017-02-20 23:54:57 | 草・木・花 風に吹かれて

初桜 折しも今日は よき日なり

早春を告げて・・

寒緋桜・
 花が下向き:釣り鐘型で色が濃い・

 

河津桜・
 ソメイヨシノよりも桃色が濃い・

 

見沼用水路:岸辺に咲く ・・・

 

このような まつせを さくらだらけかな ・一茶


立春! 春を探してⅢ・  花と緑の振興センター:梅園

2017-02-09 05:39:21 | 草・木・花 風に吹かれて

立春! 春を探してⅢ・  花と緑の振興センター:梅園


寒くとも 梅の香のみち 絵馬おさめ ・庄

 

高台より俯瞰す:背景の白い建屋は・・・外環自動車道です・

 

枝垂れ梅・ 

 

梅園全体図と梅の種類

 

花と緑の振興センター:梅園 
埼玉県川口市安行1015

 庭木の技能の伝承・育成が目的のようです。さすが、、安行。

 

梅以外の春・・花

冬に咲く・・・・  

福寿草

何の花でしょうか?冬に咲く黄色い花・・

あと、、寒椿の林もあります。


立春! 春を探してⅡ・  大宮第二公園・梅園

2017-02-06 16:52:31 | 草・木・花 風に吹かれて

 

立春! 春を探してⅡ・  大宮第二公園・梅園



                 


                      

 

大宮公園・ overview

「大宮公園」は大宮駅から東北へ約1.5kmに位置し、明治に太政官布達により氷川公園の名称で誕生し、県が管理することになりました。その後、日本の公園の父と称される本多静六林学博士による改良計画の結果、現在の大宮公園の原形になりました。
現在ある県営公園の中では最も長い歴史を持つ公園です。
埼玉県で一番利用者の多い県営公園として人々に親しまれています。
大宮公園は、現在「大宮第二公園」「大宮第三公園」とともに三つの公園で構成されています。さらに「大宮第二公園」に隣接して、市民球場と市民プールと市民体育館をを有する大和田公園があり、併せるとかなり広大な公園エリヤになっています。
「大宮第二公園」は昭和になって、「大宮第三公園」は平成になって、それぞれ新設されたもので、旧来の大宮公園と、かなり性格を異にしているようです。
「大宮第二公園」は、見沼田圃区域に昭和55年にオープンし、洪水時の調整池とかなり多くのテニスコートと野球場を有し、梅園があり、調整池と見沼用水路には名所を誇るくらいの桜の並木があります。茶室などを持った文化催事の展示会場もあり、なりよりもかなり広大な駐車場を確保していることが特色になります。
「大宮第三公園」は、当初は大宮公園にある「県営大宮公園球場」が老朽化して改築等が検討されたときに移転の候補地にあがり、更にサッカーワールドカップ前には、「大宮サッカー場」の移転先としても検討されましたが、紆余曲折の後現在の「大宮第三公園」が誕生したわけです。「大宮第三公園」もまた見沼田んぼに点在する公園で、「見沼田圃の原風景を活かし、人や生物にやさしい緑、水と光の空間を整備しています」とのキャッチフレーズを具現化しています。


・・・この公園内には、県営大宮公園野球場(西部ライオンズ・準本拠地)、NACK5スタジアム大宮(サッカー場:大宮アルディージャ本拠地)、大宮競輪場(これは実現されなかった戦前のオリンピック施設)、小動物園などがあります。

 


立春! 春を探して・  越谷・梅林公園

2017-02-05 10:02:40 | 草・木・花 風に吹かれて

立春! 春を探して・  越谷・梅林公園

公園入り口付近・

梅は咲いたか、桜はまだかいな・・
しかし、梅も少し早いのかもしれない・・

順序のことわり・
 ・蝋梅 ー> 紅梅 ー> 白梅

 ・白梅が・・まだ寂しい・

 

 
 越谷:梅林公園

 元荒川・河岸・

 宮内庁・鴨場と隣接・・
  * 鴨場・皇室外交の接待場所・・
  * 江戸時代の、将軍家の狩場を皇室が継承する/
  * 越谷には、将軍家の狩の時の休憩所が残る・御殿町に遺構(越谷御殿)あり・

      ---江戸初期、越谷は日光街道の宿場町。街道の整備と狩場の案内、将軍の宿泊・休憩所の差配は、伊奈郡代の仕事であった。


 最寄駅は北越谷駅。

 


 旧4号線(日光街道)「元荒川橋」付近・

 見てよこれ! 左の杉の方 ・・・ スギ花粉が今にもこぼれそう ・・・