ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

大門付近 ・・地名の裏を覗くと

2014-03-30 17:46:24 | 日記

大門付近 ・・地名の裏を覗くと

浦和の美園と言うところに、大門という場所がある。
前々から、奇妙に思っていたのだが、大門と言うからには・・・かなり大きな門があり、門の奥には、その門に相応する建造物があったのではないかと・・・それがどこにも見えないのだ。
実は、大門を通る機会は、昔からかなり多いが、その都度抱いた疑問である。

又地名についても、多少違和感がある。その違和感をたぐってみると、・・・最近どんどん存在感を増して、全国区になっている”埼玉スタジアム”がある。・・そう、サッカーの殿堂。そのサッカー場に隣接する当該駅が、”浦和美園駅"・・ 地籍は、さいたま市緑区大門なのに、 ・・美園・・なのだ。

 

           

まず、”美園”について解剖してみると・・・
戦後10年ぐらい経った頃・昭和31年に、明治から続いた三村が合併。大門村・野田村・戸塚村の三村合併で、新たに美園村が誕生した。それから6年経った昭和36年、今度は美園村が、浦和市と川口市に、分割されて編入された。美園の北部は浦和市に、美園の南部は川口市に、分割・編入合併されたのである。この美園の北部は、旧名の大門と野田の名に戻り、浦和市、次いでさいたま市になり、現在に続いている。美園の南部も、旧名の戸塚に戻り、川口市になっています。
違和感は・・合併で、消滅したはずの”美園”が時々出現することです。なるほど、"美園"の地名は、語感に好感度があり、地元では棄てがたいのかも知れません。

さて、大門ですが・・・
ここは、江戸時代・家治が将軍の時に、日光御成道が開道され、江戸から三つ目の宿場町とされました。
日光御成道は、本郷追分で中山道と分岐し、岩槻を経由して、幸手宿で日光街道(本道)と合流する、脇街道です。大門宿が、三つ目としたのは、宿場の岩淵と川口は、まとめて一つとしたわけで、鳩ヶ谷、大門、岩槻と続きます。徒歩の行程ですから、普通に岩槻が一泊目の距離で、鳩ヶ谷や大門は休憩の場所と思っていいと思います。
もっと昔は、鎌倉街道中道で、上野国(群馬県)に繋がっていたと言われていますが・・ 国道122号線を北に辿ると、利根川を越したところが”大泉”で、群馬に繋がっています。122号が、鎌倉街道中道と重なっているかどうか、先の方は確認していません。・・・・・・もとい、情報源が間違っているのではないかと・・・、上野国だと、地図上理屈に合いません。日光街道は、どっかの追分で、奥州街道へ分岐します。そう考えると”下野国”を上野国と誤記したしたのではないかと思います。調べると、上野に繋がる鎌倉街道は、上道の方でした。

           大門の地名の由来は、どうも、お寺の山門に由来するようです。・・・寺の名は、”大興寺”。

           

                     こちらは、現在の”山門”・・・築年も、比較的新しそうです・・・

                               

               参道は、桜並木になっています。枝が落とされて、むき出しに、桜の花がまばら・・

【大興寺】
天正19年(1591年)に寺領30石が徳川家康より寄進された真言宗の古刹。中興開山は永義で、永禄2年(1559年)没。
本尊は不動明王立像。本堂前の建屋には阿弥陀三尊板石塔婆が金泥が塗られており、南北朝時代の作りで市指定有形文化財となっている。昭和51年に新築し寺観は一新。

              寺領30石と言えば、かなりの拝領になります。

              参考:大宮氷川神社100石、秩父神社57石・・・

”昭和51年に新築し寺観は一新”・・・ とあります。大きな山門の寺は、火事で焼失したのかも知れません?!

そう考えると、大興寺は、かなりの大きさの寺院ではなかったか、と想像できます。が、しかし、いまは、普通のお寺です…

          大きなお寺の、大きな山門… が、この地の由来

                しかし、昔の話で、今は大きな山門は存在してないようです


          改装前の、山門の写真を見つけました・・借掲示

          

                         天水桶 ? に、三つ葉葵の紋…

                        天水 ・・ 雨水のことのようです。 防火用でしょうか・

 

                    庚申塔                          青面金剛像に、下に猿が三匹…

          

                          聖徳太○ …四文字目が読めません

 

            ここは、大門宿だったので、近くに、萱葺きの本陣の表門(長屋門)もあります。

          

                本陣の門・別角度、本陣の○○家・現在

 

                             道路の斜向かいの脇本陣です。

               

                  本陣同様、萱葺き屋根で、古色蒼然として、趣があります・・・

             大門宿は、本陣一つ、脇本陣一つ、旅籠六軒の、小さな宿場だったようです。

 

                           大門村の鎮守様・・・大門神社

          

          

    

           

          精緻な龍の彫刻です。甚五郎の作…の噂もありますが、秩父神社で見たのとは、どうも違う様で…


吉野 二分・・  道すがら・

2014-03-29 12:53:37 | 日記

3月28日・・・染井吉野 2分咲き                   場所:見沼用水東縁

             青空に 二分だけ吉野開いて 深呼吸

 

連翹・れんぎょう ではなく 姫ミズキ ではないかと・・・色の濃さが違うようです。

 

黄色が、満ちて…                                    たんぽぽ

 

黄色が、満ち満ちて…                                    菜の花

 

 

白の洪水… 一昨日は、まばらだったのに …          雪柳・ゆきやなぎ

 

同じ道を、おなじように辿れども、  ………      昨日の道に昨日は無し

明日の道も  ……  今日は、残っていないのだろう。


野田の ”長屋門” と ”ろば”

2014-03-27 17:18:49 | 建造物

深井家長屋門・・・

長屋門スケッチ・・・転載

写真が深井家長屋門

名主の深井家があり、その長屋門はさいたま市指定有形文化財です。

・・・
 この長屋門は茅葺寄棟造りで、桁行21.200m、梁行5.465mあり、中央の通路部分は幅4.740mあります。この通路部分の正面は、いわゆる「立ち隠れ」がある形式で、半間下げて門構えが設けられています。なお、弘化元年(1488)の建立年を記した棟札が伝わっています。
 長屋門については、その建立年代に加えて、立ち隠れの有無、格式張った門構えか否か、扉が両開きか引分けか、門の両脇空間が閉鎖的か否か、という構造上の4点に着目することが、その成り立ちを理解する上での手助けとなります。市内の指定文化財を例にとると、「大門宿本陣表門」(県指定・元禄7年-1694)や「永田家長屋門」(市指定・江戸時代末期)は立ち隠れがあり、冠木のある門構えに両開きの扉を持ち、両脇は閉鎖的な部屋で、一部板床が張られ、番所もあります。
 一方、旧武笠家長屋門(市指定・天明3-1783)は立ち隠れがなく引き分け戸で、背両はすべて開放きれ、全面が土間となっています。前者は武家の薬医門にも通じる形態といえ、後者は門というよりも納屋といった印象を受けます。
 深井家長屋門を正面から見ると、前述のとおり立ち隠れがあり、堅固な門構えに両開きの扉を吊っています。規模が大きいこともあって、江戸時代には上野田村天領分の名主役を勤めた深井家として、必要な格式を備えた表門であるといえます。しかし、背後から見ると、ほとんどの部分が開放となっていて、かつて同家で盛んに行っていた柿渋作りをはじめとした各種の農作業にあたって、欠くことのできない作業場であったことがわかります。格式と実用性とを巧みに両立させた建築といえます。
 市内に残る長屋門のなかでも江戸時代に遡るものは少なく、さらにその多くは屋根などの外観に変更を受けています。その中で深井家長屋門は当初の姿を伝え、建立年代も判明している貴重なものです。また、近世農村の名主家屋敷における門の位置付けを伝える資料でもあります。・・・
  平成14年1月  さいたま市教育委員         ・・・ (現地掲示物より)

文中に・・上野田村天領分の名主役を勤めた深井家・・とあります。

ここ、野田地区は、江戸時代天領であって、岩槻藩には属していなかったようです。さらに、この地区を貫通して、日光御成街道が通じていたようです。もっと昔は、鎌倉街道・・・

調べて見ますと、この野田地区は、”さぎやま”と呼ばれ、かつて、サギの繁殖地として国の特別天然記念物の指定を受けていた場所で、江戸時代は”御猟場”であり、歴代の将軍が狩に訪れた場所でもあったようです。恐らく、広大な自然の残る”御猟場”のため、天領として扱われたのではないかと思われます。庄屋の深井家は、将軍の目に触れる機会も多かろうと、多少無理をして、長屋門の門構えを立派にしたのだろうと・・・想像します。

将軍の狩は、既に鉄砲が普及していたにも拘わらず、古式の従い”弓”で行われたものと思われます。武家棟梁は、別名”弓とり”とも呼ばれ、古式儀礼に沿って、犬追いと弓で”狩”を行った・・・これが、体力保持と戦術の鍛錬を兼ねていた・・・武家の”棟梁”のたしなみでもあり、戦乱の時代から離れて平穏の時代になっても、継続されていたようです。

違う角度から

 

 


深井家とさぎやま公園つなぐ小径は、植木の苗場の畑が散在します。・・・ My Favorite Things ・・・

     植木の苗場の畑の一角に、放牧?繋いでありましたが・・・

 ”ろば”でしょうか・・・

 


辛夷の花・繚乱  白も 紅も ・・ 

2014-03-27 15:49:10 | 写真と詩歌

花開くまえ            ・・ いかにも おかしく

 

うすべに 姫辛夷・ひめこぶし        ・というのか   ・・・散歩の老夫婦に聞いて

 

       白の繚乱   空の青に映える  気品たかい 白・・・

 
 
           三好達治の詩集 『花筐』(はながたみ)より
 

             ○山なみとほに

            山なみ遠(とほ)に春はきて

            こぶしの花は天上に

            雲はかなたにかへれども

            かへるべしらに越ゆる路

 

                   ・・・声出して読めば、なんと七五調 しらべ(調)もうつくし

 




河津桜と寒緋桜 ・・・あれから11日 /end

2014-03-26 16:35:42 | 日記

<定点観測> 2014/03/26 (前回3/15)

河津桜と寒緋桜 ・・・あれから11日  今回で終了です

河津桜は、葉桜に変わりつつあります。

寒緋桜は、満開のようです。

早咲きの桜は、後ろの控えた染井吉野や彼岸桜に、主役を譲る時期が来たようです。

   これも、河津桜!?

場所により、今が盛りの河津桜もあるようですが。


さて、いよいよ、真打ち登場!染井吉野・・・

3月25日・ 約一輪


3月26日 開花宣言・・・ウェザーレポートと同じ・・・

満開予想は、3月30日~4月2日・・・  花の命は、短くて   予想の責任は気象庁!



春の花を、たずねながら、散策です

2014-03-25 12:37:39 | 写真と詩歌

 

    春の花を、たずねながら、散策です

土手に咲く、”菜の花”・・ではなく、”カラシナ”です。

淡い・・緑と黄色が・・・いかにも春の色です・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右は荒川、左は入間川

 

 

  花の部分の拡大

 

これは、何の花 ・?・?・

調べて見ると・・・「マンサク」? X

 マンサクの花?ではなく三椏(みつまた)の花では・・

 と、教えて戴きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   「あせび」でしょうか・・

 

                『行邁』

                白々紅々相間つて開き

                三々五々青を踏み来たる

                戯れに胡蝶に随って遠きを知らず

                行人を驚き見て笑却して廻(かえ)る

                              ・・・・黄山谷

 

                  読み方・・・行邁(こうまい)

                白白(はくはく) 紅紅(こうこう) 相(あい)(まじわ)って開(ひら)き。

                三三(さんさん) 五五(ごご) 青(せい)を踏(ふ)み来(きた)る。

                戯(たわむ)れに胡蝶(こちょう)に隨(したが)って 遠(とお)きを知(し)らず。

                驚(おどろ)き行人(こうじん)を見(み)て 笑却(しょうきゃく)して回(かえ)る。

 

                今日の、花をたずねての”行邁”、まさに黄山谷の詩の心境・・・・・

 


春を探しに・・・

2014-03-23 19:38:03 | 写真と詩歌

        春を探しに・・・     


うひゃー!もう満開・・ 寒桜の一種でしょうか 花の色は濃いピンクです 

 

 

 

                      

 

 

 

拡大してみました。

 

満開・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

近所の・・庭に咲いていました

 

椿です

八重椿!?

・・・・・そんな品種は、実際あるのかどうか、知りませんが・・・

端正にして、優雅・・・

 

 

  

 

 

 

万葉の小径にて

 

 

猫の手が、白い花に・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


拡大してみました。

 

 

 

 

 

 

 

 辛夷・こぶし  の花だそうです

   猫の手が、化けて、みんな花になった頃・・・

 さぞかし、壮観だろうと・・・

 

 

 

         ○青空に白を極めて辛夷かな   裕

 

         今日の昼下がりの、春の花たち、の風景  ・・・My Favorite Things

 


公園の木瓜の花・色は紅白です

2014-03-22 18:13:54 | 写真と詩歌

公園の木瓜の花・色は紅白です・・・ 











こちらは白い木瓜 











 ○ 照りとどまる春の日輪庭の奥に 緋木瓜の花が熱に倦める ・・利玄

木瓜は、大きく二種類あるそうで、
          ・・・人の背丈ぐらいが、普通の木瓜。
          ・・・膝から腰ぐらいのが、草木瓜。
                ここの公園の木瓜は普通のです。

・・花は3~4月に、葉よりも先に咲くようです。短枝の脇に数個つき、2~ 3cm。色は淡紅、緋紅、白と紅の斑、白などがあるようです。・・・春の花

ウクライナから、クリミヤが離れてロシアに・・・

2014-03-21 16:44:47 | 時事と歴史

ときどりの・・囀り
ウクライナから、クリミヤが離れてロシアに・・・
                                       茶屋主人 喫茶店にて

喧噪のなかに・・ようやく、”落としどころ”が見え始めました・・
これ以上の軍事衝突には広がらないように、動き始めたかのようです。

少し前まで、まるで効果の期待できない、茶番みたいな”制裁合戦”が繰り広げられていたのですが・

情報・・
○米国、ウクライナで軍事行動に関与せず=オバマ大統領
○プーチン大統領:クリミアはロシア-ウクライナ分割望まない
○経済協力は大統領選後署名 ウクライナ、EU連合協定
                   ・・ウクライナのヤツェニュク首相

 

 ヤルタ・転用  ヤルタ会談・転用 

確か、「ヤルタ」ってウクライナではなかったか・・調べて見ると・
ヤルタ会談は、1945年2月4日~11日にクリミア半島のヤルタ近郊で行われた .... 会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治やソ連対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった。
第二次世界大戦後の世界秩序の前提の話し合いだった。

 

 チェルノブイリ・転用

確か、「チェルノブイリ」はウクライナではなかったか・・調べて見ると・
・・・やはりそう。
福島の前に、原発事故を起こしたチェルノブイリは、ウクライナにある。

ウクライナの独立
ソ連崩壊とは、1991年12月25日にソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。ウクライナもその時に独立した国家である。
ロシアとウクライナの今日的秩序は、このソ連崩壊で生まれた秩序である。

 キエフ・ウクライナの首都・転用

このウクライナは、そもそも歴史的に矛盾を内蔵しており、矛盾を内蔵したままで出発してしまったのである。
ウクライナ東南部にあるクリミア自治共和国で16日、ロシア連邦に編入するかどうかを決める住民投票が行われ、暫定結果で編入賛成が95%超と圧倒的多数で承認されるに至った。そもそも、クリミアはタタール人10%、白ロシア系90%の構成と言われる。逆に、西部は、親欧州系であり、東欧と隣接していることから、欧州経済圏に入ることを希望しています。このため、親ロシア系と親欧州系は、時折衝突します。

ロシアの軍事的拠点・・・クリミアはウクライナ東端で、北部をウクライナ、東部をロシアと接する半島です。ウクライナと違って1877年から翌年までの露土戦争でオスマン・トルコから奪取して以来、ロシアの軍事的要となってきました。特に半島南部のセバストポリはロシア-ソ連-ロシアと続く黒海艦隊の母港でロシア最大級の軍事的拠点です。

従って、このクリミア地方を失うことは、ロシアにとって軍事的生命線が脅かされることになります。まして、この地方の住民は、親ロシアの白ロシア系住民です。
それほど大切な半島がなぜロシアでなくウクライナ帰属になっていたかというと・・・・・

1954年に、ソ連のフルシチョフ党第1書記(当時)がウクライナ領に変更したから・・・。出自から「ウクライナ出身」といってもいい彼は、当時独裁者スターリン死後のソ連共産党権力闘争のまっただなかで、故郷に恩を売っておこうという腹づもりがあったのでしょう。当時のウクライナはソ連の一部にすぎなかったので、安全保障面に気を使う必要もありませんでした。ただ親ロシア感情の強いクリミアの人々は憤激し、かといってソ連の強権体制下では直接モノも言えないので、アネクドート(小話)の形で地下に広がりました。・・・・・「フルシチョフはバカだ。フルシチョフはバカだ」。・・・男はすぐに捕らえられ、懲役20年の刑に処せられた。その1年分は最高指導者を侮辱した罪、19年分は国家の機密を漏らした罪……

バカだと叫んだ男の予想通り、91年のソ連崩壊とウクライナ独立で大問題へと発展します。ウクライナがそう出るならば、クリミアも独立だという宣言は、以前にもありました。そこでウクライナとロシアが折り合って・・・
・ロシアはクリミアをウクライナ領と認める
・クリミアは国家とほぼ同等の権限(議会や政府の設置など)を持つ自治共和国とウクライナ憲法が保障する
・セバストポリはロシアが借り受ける・・・と妥協します。

 

 EU加盟賛成の20万人の反政府デモ・転用

こんな背景があって、今回の紛争です。親ロシア派のウクライナ大統領を、西欧への帰属を希望するウクライナの住民が追い出します。どうも、選挙で決めたわけでもなさそうです。
西欧への帰属を希望するウクライナの住民を、欧米が応援するのは筋だとしても、もともとの矛盾は、ウクライナ任せでも解決しません。アメリカは、ソ連崩壊時の時の秩序に戻すことが問題解決だと、本気で思っているのでしょうか。オバマの本気度が推測出来ませんが、軍事介入までは考えていないように思えます。
歴史を眺めると、クリミアが住民投票で圧倒的であるように、ウクライナから離れて、ロシア帰属の方が論理の矛盾がないような気もしますが。
ヤルタでの戦後秩序とソ連崩壊後のロシア&周辺秩序は、今回の紛争で、クルミアのロシア帰属で落ち着くのでしょうか。歴史を観てみると、その方が一番落ち着く方法のように思えてなりません。

とにかく、軍事衝突は止めて、経済制裁も止めて、ロシアも天然ガスの供給をちらつかせないで、早めに終熄するように希望します。


難波田城 跡地 公園

2014-03-17 02:04:27 | 史跡

難波田城 跡地 公園

難波田周辺に所領を持っていた太田資正が、北条氏と争った時期に難波田城を支配していたと考えられている。その後、大田資正が岩槻城を追われたことで難波田城も北条方に戻っている。・・難波田城(なんばだじょう)は、扇谷上杉氏の被官であった難波田氏の居城で戦国期には珍しい平城です。城の規模は5万km2ほどもある巨大なものですが、宅地化されてしまっているところもあるので、公有化された一部の地区が「難波田城公園」として平成九年(1997)から3年かけて整備され一般公開された史跡です。ちなみに難波田氏の名前の由来は「南畑」(なんばた)だと言います。・・・難波田氏は、太田氏(岩槻城)と親戚で、扇谷上杉家の家臣であった。小田原北条家との争いの時に、扇谷上杉の重臣として戦い、松山城の城将でもあった。富士見市南畑は、難波田氏の経済的基盤のようである。

 

併設・古民家

 

  見上げると、大柳は芽吹き始めている。樹齢を尋ねないが、戦乱の時を見守ったのかも知れない。しかし、この城が”戦”を想定したとは、到底思えない。城の名を付けてはいるが、”守り”に難く、知行としての行政所としてのみ存在したかのごとき存在である。