ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

第四章 「スサノウ」のこと

2020-07-31 19:56:07 | 歴史

荒ぶ(荒む)・・スサブ //スサノウ 荒王


第四章 「スサノウ」のこと


スサノオ(スサノヲ)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では建速須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊など、『出雲国風土記』では神須佐能袁命
◆:父‎: ‎伊邪那岐命 母‎: ‎伊弉冉尊(日本書紀のみ記述あり)
◆:兄弟姉妹‎: ‎アマテラス‎; ‎ツクヨミ 
‎参照:アマテラスとスサノオの誓約 · ‎クシナダヒメ · ‎神大市比売 · ‎牛頭天王

この神話の時代は、弥生時代後期です。日本にまだ文字はありません。弥生時代の特色は、稲作と鉄器の伝来です。歴史的に見れば、明治維新などと比べ物にならないくらいの、社会の変化と文明と呼べるものへの入り口です。
「伝来」と書きましたが、多くは「渡来人」によって、これらの「文化・文明」はもたらされたようです。日本を取り巻く海と海流を眺めていると、朧気ながら実態が目に入ってきます。

転用:

 
フィリピンやインドシナ辺りからは、うまく海流に乗れば、ごくわずかに日本にたどり着かかもしれません。藤村の詩の「ヤシの実」は、こちらの方面の台湾を含む地域からの海流によって運ばれた可能性が大いにありますが・
中国大陸からはどうでしょうか?インドシナ辺りからより、可能性がありますが、それでも主流とは判じがたいような気がします。
やはり、大量に「渡来」したのは朝鮮半島からのように判断します。
対馬海流は、朝鮮半島の手前で、本流を大きく二分し、半島のすぐ先に接近し、やがて北上しながら、二分がもとに戻ります。この合流地点は、能登半島の先です。
この前提を頭に入れておいて、当時の朝鮮半島の政治勢力関係を見てみましょう。朝鮮半島は、絶えず、大陸の遊牧・狩猟民族に晒されています。馬を操り、武器を持って侵入してくるのは、狩猟民族の常体です。
反抗・復活の芽になる宗教や文化遺産は完膚なきまでに壊滅するのが、侵略者の常であり、正義です。こう考えると、朝鮮半島を経由して日本に来た仏教などが根付けなかった事由が見えてきます。
少しわき道にそれましたが、、日本へ来る場合、人力などの動力で島伝に渡来するのは、朝鮮半島の権力者だけであり、侵略者に敗北した敗者は、海流を漂流して対馬海流に乗り、能登半島以北の日本の浜へ漂着したのだと推測します。この推測の正当性は、現在に至っても、北朝鮮のイカ釣り船が、何艘も日本海の海浜に漂着している事実からも、証明・担保できます。
ブリタニカ・---対馬海流の厚さはほぼ 200m,流速は 0.5~1ノットであり,著しい蛇行を伴うのが特徴であるーーー・「流速は 0.5~1ノット」は、時速2~3Kmであり、人間がゆっくり歩く速度です。
以上から、分析考察すれば、朝鮮半島からの渡来者は、二通りの性格が考えられます。
一つ目は、朝鮮半島の旧来民族と高原族の敗残の旧統治者で、逃亡者ですが人数的には圧倒的だったろうと思います。
二つ目は、その渡来当時の朝鮮半島の統治者で、島づたいに「出雲」に到着して、日本でも権力にありつこうとしたのではないかと想像します。
この分類から、一つ目の「半島脱出型・漂着者」の方が圧倒的多数であり、ほとんどが歴史に足跡を刻むことがほとんどなかっただろうと推定できます。原住者の側からは、まだ文字を持ってない住民でしたから、語り継いでも、暫くして消滅しただろうと・・二つ目は、一つ目と比べて少数であったものの、そんなに極小という訳でもなく・・しかし、かなり大和朝廷に対して協力的だったように記録が残ります。

氷川神社:紹介ブログより
 
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◆:さて、大宮氷川神社の祭神のことである。
 1:須佐之男命 :男体社由来
 2:稲田姫命  :女体社由来
 3:大己貴尊  :簸王子社(中川神社)由来
いずれも、神話の時代の「神」である。神話であるから、古事記、日本書記に、その神話、逸話が多い。

 由来書より


ここでの表記は、とりあえず「大宮氷川神社」の由来書に準じて、「須佐之男命」としておくが、ほぼこの漢字には意味がないと思っています。この意味のなさは、8年後に書かれた「日本書記」の「素戔男尊」にもいえることで、まず「すさおう/すさのう」が俗称であって、意味は「荒くれ」の「荒王」ということで、ようやく渡来人によってもたらされた「文字」を、どうにか「当て字」に使ったに過ぎないと、当時の文化度を背景に考えると結論せざるを得ないわけで・・
「古事記」の編纂の「逸話」収集の出典は、散逸して既にないそうですが、古事記から八年後の「日本書紀」の編纂の資料収集の出典は記録が残っております。その全てではないが、大半が「同じこと」を記録していることを考えると、編纂者は違えども、同じ資料を使ったのではないかと推測が可能になります。


◆:「日本書紀」の原資料・・
『日本旧記』/『高麗沙門道顯日本世記』/『伊吉連博徳書』/『難波吉士男人書』/『百済記』
/『百済新撰』/『百済本記』/『譜第』/『晋起居注』
◆:記事内容の典拠・・
帝紀/旧辞/古事記/諸氏に伝えられた先祖の記録/地方に伝えられた物語/政府の記録/個人の手記
/寺院の縁起/日本国外の記録/その他
となっています。


ここから伺い知るのは、原典の大半が、朝鮮などの書によることと、編纂の担い手が「渡来人」ではなかったか?!ということです。
こうなると・・推して知るべし・・「すさのう(=荒王)」は「渡来人」ではなかったか・・と。


「逸話」そのものも、日本で起こったこととは限らなくなりそうです。こう読んでくると、昔習った日本史の史実が怪しくなります。それを、以下に書きます。


「物部守屋」と「蘇我入鹿」の争いは、「物部=神社派(国神派)」VS「蘇我=仏教派(外来派)という風に学んだが、「神社派」自体も、どうも外来であるようで、・・・となると・・・「外来先着派」と「外来後着派」の争いのように思えてならない。このことは、とりもなおさず、朝鮮半島の「権力争い」の代理戦争でもあったという意味合いが見えてきそうでもある。 ---・ここに、教科書とは違う歴史が見えてきます。

さて、、ここからは、「荒王」の別称・・「牛頭天王」についてのみ深堀することにする。


----- ・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。・------『平家物語』第一巻「祇園精舎」より


◆:平家物語の冒頭の部分・・この壮大で、もの悲しい旋律を伴った「叙事詩」は、琵琶法師の「琵琶」の奏でにのっても心地よい。「祇園精舎」も「沙羅双樹」も日本のものではないし、当時も今も、知る人なんて殆どいない異国の風景なのだが、それでいて違和感がほとんどない。諸行無常」、「盛者必衰」とは、仏教の教え」なのだ。


私は、この叙事詩が好きだ。


平家物語の作者」については、「徒然草」の吉田兼好が、「--- ・信濃前司行長、稽古の誉ほまれありけるが、(中略) この行長入道、平家物語を作りて、生仏しょうぶつといひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり ---・」と書中に明かしている。「信濃前司行長」は、「中山行長」というらしい。
◆祇園精舎は、インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)、にあった、昔の寺院であったそうで・・・、釈迦の説法をしていたところらしい。「牛頭天王」は、その祇園精舎の守護神とされていて、そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」とも呼ばれる。

八坂神社:ブログより


 
日本では「祇園」の名は、京都・「八坂神社」の祇園祭が起源と思われるが、平安のころ、疫病が流行した際に「鎮めの神」として「牛頭天王」を祭祀とした祭りが行われたことを源流とするようだ。「八坂神社」は、もともとは「感神院祇園社」と称したが、どちらかといえば「寺院」。神仏混交禁止により、「八坂神社」と改められたーーー・かなりおかしい話:もともとは仏教に関係する守護神なのだが、神仏習合の末の「フェイク」・・

 

八坂神社ブログより:祇園祭

 

◆:脱線 ・---
京都市下京区に「悪王子町」と「元悪王子町」と名の付く町があり、ここに「悪王子社」が祀られていた。「悪」は、現代語の「悪」とは意味合いが違い、昔は「悪=強力」と言う意味合いもあった。昔の逸話に出てくる「悪太郎」とか「悪***」の名前は、まさにこの意味である。江戸時代の水田の供給水路を「上水」といったのに対し、排水路を「悪水」といった例もある。「悪水」が下水・汚水のことではない。近所にある「見沼用水」は上水で、「芝川」は悪水と表現されているが、昭和初期ごろ(人口急増以前)まで、芝川は水遊びができ泳げたそうである。
---・牛頭大王の子供は「八王子」(七男一女)です。埼玉県飯能市竹寺(八王子):神仏習合


◆:牛頭天王は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。---・『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆:由来 ・---
『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、スサノオが新羅のソシモリという地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述がある。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという。


蘇民将来説話  --・『備後国風土記』
『備後国風土記』逸文に「武塔天神」と「蘇民将来」兄弟の話が出てくる。『備後国風土記』は奈良時代初期に編纂された備後国(広島県東部)の地理書であるが、現在は鎌倉時代の逸文として引用のかたちで伝存したものである。ここでは、牛頭天王は「武塔天神」と同一視され、親切に迎え入れた兄の「蘇民将来」に対して疫病を免れしめ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記している。本文に「批則祇園社本縁也」と記述された説話がそれであり、これは文献にあらわれた「蘇民将来」説話の最古の例である。


---・どうみても、巨旦将来も蘇民将来も、日本人の名前としては収まりがよくない。漢字圏だとすれば、中国か朝鮮の「逸話」だろうと思う。


「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3

2019-08-02 00:46:04 | 歴史

「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3

 

  

「保科御事歴」によれば、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >・保科正俊:永正8年(1511)- 文禄2年8月6日(1593/9/1)
     :異説・生:1509-没: 1593年
     :正俊:保科正則の子:法名・月眞
 >・保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***
   ・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
   ・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571
    (祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。

保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)
「天正十九年辛卯年九月六日薨去(卯年九月参日との差異?)1591年9月3日に死去」とあるが、千葉:匝瑳市:法華寺にある供養塔(/墓)と比隠してみると、千葉:法華寺にある方は、「天正十九年辛卯年九月六日薨去」です。「奉再建元禄三庚午年海音比丘之」は保科家関係者の「海音」という尼さんが元禄三年に再建」したとあります。
この3日間の差異の意味することは何でしょうか。また供養塔の所在地の違いは、一体何を意味するのでしょうか?実際の死去は、9月3日で館林・茂林寺付近、、葬儀の場所は、匝瑳市/多古町辺り、祥雲がかかわる善龍寺?とか、が素直に読める。

 


では、戻って「法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を見てみましょう。先述では、法名」と書いてあることから「祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を法名としましたが、禅宗では「戒名」とするのが一般的のようです。現在違いを意識して使う場合は、宗派僧侶を除いてはないようですが、つまりほとんど同義で使われているが、死後の世界観に差があり、法華宗では「戒」を行わないのが流儀といわれているので、前述を訂正し、以後曹洞宗に倣って「戒名」とします。
戒名・・
戒名は、上から「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」といった順番で漢字のみの列挙で構成されます。中国伝来のようです。
 1:「院殿号・院号」 ・祥雲院殿 ショウインインドノ
 2:「道号」 ・椿叟  チンソウ
 3:「戒名」 ・栄寿  エイジュ
 4:「位号」 ・大居士 ダイコジ

  ---・私の貧しい読解力からすれば、生前の業績をたたえるよりも、長寿を讃えているような戒名である。


祥雲院殿」はおそらく曹洞宗の寺院の建立にかかわっていると思われます。正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろうということです。つまり「善龍寺」の開基が「保科正則」ということです。
では、開山は誰でしょうか。寺院創建の時の僧侶は誰か?ということです。
荊室広琳」という名前が浮かんできます。内藤昌月」の実弟とあります。保科正俊」の子供との記述がどこにもありません。内藤昌豊の子の記述はあります。


荊室広琳」アラカルト・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
内藤昌月」の弟、上州:長生寺にて剃髪、その後松井田の「補陀寺」12代住職になる。時に、弟「内藤昌豊・昌月」は武田信玄に上州箕郷・箕輪城城代を任され、焼失した箕郷・善竜寺の再建を命じられる。善竜寺再興の際招じられたのが、昌月の弟「荊室広琳」。再興した時に、善竜寺は「満行山」と山号が改められた。
「木の下蔭」---
---・文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號くーーー・
文禄元壬辰年二月九日は、1592/02/09のことである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「その頃(1592)の城主内藤昌月兄弟=(保科正直)なるに依つて」とあるのだが、この城は明らかに高遠城であり、いつもお世話になっております。一般的には、保科家が、房総:多胡から高遠に帰還するのは、「関ケ原の合戦」以後としている歴史書が多い中、保科家の伝手で「荊室広琳」が高遠城内:法堂院の住職になり、その後、板町:桂泉院( 高遠町東高遠 2322)にを移したとあります。
これは不思議なことです。謎??
内藤昌月の没年は1588年(天正17年)で、小田原北条が、秀吉に攻められて落城した年号に一致していますから、この戦いの一連のどこかで戦死したものと思われますが、詳細の記録をいまだに読みません。
内藤昌月が戦死した後のことですから、「荊室広琳」を、まだ正式には保科家に戻っていない高遠の地へ招くことができるのは、保科正直が病身であることを考えれば、保科正俊以外考えられません。その保科正俊も翌文禄二年に死去します。
「保科正俊」は、歴史署の多くに記載されているように、本当に多胡で死んだのでしょうか?多くの歴史家は、存在を危うくした記録を点検照合することは当然できませんが、存在している古書の時代照合をサボタージュしなかったのでしょうか。


松井田:補陀寺 写真

 

補陀寺:開基・大道寺某の墓・北条側にあった松井田城主は、小田原北条敗北で散ったようです。

墓を作ったのは、補陀寺12代住職:「荊室広琳」だそうです。


「荊室広琳」という文字を眺めています。
「荊室広琳」は内藤昌月(保科正俊の三男から内藤家に養子)の弟といわれています。内藤昌月は、内藤昌豊の実子という説もかなり強く残っています。
板町:桂泉院の近く、芝平辺りを水源とする山室川が流れています。山室川の下流に近く、三峰川と合流する手前のほうに、「荊口」というところがあります。この「荊」と「室」が「荊室広琳」に使われています。このことはあるいは偶然かもしれまん。あるいは何かを暗示しているのかものしれません。


高崎・箕郷:満行山善龍寺 写真

 

 

内藤昌豊のこと・
参照:「探 三州街道」より
1:研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/s/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%8C%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%A5%90%E3%83%BB%E6%98%8C%E8%B1%8A%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E2%80%9D%E6%94%BE%E6%B5%AA%E2%80%9D%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%80%8D

2:伊那の工藤氏について 

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/0a8381a2698bd4b0159acdced0202646



結論は急ぎません。
「法名 祥雲院殿**榮壽***」(=保科正則)と「荊室広琳」と「内藤昌月」は、事歴を確認すると深い関係性を見出すことができます。
しかし、ここには保科正俊、保科正直、保科正光との関係性を見つけることはできません。そして、多胡時代の「保科正則」と「保科正俊」も行状も確認できていません・(保科正則」は夫婦の供養塔(墓?)のみを残しています。「会津へ移設」されてしまった故か?今では房総・祥雲山善龍寺の跡さえ多胡周辺で見つけることができません。
さらに言えば、高遠でも会津でも、藩主保科家の菩提寺は、臨済宗の建福寺になり、曹洞宗:善竜寺系統の昌月、広琳、正則と血統が違うのではないかと思えてきます。
さて、茂林寺の「法名 祥雲院殿**榮壽***」の供養塔に話を戻します。つまり、茂林寺のこの供養塔の誰が建立したかということですが・・上州に一番関係が深い身内の「内藤昌月」は、天正十五(1588)年に亡くなっています。保科正直は、病気で保科家を「正光」に譲って療養中のようです。保科正光は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており、多忙な日を過ごしていたようです。可能性が高いのは、残り保科正俊と荊室広琳のようです。古文書がないので断定できませんが、この「二りながら」の作業ではなかったjかと・・・。そして本流の正俊は、しばらくして死去し、本流の宗派・臨済宗・妙心寺派の寺に埋葬されたのではないかと・・・
荊室広琳は、松井田の補陀寺の第12代住職でもあったわけで、天正18年(1590年)の小田原征伐に関連して、北条側の「大道寺政繁」の松井田城が攻められて落ちており、補陀寺の大檀那の大道寺の供養で忙しかったようです。ちなみに、曹洞宗寺院の最初は、松井田・補陀寺であり、茂林寺は、補陀寺と兄弟寺(古川和尚談)だと思っていいようです。


でも、なんで「茂林寺」なのか?がいっこうにわからない。


(今回・・松井田:補陀寺と高崎・箕郷:善立寺へ行ってきました。「保科正俊」の墓は見つけられませんでした)
参考文献:平山優・真田三代 ・・保科正光は真田昌幸の婿に当たります。この書により、上野・信濃の「天正壬午の乱」を再確認・


・保科正直:天文11年(1542)- 慶長6年9月29日:(1601/10/24)
・    :保科正俊の子:法名・長元院:埋葬寺・長元院:
・    ;長元院:東京都港区虎ノ門3-15-6:浄土宗

・内藤昌豊(「内藤昌秀」)生:1522年 - 没: 1575/6/29
・内藤昌月:生・天文19年(1550)- 没・天正16年5月25日)(1588/6月/18)
・    :戒名:陽光院南雲宗英
・    :埋葬時・箕郷・陽光山善竜寺(満行山善竜寺)
・保科正則:      :法名。榮壽 榮壽
・    :祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/改名)




秋川の「伊奈」地名由来

2018-12-21 11:17:17 | 歴史

秋川の「伊奈」地名由来

高校Å組同級会・12/4

思えば、古希を過ぎている。
田舎の高校の、同級の輩と、最近同級会を重ねている。つまり・・
名所・旧跡を若干散歩した後
  ・・市ヶ谷で「飲み会」をして散会という件がほぼの内容・・
  散策の場所は、提案があることもあれば、幹事が決めることもあるわけで・・
  若干軽い場所もあれば、重い場所もある訳で・・
  市ヶ谷は、数人の大学時代の馴染みのようで、、
  各人の今の住まいからほほセンターらしくて、皆に不満はない。


  
12/4:皇居の中:乾どおり:紅葉狩り散策の折・・
・まじまじと皇居:江戸城の石垣を見た。
 ----- 夥しい数の石垣の石とところどころの石の大きさ・
 しばらくして、守屋の石工のことが頭に浮かんだ。


 
秋川の「伊奈」地名由来
 
多摩の奥に、秋川という川がある。多摩川の支流である。


支流と本流が合流する地点を昔から「落合」というのだが、そこが今は「あきる野市」というらしい。「あきる野」の由来は、「秋留」からとったが「阿伎留神社」が鎮座する。
「あきる野市」は秋川に沿って存在し、上流部は五日市、下流部は秋川に分けられ、その中間部に
「阿伎留神社」が鎮座する訳で・・

戦国時代・・信玄が死んで、子息・勝頼が跡を継いだ甲信国・・勝頼の居城は高遠城であった。勝頼は、信玄の西進の意を継いで、信長・家康連合に戦いを挑んで、奥三河・長篠の合戦に敗れた。その後、織田・徳川軍の来襲に備えて領国に戦費の負担を強いたといわれる。
時に、高遠・藤沢地区の片倉・松倉はほとんど水田を持たない場所で、過酷な徴税は生活の破綻に直結する。ここの村民は、生活の糧として石工の技術を持っていたものが多かった。かつ、時々出稼ぎとして、墓石や神社の灯篭などを作りに遠方に出かけることも多かった。
武田勝頼時代後期、先の地域の住民はほとんどが逃散していなくなったのである。
武田・織豊の時代が終わり、徳川の時代になると、保科正俊と正直親子が高遠を奪還し、片倉・松倉の旧村民を慰撫しながら村に戻したが、一部は逃散先に移住したものもあった。
その一部が、武蔵・秋川渓谷の伊奈であった。

彼らが、秋川谷を選んだのは、この川の渓谷が”豊富な石材”の宝庫だったからである。現在この川を有名にしているのは、清冽な谷川と風景とキャンプ場であり、都民の四季折々の憩いの場所である。とくに夏場の「秋川河原のキャンプ」は好評である。
高遠・藤沢の片倉・松倉の石工は、ここを終の棲家と定めて、石工の生業を始めたという記録が残っている。
この秋川の石材は、砂岩であった故、彫刻には極めて適していたのだが、砂岩質のため”風化”に弱かった。

      

織田信長が、本能寺で横死すると、弔い合戦を仕掛けた秀吉が勝利を収めた。豊臣時代になると各豪族に支持を持つ”家康”を、自分の領国近在におくと危険だと感じた秀吉は、家康の五国太守から関東・江戸に移封を命じた。当時の関東は荒野が多く、多くの収穫は見込めず、五国より低い生産力であったが、開拓すれば倍から3倍の生産余力を確信した家康は、江戸に入府したのだった。
家康とともに、関東に随伴した親藩は、道灌の江戸城を改築したのだった。

江戸城の石垣には、風化に脆い「秋川の石材」は使われなく、主に「伊豆稲取の石」が海上輸送されて使われた。
「家康時代」に、多胡姫を徳川家から貰っていた保科正直は、どうやら「高遠石工集団」を率いて、江戸城の石垣の加工技術の方で貢献したらしい。その時に、秋川・伊奈の石工は、もとは「高遠石工」でもあり、親戚縁者も多く、正直の配下として扱われた。
江戸城築城の後、「高遠石工集団」は、高遠へ戻ったものもあり、石工の技術を見込まれ、各地に散って定住したものも合った。

 

秋川の石工は、砂岩の脆さから風化が激しく、やがて”生業”としては成り立たなくなり、石工は農家に転業して土着したという記録が残る。
僅かに「石工」の痕跡のある「伊奈」という地名を残して・・

 


今は、五日市街道と呼ぶらしいが、街道が整備された当初は、「伊奈街道」という呼び名であったらしい。江戸城の石垣が崩れたときの修理の石材として、秋川・伊奈から江戸城までのルートである。石工集団として、保科正直配下であった高遠・秋川石工衆は、江戸城完成とともに解散し、秋川石工衆は、八王寺の大久保長安の支配下になって江戸城修復の任を担ったようだ。「伊奈街道」はその時の名残で、やがて修復の役目を終えると、五日市の炭や薪の運搬ルートになっていった。江戸の町の、まさに「ライフライン」を任された訳である。以来・・「伊奈街道」は「五日市街道」に名前を替え、五日市は、炭や薪や農産物の市で、大いに賑わったという。
時がたち、燃料や暖房は、・・・石油と電気に変わり・・「五日市街道」もかっての役目を終える。

 

伊奈(伊那)は、高校同級会の出身の高校のあるところ・・
名前に懐かしさを覚える・
伊奈備前にゆかりの地名もあれば、伊那地方本来にゆかりの地名もありで・・

写真・絵図面は「あきる野市広報」から

 


会津:善龍寺  飯盛山

2018-12-02 14:28:37 | 歴史

会津:善龍寺 飯盛山


同期会・(旧職場)・18/11/10 in 会津


会津は、古い城下町らしく寺が多い。しかし、会津藩士ゆかりの寺は、戊辰戦争で戦火に遭い焼失し、その後再建されたものも多いと聞く。
保科正之が、高遠藩から酒田(山形)へ、そして会津へ移封されたが、高遠から多くの家臣がこの移封に随行されたという記録が残る。併せて、高遠にあった藩主や重臣の菩提寺と目される寺院も随行され、酒田から随行した寺もある。

 

☆:まず、建福寺 山号・大宝山、臨済宗妙心寺派。           
  :---・ 寛永20(1643)年、高遠藩主/保科家の菩提寺である高遠/建福寺から、撤収禅師 (第5世) が供奉・し、無住であった長福寺の南町河原新丁に開基。
 養祖父/保科正直、養父/正光の位牌が安置され、その法号から「大宝」、正直の法号から「建福」がとられ、寺の名になったとされる。
 >河井継之助(・司馬遼太郎の小説「峠」)埋骨地 
 >島原城主/松倉重頼之墓


☆:善龍寺 曹洞宗の寺院 山号・祥雲山
  :---・保科家の元祖筑前守正則(法名:祥雲)の霊を守る

会津:善龍寺 会津藩主保科家の菩提寺として発展してきました。境内には会津藩家老西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した西郷一族を埋葬した「二十一人の墓」や会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。


  :---・善龍寺というのは、実は保科の旧領・高遠にはありません。千葉・多胡にありました。千葉・多胡は、家康が秀吉によって駿河から江戸へ入封されたとき、親藩・家臣団は家康にともなって関東に移りました。その時の保科家の移封先が多胡(匝瑳市)だったわけです。正之が養子となった保科家の養父:正光の父・正直が藩主だった時代のことです。この多胡時代の保科家が、上野国松枝(安中市松井田)の補陀寺から荊室広林という僧侶を招いて建立した寺が善龍寺でした。この多胡時代の晩期に、正直の祖父:正則が死去。従って、正則の墓は匝瑳市にあります。その後、幾多の変遷の後、保科家は会津の領主になりました。保科家の血流の西郷家は、多胡(匝瑳市)から、善龍寺を会津に移し、正則の位牌を開祖として会津・善龍寺に持っていき、会津・善龍寺を開いたわけです。山号となった「祥雲」は、保科正則の法名であります。
  :保科家の傍流である西郷家とは、正光の叔父の血統 --、つまり正光の祖父・保科正俊の三男(次男説あり)が叔父(正勝=会津藩筆頭家老)。その子・正近(正光の従弟)が外孫を養子に迎えたが、事情により生家の西郷姓を名乗った。
  :荊室広林  ---・保科正則の孫の源蔵(内藤昌月)を養子に迎えた内藤信量の次男が、大泉山補陀寺(安中市松井田町)の的雄和尚に学び ... その後、高遠城を継いだ保科正之が寛永13年(1636)最上(山形)転封の際に当時の桂泉院住僧英呑が付き従い長源寺に住、会津移封で泉海が下総の善龍寺と同じ号で祥雲山善龍寺を会津に開山...((KAZUSA


保科家の謎?


その1:・・開祖となった保科正則は何歳?まで生きたの??


・保科正則の歴史上の初見は・・「小坂城の現地説明板・・忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、*永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る」。この、*永享年中は、永享年間(1429-41)ですが、村上顕国や保科弾正正利の生存期間と合いません。誤記か偽造です。延徳年間(1489~92)保科正利は、霜台城を築城---・とありますから、保科家が、北信・保科から村上により追われたのは、1492年と推論されます。仮置きですが、この時に保科正則が元服を終えていたとするなら約10歳以上で、1482年生まれ以前ということになります。房総・多胡で天正19年(1591)9月6日に正則が亡くなるとなると約110歳以上・没になり、どう考えても当時の寿命を考えると辻褄が合いません。


その2:・・保科正俊の墓はどこに?

・次に保科正俊ですが、保科家を大名家に押し上げる土台を作った人物で、歴史を検証すれはかなり明白です。歴史書への露出は、最初は「高遠頼継」の筆頭家老・、次には信玄に、諏訪・伊那が蹂躙される時は、信玄と戦った後に家臣になっており、「槍弾正」として勇名をはせています。川中島の合戦では、後に婚姻関係を結ぶ真田昌幸の窮地を救い、親近・信頼関係を築いたといわれ、保科家の節目では昌幸と相談をしています。真田昌幸は、正俊の孫の正光が婿でもあるわけで・・養子・保科正之の義父が正光であり、正光の正室が真田昌幸の娘なのだから、昌幸も義理の曽祖父にもなるわけで・・
・その、保科正俊の墓が、ないのです。どこを探しても・・ないのです。


○:他に、保科正之公が会津拝領となり、従って移った"お供寺"としては、大龍寺、大法寺など。

   ---・こちらの寺は、”高遠以来”ではなく、前任地の最上(山形)から。


:大龍寺は、機外禅師が開山したお寺です。この寺も、「八重の桜」の山本家や、多くの会津藩士が眠るてらです。 大龍寺には、他に 武家社会の礼儀作法を伝える小笠原流の祖・小笠原長時の墓もあります。 天保年間、その長時によって、大龍寺の前身(桂山寺)が創建され、その後、寛永20(1643)年に保科正之が会津に入り、正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山しました。

 

飯盛山


白虎隊自決地・

少年の像が・・幼くて痛々しい・

鶴ヶ城が見える高台・・ここから城下の街の火災・煙を見て、落城と勘違いの判断をして自決したといわれています。

峠の戦いに敗走し、猪苗代湖からの疎水を、胸まで浸かりながら水路を飯盛山まで辿り着いた、と言われています・

池の奥の穴が、白虎隊が逃げてきた疎水の水路の穴です。


会津若松城(鶴ヶ城)・紅葉

2018-11-17 14:54:05 | 歴史

会津若松城(鶴ヶ城)・紅葉


同期会・(旧職場)・18/11/10 in 会津


鶴ヶ城が廃城になる前、戊辰戦争の銃弾で「ボロボロ」に痛んだ城はまさに「痛ましかった」という。廃城になり、民間に払い下げになった時、旧会津藩士・某は、私財をなげうって払い下げを受け、旧藩主・松平家に寄付した。それから期間が経ち、会津松平家の後裔は、城を、会津若松市に寄付し、地元の寄付で今の姿によみがえった。

今の姿は、コンクリート作りである。

広大な場内公園:若松公園は、「白虎隊」の末裔で、東京帝大の総長であった山川健次郎氏が公園博士といわれた「本多静六」(東京帝大農学部)さんに設計を依頼し、その設計を元に月日をかけて完成したものと聞く。
訪問した時が、ちょうど紅葉の時期であった。


会津城の戦いは、落城ではない。
約ひと月の戦いの後、戦死者を増やさないための開城であった・・


それにしても、美しいお城ですね!


川島・道祖土氏

2018-02-10 14:07:32 | 歴史

川島・道祖土氏

承前・(・道祖土神明社)

『新編武蔵風土記稿』には、次のような説明がある。---・
---・岩槻城の城主・大田氏の家臣に「道祖土氏」があり、道祖土氏が住居したゆえの地名であろう。---・場所は、むかしは三室の一部であり、今では道祖土の一部は「大東」という地名に変換しているようだ。---・「按ずるに比企郡上八ツ林村の農民治部右衛門は道祖土を氏とせり。其の祖先道祖土土佐守は、岩槻の城主太田美濃守に仕へしと云へり。これを見れば此所より岩槻は程近きところなれば、若しくは此の人など爰に住せし事ありて、それにより起こりし村名なるも知るべからず。」---・

時代背景を見てみよう。
「岩槻の城主太田美濃守」とあるが、太田資正のことと記録に残る。太田資正は1522年に生まれ、通称は太田源五郎。太田美濃守、太田民部大輔、晩年は太田三楽斎道誉と号す。太田道灌の孫にあたる。
太田資正の頃、小田原北条が膨張して、河越を拠点とする「扇谷上杉」を脅かし始めている。伊勢原で、道灌が北条に謀殺されていることを考えると、軋轢はもっと前ということのようであるが・大田家は、「扇谷上杉」の「家宰」の家筋であり、もとは横浜(都築郷太田庄)の守護代の家柄であったらしい。「家宰」を翻訳すると「家老」という意味が出てくるが、関東管領という職務を前提にすると、知行地の実務代行者の意味を加えて、家老よりも広い意味だろうと思う。

河越城の戦歴は、
1:)天文6年(1537):扇谷上杉,北条氏綱によって負ける:北条の持ち城
2:)天文14年(1545):関東管領上杉憲政が河越城を包囲。:膠着
3:)天文15年(1546):北条氏康、夜襲:奇襲で北条勝利

図:養竹院:太田道灌の陣屋跡:川島町

・川島町史によれば、岩付・大田氏は、道灌の時代には、江戸から川島へ移リ住、後に岩付に移ったとしています。痕跡を辿れば信憑性があるようです。 

扇谷上杉を主君持つ大田美濃守は、戦いに敗れたが、小田原北条の軍門に下ることを潔しとしなかったらしい。
この、小田原北条への反抗の豪族は、大田美濃、寿能城の潮田氏、富士見・南畑の難波田氏等であった。反攻の拠点を松山城と定めて、それまでは仲間だった松山城の上田氏を追って城をとり、拠点とした。
この時、大田美濃の家臣だった道祖土氏は、川島郷の居を移して松山城の大田美濃や難波田氏を支えた。
以後、道祖土氏は、川島・八林の住人となり、大田美濃が破れて片野へ逃避するも同行せず、その地の豪農になったという。

図:道祖土家地図:川島町・八林郷付近

図:善福寺:道祖土家菩提寺


図:道祖土家文書跡:/図:道祖土家文書

道祖土家文書は、埼玉文書館に寄贈・管理されています

道祖土氏は、馬上1・鐘打ち1・旗持1というから、かなり小さい家臣団の一人だったと推測される。戦争となれば、扶持無しの近在の小作・雑兵が5~15人が集団化する軍団だろう。雑兵は、一旗組なので不利と見れば離散する。道祖土氏は、三室から移住することによって、大豪農になったようだ。
それよりも貴重なのは、道祖土家には、主君・大田家からの指示書や軍役の招集状や功績に対する感(謝)状などがかなり残されており、当時の中級武士の生態などを鮮明に明らかにしてくれる古文書の類が残されているようだ。

・難波田氏 ・武蔵七党の金子党の系譜、岩付・大田氏の縁戚(寿能城の潮田と義兄弟?)大田美濃とともに松山城を守り後北条(小田原北条)と対抗。
・上田氏 ・東秩父の日蓮宗浄蓮寺が菩提寺。松山城主を追われて浄蓮寺に隠棲します。この地は、武蔵7党の丹党の大河原氏館跡と推測されており、上田氏も一族か?と・
道祖土氏の系譜は、川島で生活しています。大田氏家臣・道祖土氏は、道祖土氏(代官・豪農)の陣屋は、跡地となっています。現在の道祖土氏宅は、昔の陣屋と違うので、慎みとして探索は不可としましょう。


直虎 ・・覚書

2017-02-21 16:01:48 | 歴史

直虎 ・・覚書

最近、直虎が話題に上がる・・
2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」の直虎、、TVの主人公の話・・
もっと詳しくは、戦国期の遠州・今川家が全盛に期、、尾張に信長が台頭し始め、三河は吉良や徳川が群雄し、
甲斐では、武田家が隆盛しつつある頃の話、・・・
浜名湖の北、、井伊谷では、、名門・井伊家が逼塞していた。
井伊家の直系・直虎は、女だてらに今川家に対抗する・
徳川家康の四天王の”井伊直政”は、その頃は幼年、直虎の養子になり、家康の小姓になり、やがて井伊家を継承することになる。

というような、徳川幕府の有力家臣の井伊直政のストーリーを追いかけるのはTVに任せておいて、
それ以前の井伊家の物語を、少しだけ覗いてみる。

私が井伊直政の父・直親のことを書いたのは、2013年のことになる。あれから4年経っている。


参照:「南朝の道 秋葉街道 1」引用 2013-05-14 21:16:50 | 歴史
 ・・・井伊家は、松平・徳川家のなかで、各戦に参加し、武闘派として台頭していく。特に、織田・徳川連合軍が武田を破ったとき、信州は織田に、甲斐は徳川に領分され、井伊家は、武田の武闘派残党を組み入れ家臣とした。この武闘派集団の戦い装束は「赤備え」といって赤で統一された物で、「赤備え」もそのまま継承した。この時点から、井伊軍は徳川軍のみならず、豊臣軍までを含め、当代最強と言われる軍団を持つに至る。以後、江戸幕府時代、一貫して老中・大老を歴任して幕末に至るわけである。
井伊家が南信濃と関係する逸話がある。
戦国の頃、井伊家は駿河の今川家に圧迫されていた。形勢は不利で、お家存続の危機を覚えた井伊家は嫡子の亀ノ丞をしばらく隠すことになった。選ばれたのが、南信濃の市田にある松源寺である。松源寺と井伊家の菩提寺の龍澤寺は住職を通して関係が深かった様である。この亀ノ丞は後の井伊直親であり、直親は井伊直政の父である。また、松岡家が武田方として、織田・徳川軍に抵抗したことで改易されそうになったとき、井伊直政は松岡家を助けた。松源寺は松岡家の菩提寺であった為とされる・・

この時、私の意識の中には、名門・井伊家は、南北朝時代の南朝の支柱の豪族で、幾度となく南朝の「後醍醐の王子達」を助け、特に宗良親王は、ある時期には、浜松の井伊谷を拠点としていた。
この時、敵対する北朝の足利一族に、三河に吉良があり、吉良から派生した今川家は、井伊家の最大の敵であった。・・・吉良家は、足利一族の本家継承権の第一位であり、継承権第二位が今川家であるという、別家の存在。今川家の発祥は、吉良家の本貫地・西尾の今川町(西尾市役所の海寄り約1Kmの地籍)に起因する。やがて、今川家は駿河を本貫とした地頭となって移籍する。
南北朝の対立に起因する井伊家と今川家の対立は、ことあるごとに戦乱し、井伊家の当主は、その度に戦死を繰り返したという歴史。

 

井伊家が、今川家に深い恨みがあったかどうかの資料は見たことはないが、徳川の祖の世良田(新田一族)が、南朝の旗頭の宗良親王やその遺族を援けて落ちていった先に井伊谷であったとしてもおかしくないし、井伊家が、南朝同盟の誼で、世良田(徳川)の安住の地を手配した可能性は、仮説として充分にありうる、と構想したのだった。
世良田(徳川)の安住の地の最初は、愛知県・奥三河の設楽であり、井伊谷と設楽は鳳来を挟んだ近接であるという経緯は、今となっては想像しかないのだが・・ここで、世良田は「松平」という名を手に入れる。・・この部分は資料があるようだ。
この仮説には、かなり自信はあったが、いかんせん資料の裏付けがなかった。・・・といっても、真剣に資料を漁ったわけでもないのだが、、、先述の引用文の、歴史の背景の風景の話である。

そういえば、井伊直親のことを書いた、前の年・2012年、、、猫好きの家内を案内して、世田谷の豪徳寺へ行った。

井伊家の菩提寺である。華奢な感じが少しもない、剛健な趣の寺。ここが、世田谷吉良家の世田谷城跡と聞くと、歴史の皮肉を感じる。


金沢寺と鎌倉道上道 そして黒石神社

2016-04-30 22:25:58 | 歴史

金沢寺と鎌倉道上道 そして黒石神社


ゴールデンウィーク中の車での外出は基本的には億劫である。
しかし、あるブログで比企に”芝桜”があると知り、この時期の物見山の”つつじ”は毎年欠かしてないし、前から、比企・鳩山には”黒石神社”が四っつも集中してあるのが気になっていた。それに”金沢寺”という寺もある。


併せてこの付近は、鎌倉古道(鎌倉道上道)であり、古戦場として”苦林古戦場”と”笛吹峠古戦場”が近くにあり、中先代の乱の北条時行や宗良親王の南北朝期の戦の道でもあるし ・・・

 

 

家康が江戸に来て、江戸が政治経済の中心になると、中山道や奥州街道が主要な幹線道路になる。それまでは、”鎌倉道”は鎌倉を中心にして四方に延びていた道路であったが、役目を終えて少しずつ寂れていった。かって幹線道路であった「鎌倉道・上道」もご多聞に漏れずその運命を辿った。
「鎌倉道・上道」は、鳩山に、今宿という名を残して、かっての幹線道路の宿場の痕跡を残しているってことか ・・・

 

◆金沢寺 ・・”こんたくじ”と読む。
 ・当初天台宗の寺として、都幾川・慈光寺の末寺として創建(1218)。南北朝期は、宗良親王が天台宗座主だったこともあって、”笛吹き峠合戦”の頃、南朝に味方したと思われる。足利尊氏が権力を増長すると寂れ、曹洞宗に替わり現在に至る。

羅漢  表情がいい。

酒臭い人やにらなどの臭いの強い食べ物を食した人は寺に入らないでくれ・・という。どこかで見たが、”曹洞宗”の訓か。

寺の庭園・


◆苦林 ・・”にがばやし”とよむ。苦林の語句の妙さに由来を調べたが分りません。

 

四つの”黒石神社”

鳩山町議会議員野田さんのブログにこんな記載がありました。


・・・黒石の由来は
 ① 鉄鉱石が取れた・・・黒い石
   鉄鉱石を使うことは、朝鮮半島からの伝来。
 ② 流れ星(隕石)がご神体。
の2説があるそうです。・・・

もし”黒石”が鉄鉱石であるとすれば、黒石神社は”採掘場”か”たたら”の跡地を意味している可能性が高くなります。
神社が四箇所ということは隕石の可能性は低くなります。
このような”意味ありげな地名や建物”を見つけるとワクワクします。
ましてこの地は、古代より渡来人が移り住んだ土地柄です。
当然大陸系の渡来人は、鉱山の採掘の知識や技能を持っていたことが確認されています。
”鉄”を持った古代人は、その地に権力者として君臨したでしょうし、この周辺はそれを裏付けるものも出土されています。

 鳩山町大橋・黒石神社
 鳩山町熊井・黒石神社
 鳩山町須江・黒石神社.
 鳩山町竹本・黒石神社

 黒石神社の地図
 

・特に、鳩山町熊井・黒石神社 には「 内陣には長さ六0㌢と四七㌢の大小一対の灰色をした岩石が奉安さ」れているといわれています。この石が”鉄鉱石”かどうかは、専門家でないので分りませんがぜひ調べてもらいたいと思います。
・鳩山町須江は、”須恵器”につうじ、かってこの地が、瓦や須恵器などの土器の焼き物の生産基地だったことを窺わせます。

・祭神の中に、「軻遇突智(かぐつち)」神があります。軻遇突智神は、火の神、鍛冶の神として信仰されており、”鍛冶”の神が注目できます。
・ちなみに、「軻遇突智」神は『日本書紀』の言い方で、『古事記』では、「火之迦具土神」と表記されていますが、どうやら同じ神のようです。あるいは、「火産霊(ほむすび)」とも表記されるようです。
*祭神が表示していない黒石神社もありました。
 
・”火を使う”ので、瓦の釜のことかもしれませんが、鉄鉱石の採掘場か、たたらの跡のことだったら面白いのに、と思っています。
・黒石神社や瓦などの釜跡は、鳩川という川に沿って分布しているようです。

 

参考:蛇紋岩
蛇紋岩のことを”黒石”と呼ぶことが多いそうです。
蛇紋岩 ・・磁鉄鉱,クロム鉄鉱,自然銅,アワルアイト,滑石などを多少含む。
鉄鉱石の含有が認められているようです。


泉井神社と芝桜

2016-04-30 21:53:47 | 歴史

泉井神社と芝桜

あるブログに、比企に芝桜が群生している場所のことが載っていた。
つつじの物見山からそう遠くない。
”では”と、ついでだから寄ってみることにした。

場所は、鳩山・泉井。
”ぬぬ・・・!、近辺の地名は井戸(泉)ばかり” ・・・
 ・熊井・亀井・泉井・・・それも隣接している。
 ・となると、 ・・・ここいらは湧き水が多い地帯らしい。
 ・古代からだと、水田が早くから開かれていて、・・・
 ・となると、 ・・・溜池やら沼が多そうな気がする。
 ・などなど ・・・しかし道沿いには”沼”らしきは見つからない。
 ・など思いつつ・・・


神社があったので寄ってみた。

 泉井神社

 
 拝殿があり、奥に”本社”(本殿)もある。


 
 拝殿の写真に、”光の輪”が・・・ 不思議現象。
 

神社の先・・少し行ったところ、「ソーラーパネル」の敷地の背景に、芝桜・・


花の盛りをやや過ぎて、ちょっと遅かったか。