大宮宿 ・・・木曾街道 六十九次
中山道・大宮宿の版画絵を見ています。
富士山があり、桜が咲いています。右の土手の台地は・・大宮台地でしょうか。浮世絵の特色は誇張した表現・・ディフォルメにあります。この崖か土手がまさにそれ。左の端に青面金剛像の彫られた庚申塔が見えます。
桜咲く早春の風景のようです。
江戸日本橋から京へは、東海道53次と中山道69次の二つの道がありました。四宿一泊の原則に従えば、東海道で京に上れば十三日、中山道を選べば十七日、さらに霧ヶ峰の大門峠や木曽路は、箱根越えよりも難儀の多い旅だったと思われます。旅程も、四日余計に掛かります。
それよりも、今では”中山道”が一般的であるのに、木曾街道の名称が使われています。江戸時代は、”木曾街道”の方が普通だったようです。この部分は、少し斬新に思えます。
木曾街道の大宮付近は、江戸の初期には、氷川神社の参道を兼ねており、”恐れ多いこと”と判断され、参道と分離して中山道が整備されました。この中山道整備の奉行は、伊奈忠治(=関東郡代)で、中山道開道後に、参道脇の本陣、脇本陣、旅籠が新街道へ移されました。その時の関東郡代の陣屋は、記録では小菅陣屋とあります。・・・赤山陣屋ではないんですね。
浦和宿
浦和宿の風景は、煙たなびく山が描かれております。”浅間山”のようです。木曾街道・・木曽路は”支蘇路”と書かれています。他の画の中には、岐阻街道とも書かれていて、色んな当て字が見えます。大宮には富士、浦和には浅間、が街の借景のシンボルだったんですね。
・・中山道六十九次・絵・・・渓斎英泉・安藤広重
参考:小菅陣屋
小菅は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっている。なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。伊奈忠次や忠治は、家康の信頼が厚く、鷹狩りの時の休憩所(御殿)や駿河へ隠棲するための道路(現・中原街道)や途中の宿泊所(御殿)の造成も手がけた様です。・・・中原街道は、東海道が整備される前の、駿河への道だった、と言われています。
木曽呂は、木曽呂であって安行ではなさそうである。しかし地続きで、”植木の郷”安行の隣に位置する。
見沼の悪水・芝川は台地の間を貫流し上尾、大宮、浦和を流れ、川口を流下する。その台地が舌状に東から延びている場所が木曽呂。反対側の西から舌状に伸びている場所が大牧。東の木曽呂と西の大牧の付島間は、僅か八丁、・・ここに芝川を堰き止めて、広大な溜め井がつくられた。この溜め井の沼湖は、日光の中禅寺湖よりやや大きく、諏訪湖よりやや小さい。芝川の堰き止めを、八丁堤という。
寛永六年(1629)、伊奈忠治の仕事である。
八丁堤によって出来た溜め井は、川口を手始めとする足立郡の下流地域・221ヶ村に調整された水流を流し、新田と美田を作り上げ、幕府の収入を飛躍的に増加させた。
一方、溜め井になって見沼の沼を増大させた湖水は、沿岸に多大の被害を出し始めた。
享保7年(1722)に将軍の吉宗の命により、井沢弥惣兵衛は見沼の灌漑を手がける。下流への灌漑用水の供給と見沼の新田開発である。これは、八丁堤を決壊して水を抜き、新たに見沼用水路を開鑿して水を供給するという事業である。成し遂げた井沢弥惣兵衛は、見沼をも新田に変えたのである。
さて、川口市に属する木曽呂だが、奇妙な名前である。木曽と関係があるかと思って、御嶽神社を探してみたが、どこにも見つけられない。どうも、”崖”や”傾斜地”を表す”きそ”から出来た地名らしい。呂は”背骨”の意味を持つ。この「崖+背骨」の地形名が始めに出来て、木曽呂の文字が宛がわれた・・・恐らくこんな所だろう。
地続きの安行の地名も妙である。しかし、こちらの方は、比較的明確に歴史に刻まれている。
戦国時代、岩槻城主太田資頼の家臣に、中田安斉入道安行がおり、この地を治めていたという。この安行(やすゆき)の名前から、安行の地名が付いたという。
金剛寺・中田安斉入道安行の開基 ・・殿山城跡?
殿山城、たぶん陣屋の規模で、安行吉原、字立ノ崎。築城年は室町期で、主な城主は、吉岡将監・・・中田安斉入道安行の子だという。
歴史・・『新編武蔵風土記稿』には吉岡将監の陣屋と伝えている。吉岡将監は安行村の村名になった中田安斎入道安行の子であり、親子で岩附城主太田資頼(太田道灌孫)に仕えていたとされる。安行は明応五年(1496)に金剛寺を開基し、天文二年(1533)没。
なお、吉岡氏は現在も植木農家として存続し、吉岡氏が開基となった金剛寺も存続しており、安行の歴史を伝えている。
朝日神社 ・・・参詣記
朝日の字を分解すると、十月十日が見える。○○年十月十日、近在の氏神が合祀されて、朝日神社になったという。・・・なんとも安易な神社名。
別名を木曽呂の氷川神社ともいう。しかし、祀ってある祭神の中に「須佐之男命」や「奇稲田姫命」が見えない。大宮氷川神社の改装の時、古き建材を譲られて、神社を建立した歴史があるという。無関係とまではいえないし、仮冒とまでいわないが、氷川神社とは別流と見ていいのでは、と思う。
風渡野近くの綾瀬川・田園風景・・・
大宮の綾瀬川沿いに、風渡野という風雅な地名の所がある。とりわけ、いつも風が吹いている様子もない。大宮という土地柄から、急速な住宅造成が多いが,どちらかと言えば、やや遅れて、田園風景が残存している地区でもある。隣接は、綾瀬川を挟んで岩槻の立地位置。
この風渡野を含んだ地方は、かって七つ郷と呼ばれた。七つ郷、すなわち七里は、風渡野村、門前村、東宮下村、新堤村 、膝子村 、猿ヶ谷戸村 (蓮沼)、大谷村の旧七村が付けた村名だが、今は存在しない。大宮と岩槻に電車が敷設された時、七里と岩槻の間が長いので間に駅が出来、"加倉”と名付けられた。やがて、加倉は、岩槻に属し綾瀬川の氾濫原・・いわば河原だったようで、15年の営業の後廃駅となった。加倉は、岩槻の地籍であるが、旧来の生活圏は七里に領するのではないかと想定する。東武野田線、七里駅、加倉駅については詳しく教唆いただいた。この場を借りて感謝する。
七里に隣接して、宮ケ谷塔の地名の地区もある。
ここで興味を引くのは、門前村、東宮下村、宮ケ谷塔の名前である。
どうやら、かっては、七里地区は、”宮(=神社)”を中心にして、門前の名前を残すぐらいの規模の”宮(=神社)”が存在していたことが、浮かび上がってくる。この宮が、大宮氷川神社や中山神社では、距離感が不自然である。
風渡野の天神社
宮ヶ谷塔の由来は、谷戸の中に、宮があったことから名付けられたと思われる。・・谷戸とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。谷、谷津、谷地、谷那などとも呼ばれることもある。・・・風渡野天神社の 南北方向は ずーっと 台地の上で平らですが 東方向はすぐに綾瀬川沿いの低地へと急に下ります 西方向は なだらかな斜面。
宮の東側に位置するのは、門前、東宮下。
天神社の由緒・・クイックで拡大 参道からの宮風景
ご神木由緒・・クイックで拡大 ご神木
さて、風渡野の名前の由来だが、どうも”風に纏わる風雅な地名"というわけでもなさそうである。この地の”谷戸”の地形が、女性部分の”ほと”に似ているところから名付けられ、少し変形したというのが、定説のようで、つまり風雅な文字は後付け。・・・神社を尊敬するかっての世界観は、生命を謳歌する思想が流れていて、かなり”おおらか”で明るかったようである。そこには、子孫繁栄とか生命力に関しては、未来への強い信仰があるようで、仏教の”輪廻”の世界観とは違って、力強い。こういった、開けっぴろげで明るい世界観、生活感は、嫌いではない。
もう一つの宮・・宮ヶ谷塔の氷川神社
風渡野に隣接して、宮ヶ谷塔地区がある。ここにも”宮”がある。宮ヶ谷塔の氷川神社という。天神社との距離は、約500mぐらい。この宮ヶ谷塔の氷川神社も、付近の信仰を一身に集めた”宮”の可能性もある。さて・・・と比べてみると、規模と氏子の数に大きな差がありそうな・・・、奉納の石碑、石柱、幟旗、灯籠・・数が違いすぎて、門前を持つ宮は、どうも”風渡野天神社”と比定するに至る。
七里・風渡野地区の中心の”宮”は、どうやら”風渡野天神社”、昔はもっと大きな規模を持っていた・・・と結論してみたが、証左は乏しくて、確証を得ない。果たしてどうであろうか。
大宮の桜の花見で有名なところは、・・・
大宮公園、第二公園、びん沼川沿、花の丘公苑、見沼自然公園・・・でしょうか
大宮公園は、桜が大木化して、花の位置が上がりすぎて、・・・
それと氷川の杜はカラスのねぐらになっていて、時々弁当など襲撃してきます。
今回は、第二公園の池付近・・・ここは池の周辺と、見沼用水と芝川と
・・・桜並木が重層して、かなり壮観です。
もう、散り始めています・・ 通路は・・霜降りの状態に・・桜の敷詰めです。
花の丘 ・・ 正式名称 大宮花の丘農林公苑
さいたま市西区新井124
チューリップは、どのくらい咲いたのだろうか・・・
花の丘公苑・・案内図 なぜか”苑”の方の文字
苑の全体像 ・・・広大につき、端の方まで見渡せません
枝垂れ桜は、満開・・・
今日は、チューリップを見に来ました
チューリップ畑は、苑内に数カ所 ・・・花の咲いていない畑もあります
黄色とのコントラストは、まさに春・・です
芝桜 だと思います ・・・秩父・羊山公園のと比べて相当早い!
ムルチコーレ ・という花だそうです ・花の名札有り
ネモフィラ ・という花だそうです ・花の名札がありました
場所は、聖学院大学の近く、17号と上尾道路の中間ぐらい・・・
上尾道路は、17号バイパスで、将来圏央道桶川インターに通じる予定、とか・・
花が、いっぱいの、いい公園です。
見沼自然公園と見沼用水縁沿道の桜・・・満開
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○ ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ ・・西行
桜の花びらの短命は、古来より、人命の儚さと重ね合わせて、日本人の生き様についても、
特別な美意識を醸成してきた。人生の散り際(終わり方)の美学とでもいうのか・・・
桜の花を見ると、華やかな表舞台とその裏に潜む死の影を、”ふと”、見つけてしまう。
西行の、この和歌の花が、如月(2月)の花と示しても、読み人は、梅ではなく桜だと確信して読んでしまう。
公園内の山桜?
公園内の、紅木蓮? 否・・紫木蓮!が正解
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公園内の、姫辛夷
桜の名所・新宿御苑・・・
御苑の小彼岸桜を見に来ました ・・満開・・
玉藻池・内藤家庭園
新宿御苑は、桜の博物公園のようで・・桜の種類はかなり多いようです・・・
大寒桜、カンヒ桜、ママベニ枝垂れ、枝垂れ桜、修善寺寒桜、、兼六園キサクラ、イヌ桜、シロタエ桜、エド彼岸桜
バイゴジジュズカケ桜、高遠小彼岸桜、横浜ヒサクラ、ヨウコウ桜、大島桜、寒桜、ヒマラヤヒサクラ、山桜、・・・
正直、どれがどれだか分かりません・・・カンヒ桜はかなり色の濃い、山桜系は白っぽい、寒桜系はやや濃いめ、とか
花見客は、多いです
木瓜と桜 赤とピンク
久しぶりの新宿御苑です。久しぶりの程度は・・・45年ぶりぐらい。昔は・・代々木から歩いて、千駄木門から・・
新宿門や大木戸門は、よく知りませんでした。 ・・・というより、あまりに久しいので”お上りさん”状態です。
今日は、新宿門より入場・・・ 入場料は45年ぐらい前も¥200だったような気が・・・
Admission ticket ・ Please scan here
満開の桜は、特に桜の色が、ピンクで、柔らかくて・・・それが優しく思えて、優しくなって、
・・うろうろ うろうろ ・・と、一時間ぐらい・うろうろ・して 帰りました。
帰りは、御苑から新宿駅の方へ、歩きました。
昔、新宿へ出ると、おなかがすいた時は、
たまに、「アカシア」の”ロールキャベツ”か中村屋の”カレー”を食べたことを、
思い出しました・・・ アルタ裏の 「アカシア」へ ・・と
それで、東口・アルタ前にいくと、こんな新聞を、手配られました………
「号外」・・ ? ではなく、 ・・ 「特報」・・ です…
”タモリ”の ”笑っていいとも” の、最終日 ・・・ これは記念になりますす ・