ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

迎賓館

2019-08-28 00:12:24 | 建造物

迎賓館


 

・迎賓館 、つまり「赤坂離宮」見学・・
・東京近辺在住の高校の同級会のメンバーで、、
入場は有料でした。管轄は「内閣府」、つまり国賓等の接遇用の施設だそうです。
撮影は、内部は禁止・・外観は「Ok」とのこと・・
  従って、写真は下記のみとなります・



夏の暑い日・・

噴水は、、涼しげでした



和風別館は、修理中とのこと・・

そののち、一行は、流れて「市ヶ谷」へ・
いつもの如く・・まずは「ビール」の乾杯から始まる宴・・

 

8/9:記


匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4)

2019-08-19 08:11:24 | 神社・仏閣

匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4)


「正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう」---・実は、この文章に惑わされた。

匝瑳に、「祥雲山善龍寺」は、いまあるのか?あるいは過去にはあったのか?
実は、今回の匝瑳での調査はこれが目的であった。「今あるのか?」は、ネット社会なっており調査は容易であり、結論は「なし」である。
問題は、過去には、匝瑳という土地及び周辺に「善龍寺」という寺院が存在したかどうかであるのだが、付近を聞き及んだ限りにおいて、存在した事実は確認できなかった。


さらに深堀する・・
寺院の創設には、開山と開基を必要とする。開山は「僧侶」で、開基は仏閣設立の費用を賄うスポンサーがいることが前提となる。まれに、開山の僧侶が仏閣創設の費用を捻出場合もあることはあるが極めて稀である。
この場合の開山は、寺の名前が「善龍寺」であることから、「廣琳荊室」であることに疑問を挟む余地はほとんどない。


しかして、開基であるが、・・・
ここで、多胡時代の「保科家」の履歴を時系列に羅列してみる・


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・1590年(天正18年):徳川家康の関東入封に従い、信濃:高遠城主保科正直が下総国多胡へ1万石で移籍。
・1591年(天正19年):正直、九戸政実の乱鎮圧に出兵・
          :(保科正則(天正19年9月3日)死去
・1592年(天正20年:文禄元年):正直、正光、秀吉の朝鮮出兵の後詰として肥後名護屋城へ出陣(--・文禄の役)。
・同年、正直病気のため「正光」へ相続。保科正光が保科家の当主となる。
・1593年(文禄2年):朝鮮出兵・休戦
          :京極高知信濃飯田城城主・箕輪(高遠城管理)
          :保科正俊( 文禄2年8月6日(1593年9月1日))死去
・1595年(文禄4年):豊臣秀次切腹事件・
          :木曽義昌が下総網戸において死去・
          :小笠原貞慶が下総古河において死去・
・1597年(慶長2年):再び朝鮮出兵が開始(慶長の役)・
・1598年(慶長3年):豊臣秀吉死去・
          :慶長の役終結・
・1600年(慶長5年):家康・上杉景勝の会津征伐へ進軍・正光も参加
          :関ケ原の合戦」へと続く・
          :保科正光 関ケ原の戦いの時、遠江浜松城を守備・
          :保科正光 越前北之庄城に城番・
          :保科正光 高遠城に復帰(2万5千石
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

香取:樹林寺


さて、保科の多胡藩時代の城主は天正18年から数年「正直」であったが、相続以後の多胡藩はほとんど「正光」であったことがわかる。
しかもである、騒乱の最中・激動の10年間のほとんどを、「正光」は、家康の忠臣として、城主は領国を留守にしていたわけである。

この時留守を預かり多古の民政をおこなった保科家臣は、家老北原采女佐(光次)、篠田半左衛門(隆吉)、一ノ瀬勘兵衛らだったようだ。
病身で隠居した「保科正直」は、香取の「樹林寺」を祈願寺としていた記録が残り、高遠帰還の時は兄弟寺として樹林寺も連れ帰った。

臨済宗妙心寺派の宗派は高遠戻った時、同じ宗派の「建福寺」が保科家の菩提寺になり、「保科一族」の依る「樹林寺」につながったことから、筋書きは合理的とみられる。


多胡時代の1593年までに、一切の身上の露出をしない「保科正俊」はどうしたのであろうか。この件は、「保科正則」も同じであり、保科家多胡統治時代以後の、それも墓(供養塔)のみの露出である。そもそも保科正俊・父の保科正則は、確か「赤羽記」によれば、小笠原家三家の内訌に松尾系に与して駒場で戦死しているというこの疑問は、不思議として残る。

保科正則夫婦の供養塔(墓)?


諏訪神族の「名跡」は、諏訪祝一族も高遠諏訪家も保科一族も同じ名跡が間隔を置いて繰り返し継承されるという法則性がある。まるで歌舞伎や落語界や老舗商家の「名跡」継承の如くであり、故に歴史を紐解くときに解明を困難させる例が多い。
保科家では、正利から隔世で正俊へ、正信、正則など、高遠諏訪家では頼継などが例である。


こうして検証してみると、匝瑳地区における善龍寺の過去と現在の「存在」の有無に影すら見せないと同時に、開基は「正直」「正光」ではありえず、わずかの可能性の「正俊」も文禄2年に亡くなっているのが事実とすれば、開基の存在しない寺の創設は幻であったと結論せざるを得ない。


つまり ---
--- 正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺」は嘘であると結論する。


ここで「廣琳荊室」のこの時代の履歴を掲示して確認しておく。

龍澤山桂泉院


出典は【木の下蔭】---・
・廣琳荊室・・信玄家臣内藤修理信量の次男・
・天正十年(1582年)正月上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職・(1582年:箕郷:善龍寺住職)
・的雄和尚の遺命によつて補陀寺に轉院す大壇大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる(1582年:松井田・補陀寺12代住職
・天正十八(1590年)七月落城・大道寺政繁討死す・・遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ。翌年(1591年)松井田の・・・本院殿閣を新城に移す。政繁の爲に新に塔院を記す。(大道寺政繁戒名=來炫院殿光淨清大居士:廣琳荊室が弔った」ということ)
・文禄元(1592年)二月亨寅長老に補陀寺を護りて當城(高遠城)の法堂院に退去す。
・其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つて・・・他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば・・依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る。
・則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く。
・其後慶長九(1604年)・・五鴈遷寂す。門弟子師の遺骨樹塔を補陀(寺)善龍(寺)當寺(桂泉院)三ヶ所に分る。
-----
【木の下蔭】によれば、「廣琳荊室」と保科多胡藩との関係は一切出てこない。時系列から見ても、多胡・匝瑳に善龍寺を建立する隙間は一切見つからない。
ここで奇妙な事実は、まず箕郷に善龍寺を再建した後、松井田・補陀寺12代住職になった廣琳荊室は、戦死した大檀那:大道寺政繁を弔って墓碑と供養塔を建立し、焼けた補陀寺を再建した後高遠城に来ているということ。その時期は、家康が江戸入府し家臣がこぞって関東に移り住む時期と重なるのだ。保科正直が高遠城からいなくなる時期に、内藤昌月が城主であったという。内藤昌月が高遠城主であれば、弟の廣琳荊室を自分の城下に招くことは不合理ではない。


こんなことは起こりえるのか?
天正壬午の乱以後の整理の時期に、小田原北条翼下にあった内藤昌月は、真田vs北条の戦いの後「真田」に与したという事例が残る。このに秀吉が加わり、北条亡き後、上杉vs徳川vs秀吉の構図ができ、真田は、沼田を割譲する代わりに、代替えとして、信濃:箕輪(高崎の箕輪ではない)を宛がわれたようだ。その時の真田の命で執行官(代官)が内藤昌月だったら、高遠城主が「昌月」だった可能性があるかもしれない。
そして、高遠城の法堂院から、竜沢の桂泉院に移ったのは、京極高知が飯田城主になり、高遠城の管理も兼ね、管理が厳しくなったので桂泉院に移ったのだろう。


ここには、記載された年号と数年の単位の誤差があるのだが、調整のにおいを感じる。


香取神宮 参詣・

2019-08-12 16:19:36 | 神社・仏閣

香取神宮 参詣・

 

     もともと(延喜式神名帳では)「神宮」という神社は3つだそうです。


「伊勢神宮」「香取神宮」「鹿島神宮」・---
あと、石上神宮、熱田神宮、明治神宮、北海道神宮、伊弉諾神宮、英彦山神宮などもある。通称は出雲大社だがまれに出雲大神宮とも呼ぶこともあるという。

 

 

 

    :鳥居をくぐると鬱蒼とした社叢・・

炎天をドライブしてきた身としたらつか間の涼・・

 


  :由緒・・

神宮の風格は、威容堂々・・流石・・

  :本殿・


本殿脇にこんなものが・・



香取神宮の親」とあるが、何だろう?か

多胡・匝瑳へ調べ物があったので出かけたのだが、折角なので寄り道をした次第です。
昔佐原へは仕事で何回も足を運んでいたのですが、いつの間にか「佐原市」は無くなり、香取市佐原になっていました。今日は佐原の市街地方面には寄りません。
小見川、匝瑳・多胡方面へ来ました。時期ならアジサイがきれいだと記憶にありますがその花の季節はとうに過ぎています。


「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3

2019-08-02 00:46:04 | 歴史

「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3

 

  

「保科御事歴」によれば、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >・保科正俊:永正8年(1511)- 文禄2年8月6日(1593/9/1)
     :異説・生:1509-没: 1593年
     :正俊:保科正則の子:法名・月眞
 >・保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***
   ・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
   ・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571
    (祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。

保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)
「天正十九年辛卯年九月六日薨去(卯年九月参日との差異?)1591年9月3日に死去」とあるが、千葉:匝瑳市:法華寺にある供養塔(/墓)と比隠してみると、千葉:法華寺にある方は、「天正十九年辛卯年九月六日薨去」です。「奉再建元禄三庚午年海音比丘之」は保科家関係者の「海音」という尼さんが元禄三年に再建」したとあります。
この3日間の差異の意味することは何でしょうか。また供養塔の所在地の違いは、一体何を意味するのでしょうか?実際の死去は、9月3日で館林・茂林寺付近、、葬儀の場所は、匝瑳市/多古町辺り、祥雲がかかわる善龍寺?とか、が素直に読める。

 


では、戻って「法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を見てみましょう。先述では、法名」と書いてあることから「祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を法名としましたが、禅宗では「戒名」とするのが一般的のようです。現在違いを意識して使う場合は、宗派僧侶を除いてはないようですが、つまりほとんど同義で使われているが、死後の世界観に差があり、法華宗では「戒」を行わないのが流儀といわれているので、前述を訂正し、以後曹洞宗に倣って「戒名」とします。
戒名・・
戒名は、上から「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」といった順番で漢字のみの列挙で構成されます。中国伝来のようです。
 1:「院殿号・院号」 ・祥雲院殿 ショウインインドノ
 2:「道号」 ・椿叟  チンソウ
 3:「戒名」 ・栄寿  エイジュ
 4:「位号」 ・大居士 ダイコジ

  ---・私の貧しい読解力からすれば、生前の業績をたたえるよりも、長寿を讃えているような戒名である。


祥雲院殿」はおそらく曹洞宗の寺院の建立にかかわっていると思われます。正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろうということです。つまり「善龍寺」の開基が「保科正則」ということです。
では、開山は誰でしょうか。寺院創建の時の僧侶は誰か?ということです。
荊室広琳」という名前が浮かんできます。内藤昌月」の実弟とあります。保科正俊」の子供との記述がどこにもありません。内藤昌豊の子の記述はあります。


荊室広琳」アラカルト・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
内藤昌月」の弟、上州:長生寺にて剃髪、その後松井田の「補陀寺」12代住職になる。時に、弟「内藤昌豊・昌月」は武田信玄に上州箕郷・箕輪城城代を任され、焼失した箕郷・善竜寺の再建を命じられる。善竜寺再興の際招じられたのが、昌月の弟「荊室広琳」。再興した時に、善竜寺は「満行山」と山号が改められた。
「木の下蔭」---
---・文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號くーーー・
文禄元壬辰年二月九日は、1592/02/09のことである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「その頃(1592)の城主内藤昌月兄弟=(保科正直)なるに依つて」とあるのだが、この城は明らかに高遠城であり、いつもお世話になっております。一般的には、保科家が、房総:多胡から高遠に帰還するのは、「関ケ原の合戦」以後としている歴史書が多い中、保科家の伝手で「荊室広琳」が高遠城内:法堂院の住職になり、その後、板町:桂泉院( 高遠町東高遠 2322)にを移したとあります。
これは不思議なことです。謎??
内藤昌月の没年は1588年(天正17年)で、小田原北条が、秀吉に攻められて落城した年号に一致していますから、この戦いの一連のどこかで戦死したものと思われますが、詳細の記録をいまだに読みません。
内藤昌月が戦死した後のことですから、「荊室広琳」を、まだ正式には保科家に戻っていない高遠の地へ招くことができるのは、保科正直が病身であることを考えれば、保科正俊以外考えられません。その保科正俊も翌文禄二年に死去します。
「保科正俊」は、歴史署の多くに記載されているように、本当に多胡で死んだのでしょうか?多くの歴史家は、存在を危うくした記録を点検照合することは当然できませんが、存在している古書の時代照合をサボタージュしなかったのでしょうか。


松井田:補陀寺 写真

 

補陀寺:開基・大道寺某の墓・北条側にあった松井田城主は、小田原北条敗北で散ったようです。

墓を作ったのは、補陀寺12代住職:「荊室広琳」だそうです。


「荊室広琳」という文字を眺めています。
「荊室広琳」は内藤昌月(保科正俊の三男から内藤家に養子)の弟といわれています。内藤昌月は、内藤昌豊の実子という説もかなり強く残っています。
板町:桂泉院の近く、芝平辺りを水源とする山室川が流れています。山室川の下流に近く、三峰川と合流する手前のほうに、「荊口」というところがあります。この「荊」と「室」が「荊室広琳」に使われています。このことはあるいは偶然かもしれまん。あるいは何かを暗示しているのかものしれません。


高崎・箕郷:満行山善龍寺 写真

 

 

内藤昌豊のこと・
参照:「探 三州街道」より
1:研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/s/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%8C%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%A5%90%E3%83%BB%E6%98%8C%E8%B1%8A%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E2%80%9D%E6%94%BE%E6%B5%AA%E2%80%9D%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%80%8D

2:伊那の工藤氏について 

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/0a8381a2698bd4b0159acdced0202646



結論は急ぎません。
「法名 祥雲院殿**榮壽***」(=保科正則)と「荊室広琳」と「内藤昌月」は、事歴を確認すると深い関係性を見出すことができます。
しかし、ここには保科正俊、保科正直、保科正光との関係性を見つけることはできません。そして、多胡時代の「保科正則」と「保科正俊」も行状も確認できていません・(保科正則」は夫婦の供養塔(墓?)のみを残しています。「会津へ移設」されてしまった故か?今では房総・祥雲山善龍寺の跡さえ多胡周辺で見つけることができません。
さらに言えば、高遠でも会津でも、藩主保科家の菩提寺は、臨済宗の建福寺になり、曹洞宗:善竜寺系統の昌月、広琳、正則と血統が違うのではないかと思えてきます。
さて、茂林寺の「法名 祥雲院殿**榮壽***」の供養塔に話を戻します。つまり、茂林寺のこの供養塔の誰が建立したかということですが・・上州に一番関係が深い身内の「内藤昌月」は、天正十五(1588)年に亡くなっています。保科正直は、病気で保科家を「正光」に譲って療養中のようです。保科正光は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており、多忙な日を過ごしていたようです。可能性が高いのは、残り保科正俊と荊室広琳のようです。古文書がないので断定できませんが、この「二りながら」の作業ではなかったjかと・・・。そして本流の正俊は、しばらくして死去し、本流の宗派・臨済宗・妙心寺派の寺に埋葬されたのではないかと・・・
荊室広琳は、松井田の補陀寺の第12代住職でもあったわけで、天正18年(1590年)の小田原征伐に関連して、北条側の「大道寺政繁」の松井田城が攻められて落ちており、補陀寺の大檀那の大道寺の供養で忙しかったようです。ちなみに、曹洞宗寺院の最初は、松井田・補陀寺であり、茂林寺は、補陀寺と兄弟寺(古川和尚談)だと思っていいようです。


でも、なんで「茂林寺」なのか?がいっこうにわからない。


(今回・・松井田:補陀寺と高崎・箕郷:善立寺へ行ってきました。「保科正俊」の墓は見つけられませんでした)
参考文献:平山優・真田三代 ・・保科正光は真田昌幸の婿に当たります。この書により、上野・信濃の「天正壬午の乱」を再確認・


・保科正直:天文11年(1542)- 慶長6年9月29日:(1601/10/24)
・    :保科正俊の子:法名・長元院:埋葬寺・長元院:
・    ;長元院:東京都港区虎ノ門3-15-6:浄土宗

・内藤昌豊(「内藤昌秀」)生:1522年 - 没: 1575/6/29
・内藤昌月:生・天文19年(1550)- 没・天正16年5月25日)(1588/6月/18)
・    :戒名:陽光院南雲宗英
・    :埋葬時・箕郷・陽光山善竜寺(満行山善竜寺)
・保科正則:      :法名。榮壽 榮壽
・    :祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/改名)