ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

不老川のこと 三富のこと:追記

2015-06-27 16:48:08 | 街 探求!

不老川のこと 三富のこと:追記 

承前
三富の開拓のため、柳沢吉保は、箱根ヶ崎の池から水路を引こうとしたが、どうもうまく行かなかったようだ、詳しからずと前回書いた。
気になっていたので、地図を眺めてあれこれ想像した。・・・ こういう思考の彷徨は好きである。

不老川

 


新河岸川 不老川との合流点

まず川越 ・・・
川越は武蔵国の古都である。今でこそ、大宮や浦和や川口に、人口では抜き去られ、所沢のあとに位置しているが、明治以前は武蔵国随一の町であった。
川越は、名のごとく川を界にしている。今をして思えば、荒川が境界の川の最たるものという思いがあるが、実は入間川の方が、川越の界川に相応しい。さらに、入間川と平行して流れるのが小畦川で、小畦川は、川越・落合橋付近で入間川と合流する。荒川の今の水路は、せいぜい江戸初期からのことである。その他に、川越を流れる川と言えば、新河岸川であろう。新河岸川の水源を尋ねると、赤間川、九十川、不老川とある。赤間川は、入間川を取水として川越城下を流れる川で、恐らくこの乱流が伊佐沼をつくったのだろう。伊佐沼を水源とする九十川は、流下して新河岸川に繋ぐ。赤間川も同様に新河岸川に繋がる。
さて、ここで不老川だが、本来の名前は「としとらずがわ」という。今では、読み方の煩わしさから、「ふろうがわ」と読む人が多くなり、どうも「ふろうがわ」が一般的になった。
不老川の水源は、箱根ヶ崎・狭山が池である。この水路は、狭山丘陵の崖下を沿って流れ、入間、堀兼、入曽を通って、川越・今福辺りを通過して、新河岸川に繋がる。
新河岸川は、江戸時代、川越藩主・松平信綱が水運用につくった川である。松平信綱は”知恵伊豆”の異名をもつ切れ者であった。当初の目的は、喜多院の建築資材を、江戸から運ぶためのものだったという記録が残るが、やがて川越付近の農産物や物産を江戸へ運ぶための大動脈になった。初期の頃は、新河岸川の水量が足りず運搬に度々支障が出て、何度かの改修を経て今の水路になった。水量を確保するため、川を蛇行させたのである。そのため、陸路十三里が水路ではほぼ倍になったという。新河岸川の名前は、その頃付いた名前で、水運の名残を表している。当然元の川の名前もあっただろうが、詳らかではない。

狭山湖


多摩湖


狭山池


イントロの部分が長くなったが、話は‘不老川’のこと。
狭山が池を水源とする”不老川”は、冬場は渇水して枯れ川になることが多いと訊く。そう聞くと、狭山が池の水量は豊富なのかどうか、気になる。
箱根ヶ崎の狭山ヶ池とはどんなんだと調べて見ると、箱根ヶ崎は、都下・瑞穂町になり、池は、入間と所沢と瑞穂町の境界あたりの、狭山丘陵でも標高の高い丘陵山林部分である。もっと分かりやすく言えば、西武球場のある辺り。ここは、湧き水が豊富で、湧き水を貯めて、狭山湖、多摩湖という人造湖をつくり、都内への水道の供給源になっているのだ。ちなみに狭山湖、多摩湖は通称で、狭山湖は山口貯水池、多摩湖は村山貯水池が正式名称である。要するに、水量は豊富なのである。

多摩川


狭山丘陵 丘陵の上に富士山が覗く

紀元前、何万年か何十万年前、多摩川は、多少乱流していたが、本流は入間川に合流していた。古多摩川の流域が、不老川の流域に重なる。多摩川は、水源の山岳が、秩父山岳と岩場と違い、山肌から土砂を削り取り、下流に堆積させたという。狭山丘陵は、基本的には多摩川のつくった堆積層の丘陵と言うことになる。紀元前の、いつ頃か分からないが、断層があり、両側から押されて盛り上がった。これが狭山丘陵の隆起で、多摩川は、その時以来狭山丘陵の西側を流れるようになった。いまの多摩川の水路である。恐らく、狭山丘陵を隆起させた断層は、立川断層というのだろう。しかして、狭山ヶ池付近の水源は西へ流れ、多摩川水系の支流になった。と言うことは、多摩川に向かって傾斜していると言うことなのだろう。

もっと要点を抽出して明確に言うと、不老川(古多摩川)の流域は、古多摩川時代水量が多く、沿岸に堆積層をつくり、かつ削って、流域を低地にした。それに、武蔵野台地と狭山丘陵は、つくられた経緯が異なり、地続きだが、成り立ちの違いから土壌の構成が異なるのだ。
以上の条件から、不老川の水脈を、武蔵野台地に流すことはかなり困難な事業と予想できる。水は、低い所から高い所には流れないのだ。それと、不老川の水量は、水源地の地理的な制約から、豊富とは言えないのだ。

不老川

蛇足の雑記 ・・・
不老川のことを、武蔵野風土記では 年不取川と表されている。不老川は、冬に干上がる。
名前の由来は ・・・ 旧暦正月に年齢を重ねる習慣における加齢の際にその姿を現さないため「年とらず川」と呼び習わされている。また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承もある。

 

川越城

柳沢吉保が川越城主になる数代前の川越城主は松平信綱(伊豆守)であった。

二人とも、幕藩の官僚として治世に優れた業績を残した。徳川時代を通してみても、この文官達は秀逸である。
松平信綱が、川越藩主時代に行った治世で、優れたものを二つ特筆すれば、一つには川越城下に‘市’を設けたこと、今一つは、新河岸川の水運の水路の開拓であろう。川越城下の市は、川越を”商業都市”として繁栄させて関東でも有数の商業都市になった。新河岸川の水運は、急増する人口の江戸への、食料の供給源になった。川越藩の新河岸川沿いは、出自の家系のもっとも得意とする所、伊奈組の治水と開拓のエキスパートである。信綱自身が詳しくなくとも、関係者は、ほぼ治水の匠である。父である大河内久綱は、関東郡代頭・伊奈忠次の家臣であり、天領・寄居の代官であった。松平の姓は、養子先の苗字。
優れた民政を行った信綱であったが、三富の元・三芳野の武蔵野台地の開拓には手を付けていない。

 

平林寺(新座市) 秋の紅葉が美しい

蛇足の雑記 ・・・
松平信綱の幼名は三十郎と呼ばれる。父は大河内久綱で、伊奈町小室に生まれた。父・久綱は、小室の藩屋敷と寄居の陣屋を往来する。小室の久綱邸は特定できていないが、幼少の三十郎の遊んだ場所と神主から寺子屋風に学んだ場所は、蓮田・八幡宮と記録に残る。従って、八幡様に近い伊奈町の範囲が比定できそうだ。この幼少の神童と呼ばれた始めはここにあり、封建の階級制度を飛び越すような養子制度を自ら求めて飛翔していった。封建的階級制度が機能している時代、養子制度は階級を飛び越す裏技であり、かってに名付ければ”煙突機能”と呼びたい。なお、明治維新が成ったとき、大河内松平家は、本来の大河内家に戻っている。菩提寺は、野火止の平林寺。秋の紅葉の美しい寺である。

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三富のこと

2015-06-22 12:31:28 | 街 探求!

三富のこと

”三富”のことを、つい先頃まで「さんとみ」と読んでいた。
従って、「富のいも」も、同様に「とみのいも」だと思っていた。無知の無恥の至りである。
サツマイモの大生産地川越の”さつまいも”は、”川越いも”と呼ばれるが、詳しくは”富のいも”のことである。別名は、江戸時代、江戸からの距離にちなんで、”十三里”とも呼ばれる。
実は、「富のいも」や「三富」は、”とめのいも””さんとめ”と読むのが正しい。
「富のいも」は富で生産される”さつまいも”のことであり、「三富」は地名である。

いつの頃からか、珍しい地名に出会うと、つい地名の裏に隠された由来などを詮索するのが好きになった。

今回も、その地名探索の一環である。

ほたる文庫より
 ・・・
柳沢吉保、三富新田開拓に着手
 元禄7年(1694)7月、長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で、川越藩の領地であることが認められました。これにより川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老曽根権太夫らの家臣は、まず開発に従事する農民を集めました。その出身地は上富村名主忠右衛門、中富村名主喜平次は亀久保村から移住したように、主に近隣の村々から集まったようです。開発が始まってから2年後の元禄9年(1696)5月に検知が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができあがりました。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものです。
開拓農民の知恵と努力
 武蔵野台地に位置する三富新田の開発は、次のような開拓農民の知恵と努力によって成し遂げることができました。赤土を肥沃な土に 栄養分が少なく水はけの悪い赤土(関東ローム層)には大量の堆肥が投入され、肥沃な土へと変貌することができました。
水を求めて
 吉保は野火止用水の例に習い、箱根ヶ崎の池から水を引こうと考えましたが実現にはいたりませんでした。そこで、三富全域で11ヶ所の深井戸(約22m)が掘られて数件が共同で利用することとなりました。しかし、日照りのときはその深井戸さえも水が涸れてしまい、数km離れた柳瀬川まで歩いて水を汲みに行ったということです。
風を防いで
 雨の少ない時期には季節風が畑の乾いた赤土を舞い上げ、それこそ「赤い風」となって吹きまくりました。そこで、三富の開拓農民は、畑の畦にウツギや茶の木を植えてこれを防ぎました。
 こうした厳しい自然条件のもとでの生活でしたが、当時の開拓農民たちは根気よく自分たちの土地を耕し続け、だんだんと耕地からの収穫量を上げていくこととなります。
 ・・・   三芳町の歴史より

三富の地域とは、上富・三芳町、中富・所沢市富岡とその周辺、下富・所沢市富岡の一部と狭山市堀兼辺りと言うことになっています。東武東上線の上福岡駅から柳瀬川駅までの路線の西側を指しているようです。
新座に柳瀬川と川越に不老川(新河岸川上流部)が流れていますが、この間の広大な台地には、他に川らしい川がありません。
土壌は、関東ローム層の赤土です。赤土は、火山灰が降り積もった土で、火山灰の中の鉄分が酸化し赤くなったと言われています。栄養分はほとんど無い痩せた土壌で、その上微粒子の粘土層というおまけ付きです。微粒子の粘土層は、雨が降れば泥土化し、乾けば微粒子が故、強風で砂塵化して砂嵐になります。
関東ローム層の赤土は、深層20m以上に蓄積している模様です。そのため飲料水を得る井戸は、深さ20mより深く掘らなければ地下水脈のある瓦礫層まで達しません。これでは個人の力では及びません。技術の進んだ現代では、優れた掘削機もあり、深掘りの穴も容易でしょうが、江戸初期以前は、この地の関東ローム層は、人が住むことを拒んできました。
江戸時代・元禄の頃、川越藩の領内のこの地区の開拓で、共同使用の井戸が掘られましたが、最大のもので44mの深さになったそうです。しかし、干ばつの飢饉の時その井戸も枯れてしまい、付近の住民は柳瀬川まで水を汲みに行かなければならなかったと言います。三富がまだ三芳野と呼ばれた頃の話です。

所沢・航空公園から見た”砂嵐”

 

関東ローム層・所沢の砂嵐 ・・・
国道16号線の都心寄りに、平行して走るのが463号線・通称・浦所街道。
この街道を、3月の晴れた、風の強い日に、車で走るのは、かなり勇気の要る行為なのだ。
3月は、比較的晴天が続き、冬枯れした農地には、いまだ農作物が生えそろわずに大地を露出している場合が多い。関東ローム層の赤土の微粒子は乾いて強風に巻き上げられる。これが所沢名物の砂嵐だ。この砂嵐で、陸送のトラックドライバ-には、3月の浦所街道は鬼門の街道として有名である。
実は、かって自分も3月初旬だったと思うが、浦所街道の英IC前後で、この砂嵐に遭遇したことがあった。前方100m先からが全く視界が利かなかった。


三富の地名が付く前の三芳野は、人の住めない原野と雑木林であったと、容易に想像がつきます。そして、この”原野と雑木林”は、付近の郷村の共有管理地(=入会地)でありました。ここからは、農作物は育たなく、燃料用の枯れ草と枯れ枝しか得ることが出来ませんでした。否、ちょっとだけ言い換えると、この厄介者の赤土の粘土質は、壁土として商品になり明治の頃まで流通していました。入間川や新河岸川の水運の船荷の中に、”所沢の壁土”の物産の記録が残っています。

関東ローム層の赤土 ・・
火山から遠いこの武蔵野台地に、20m強~40m強の火山灰が降り積もっていた、と言うことはにわかには信じられません。この武蔵野台地の赤土の層は、他の地区の関東ローム層よりもはるかに深い堆積なのです。
関東ローム層の堆積は次の様に説明されています。・・「火山周辺に堆積した火山砕屑物(火山灰など)が、風雨などによって再度運ばれて周辺に堆積したもので、関東ロームの場合は風で舞い上がって降下したものである。端的に述べると露出した土壌から飛散したホコリである。したがって、火山が噴火していないときにも降下物が供給される限りロームは堆積し続けており、関東ロームは毎年0.1 - 0.2mm、100年で1cm - 2cm、1万年で1m近く積もる。火山灰起源の場合、粒径が3mm以下であれば風化作用を受けやすく、関東ロームではほとんどが粘土化している。関東ロームはその色から赤土とも呼ばれるがこれは含有する鉄分が風化により酸化したもので、酸化があまり進んでいない最近1万年分は黒色をしておりこれは黒ボク土と呼ばれる。」
どうやら、火山灰が主だとしても、そればかりではなさそうである。それに、毎年0.1mmだとして100年で1cm、1000年で1m、1万年で10m ・・・算術的には理解可能としても実感としてはほとんど理解不能の世界で、気の遠くなる話 ・・・


それに、武蔵野台地の火山灰などの堆積の厚さは、どうもこの地は、風のたまり場であった、故の現象としてしか説明が付きません。風のたまり場は、いかにも文学的な表現で、風景としては艶めかしいが、突きつける現実は、かなり厳しいものであったようです。

三富の事 ・・
家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸の人口は急増していった。江戸の人口の急増に伴って、周辺からの食糧の供給は急務であった。関東郡代・伊奈家を中心に、関東の大河・利根川と荒川を中心とする氾濫原の大湿地帯を、耕地・農作地に開拓する治水事業は、世紀の大プロジェクトとして成果を上げつつあったが、それでも食料は足りなかった。
元禄の時代を迎えて、人々は窮乏の禁欲的生活から解き放たれて、精神が解放される時代になってきた。元禄は文化の時代でもあった。贅沢になり始めたのである。
人々は贅沢になったとしても、自然災害・天災をコントロールすることはできない。周期的に襲ってくる天災は、飢饉となった。

そんな元禄の頃、川越城主として柳沢吉保は登場する。
吉保は、川越藩の財政強化と領民の富裕化のため、江戸への食糧の供給のため、不毛の台地・三芳野の開拓を始める。荻生徂徠の提案を受け入れたものであった。
”三富”の命名は、荻生徂徠が”論語”から引用して名付けたものらしい。どの部分からか探したが、簡単には分からなかったのだが、「不毛な台地を、豊穣な台地へ」変えようという願いを込めた地名であることは確かなようだ。

吉保は、神田川の先例を学んで、まず三富へ川を引こうと思ったがうまく行かなかった。水源は箱根ヶ崎の池だと聞くが、水源の水量が不足していたのか、標高の高低差の問題か、そこは詳しくない。

次ぎに吉保のとった方法は、まず共用の井戸を掘り、農民を移住させることであった。
その為に必要と思われる農地と屋敷用の敷地の提供である。そして、痩せた赤土を、養分の豊富な黒土に変えるノウハウであった。これを指揮したのが、川越藩士・曽根権太夫である。
この「農地と敷地」のことは次の様に記されている。

・・・ 「特徴としては、幅六間(約10.9m)の道の両側に農家が並び、その一軒の農家ごとに畑、雑木林が面積が均等になるように短冊型に並んでいるという地割である(例えば上富村では、一戸の間口が四十間(約72.7m)、奥行き三百七十五間(約681.8m)、面積五町歩(15000坪=約49500平方m)となっている)。この地割の方法は北宋の王安石の新田開発法を参考にしたといわれる。」・・・「この整然とした地割と景観は現代まで良く残され、1962年には、旧跡として埼玉県指定文化財に指定されている。」
・・・ 最近、この”地割と景観”は「農地遺産」として世界遺産の登録の申請をしていると聞いている。

三富の地区に多く残る雑木林と屋敷林は、関東ローム層の赤土の風塵を防ぎ、大量の落葉を一カ所に集めて発酵させて腐葉土を作る。痩せた赤土に養分を与えてくれる肥料の自家生産装置なのだ。

三富地区は、こうのように開拓されてきたが、なにせ”水脈”はないので水田はほとんど無い。
この地区の農民が苦労して、生活の糧の生産が軌道に乗り始めたのが、”薩摩芋”の生産であり、”お茶”の栽培であった。この”薩摩芋”のことを”富のいも”、”お茶”のことを”狭山茶”と呼ぶが、すべからく、三富と周辺の”産物”のことである。”薩摩芋”の生産が、この三富が適地であったと言うよりも、腐葉土を作るときの発酵熱が”薩摩芋”の生産を助けたといった方がいい。三富の農民が、苦労した工夫が名産を生んだようである。

柳沢吉保のこと ・・・
柳沢吉保は、どうもストイックな、禁欲的な人間である。
活躍した時代が、江戸・元禄の頃。戦乱の世は、遙か彼方に遠くなり、ぼつぼつ人々は平安をむさぼり始めた元禄時代は、人間解放の時代でもあり、元禄文化が花開いた頃である。
元禄文化は、・・・朱子学、自然科学、古典研究が発達した。尾形光琳らによる琳派、土佐派などが活躍、野々村仁清、本阿弥光悦等による陶芸が発展、音楽では生田流箏曲、地歌の野川流が生まれ、また義太夫節や一中節などの新浄瑠璃や長唄が生まれた。また、俳句の松尾芭蕉、小説の井原西鶴、文楽の近松門左衛門、歌舞伎の坂田藤十郎、市川團十郎などが活躍した時代である。
こんな時代に、人間の欲望を制限するような政策を次々と打ち出す柳沢吉保は、いたって評判が悪かった。
元禄文化はM8.1の元禄地震(元禄16年・1703)と、M8.4の東海・南海・東南海連動型地震の宝永地震(宝永4年・1707)、同年12月の富士山の宝永大噴火の発生によって終焉した。
柳沢吉保は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導。
・柳沢氏は武田氏一門で武川衆に属した。
・万治元年(1658)上野国館林藩士・柳沢安忠の長男に生まれる。
・延宝8年(1680年)、館林藩主・綱吉が将軍徳川家綱の将軍後継となると、吉保も幕臣なる。
・綱吉の寵愛により側用人になる。
・元禄7年(1694)武蔵国川越藩主(埼玉県川越市)となる。同年老中格。同年大老。
・元禄8年、駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる。
・宝永元年(1704)、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊がなると、綱豊の甲斐国甲府城を所領。
・宝永6年(1709)、綱吉が薨去で失権。綱吉近臣派の勢力失う。隠居。
・・・一般的な評価と違って、この三富では、”柳沢吉保”の評価はかなり高い。表面の出ていない業績があるのかも知れないが、知られている業績で判断すると、名君の評価に相応しく思う。

 

三富の旧名を、三芳野としたのは多少独断です。異論がある場合は、ご連絡下さい。
・・・ 古書による三芳野の初見は、在原業平の「伊勢物語」です。
ただ、三芳野の地名を確認すると、坂戸に三芳野の地名と小学校があり、狭山・入曽に同様の地名と小学校があります。また、川越城隣接にある天神様は三芳野神社と言います。勿論、独断の根拠にしたのは、三芳野から派生したと思われる三芳町です。この一帯を統べて三芳野とすると、いかにも広すぎの感がするのは確かです。伊勢物語では、「・・・入間郡の三芳野・・・」という表現になっています。現代の名付けでは、この地方の警察署は”入間野警察署”、農協は”入間野農協”という使われ方もあります。
以上の点から、もしかして”三芳野”の地域を三富周辺と比定したのは、一般と認識と離れているのかもしれません



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”天変”が起こったか? 

2015-06-17 17:53:24 | 草・木・花 風に吹かれて

突然に、空に”黒い筋”が走った ・・・

”天変”が起こったか? 

天変地異の、地異 ・・・ 地上の方は何事も起こっていないのだが ・・・

”黒い筋”は”竜巻”かとも思ったが、飛行機雲の一種で、やがて周りの雲に同化して消えていった。

 

虹 ・・・

こんなのばかりだと楽しい。

 

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睡蓮

2015-06-10 14:15:17 | 草・木・花 風に吹かれて

睡蓮

午前中の柔い光に花が開いています・・・


 









浮島の島影に、・・鴨が休んでいます


睡蓮も、水面に影を落としています ・・・

 

  ○鴨日和 水面に睡蓮 ゆらぎをり  ・・庄

 

鴨は本来渡り鳥だが、渡らぬ鴨が公園に居着いている。
その鴨たちが、早朝水草などの餌を漁り、
  満腹して水面に遊び、ひなたぼっこしているしている”さま”が、鴨日和 かと ・・・
   ・自分が持っている簡単な辞書には、”鴨日和”の言葉は無いのだ・。


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春日部と麦わら帽子

2015-06-08 01:23:40 | 街 探求!

春日部と麦わら帽子

春日部の麦わら帽子
古利根川が流れる春日部は、昔から米や麦の生産地として栄えてきました。多くの農家は、麦を五本編みこんで組紐状にした「麦わら真田」作りを、副業としていました。そして明治10年頃、この麦わら真田を利用し、手縫いで帽子を作りようになったのが春日部の麦わら帽子の始まりといわれています。明治25年頃になると、・・、麦わら帽子の生産地として全盛を極めていきました。・・・ 春日部市の案内より

どうも、麦の栽培は春日部に限ったものではなさそうである。
利根川の流域を探って見ると、春日部辺りから古利根川、利根川流域は小麦、大麦の大生産地として、昭和の中頃まで隆盛を極めていた様子である。
今では、稲作の裏作としての”麦畑”を景色としてみることは希になってしまったが、その要因は、外国から安い小麦粉が大量に輸入されるようになり、採算が合わなくなって、冬の田園から、麦畑が姿を消していったようである。最盛期には二毛作どころか、三毛作もあったというのだが。
それでも、かっての麦の大生産地の名残は残っている。
埼玉北部、上州の利根川沿いに残る”うどんの名店。品質のよい小麦粉の代名詞・館林の小麦粉。小麦粉のメーカー・日清製粉の拠点などなどがそれ。最近では、麦の種類を替えて、上州や北埼玉には”地ビール”作りも盛んなようだ。

さて、話は麦の穂の方でなく、藁(=茎)のほうである。
麦わらを平たく織って紐状にすると”きれいな幾何学模様”になる。
この麦の平な織り紐を螺旋状に繋いでいくと円形の敷物状になる。この円形状のものを、頭部にかぶれるように窪みを付けて整形し、型を固定化させれば、”麦わら帽子”になるのだ。

最近の”麦わら帽子”は美しい。
白いのは、脱色したのだろう。
この脱色麦わら帽から、色づけされて、カラフルな麦わら帽子が生まれる。
繊細な幾何学模様の、自然の風合いは、まさに芸術品の域。夏の実用の必需品からここまで変わった。

そもそも日本には、帽子を”ファッション”として身につける土壌は、そんなにあるわけではない。あるのは、健康上の日差し除けとしての実用のレベルであった。
夏に、野良で働く、あるいは野外で遊ぶ子供らの、日差し除けの実用であった。野球やゴルフなどの野外の帽子着用も、概ね前者と共通の目的であった。

もともと、ファッションの帽子は、婦人用も紳士用も”貴族的衣料”という覚えがあって、身近であるという意識は薄かった。西欧では、帽子は”ステイタス”の意味合いもあると聞いている。日本での貴族の帽子の歴史は意外と古い。恐らくは、聖徳太子の冠位十二階という身分制度に始まると見てよい。これも、中国からの輸入物で、以来脈々と朝廷文化の中で伝統を繋いできた。見た目から判断すると、鶏冠(・とさか)をモチーフにしたデフォルメであろうが。違うかも知れない。中世に盛んであった”烏帽子親制度”は、朝廷内政治勢力の派閥力学の原点の派閥生成に大いに利用されたようである。いずれにせよ、一般庶民には、烏帽子は馴染みがなかったのは、言うまでもない。多少の関心があるのは、自分の出身の高校の立地する村(当時)のごく近くが、高級帽子のファッションを先導する「ベルモード」(昔・麹町、今・虎ノ門)の創立者・筒井さんの出身だったことを人づてに聞いていたからに過ぎない。「ベルモード」は宮内庁御用達としても知られるし、都内デパートの制服帽子、日本航空などのキャビンアテンダントの制服帽の納入元としても有名。名前の由来が、フランスの首相を務めた”ポアンカレ”から頂いたものというのもその時知った。ポアンカレは、紛らわしいが、”天才数学者・ポアンカレ”の方ではない。

”麦わら”に話を戻そう。
麦わらの平織りの紐は、”麦わら真田”あるいは”麦稈真田”と呼ばれる。真田の名前の付いた紐であるから、素材を麦わらにした真田紐であることが容易に想像がつく。


真田紐は、戦国の世に、強い紐を必要とした真田家が作ったとされるが、その部分は疑わしい。もっと昔に外国から伝わり、綿と絹で強化して実用化に熱心だったのが真田家で、関ヶ原で敗れた西軍の真田昌幸・信繁父子が九度山に蟄居していたとき、生活費捻出のため生産・販売したとされ、”強い真田の強い紐”と人気になって各地に広まったとされている。

真田昌幸

真田紐も、現在では帯紐や携帯のストラップ、桐箱の結び紐など美術品の領域まで達しているという。

 

梅雨が明けると、夏 ・・・
 風鈴の短冊羽根が風に泳ぎ
  縁側に、佇む麦わら帽子のひと 

この麦わら帽子のつくりはうつくしい

こういうのも、芸術と言っていいのではないかと、・・ふと思う。
そういえば、昔読んだ本に、「限界芸術論」というのがあった。
確か鶴見俊介の書いたものの記憶がある。「思想の科学」の中にあるのかも知れない。
本箱を探しても、昔の雑誌類は何処にもない。捨ててしまったのかも知れない。
「限界芸術論」というのは、・・・
芸術と生活との境界線にあたる作品、と覚えているが、記憶が覚束ない。
人間の作る道具なりが精緻を極めてくると、美的体裁を整えて芸術品の域にまで達する。
これがソレに当たるのではないのか、と思ったが、確かめる術がない。

こんなことを思ったりして、春日部の麦わら帽子を探索している。
春日部も、いろんな懐を持つ街 ・・・

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雨が降っています。梅雨入り・・でしょうか!

2015-06-05 21:16:37 | 草・木・花 風に吹かれて

雨が降っています。梅雨入り・・でしょうか!

紫陽花は、ほぼ・・咲きそろいました。 ・・去年より早く咲いています。

○ 紫陽花の 濡れ一色と 染まりおり  ・・偽一茶(庄)  

 

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古墨田川

2015-06-05 11:31:32 | 街 探求!

古墨田川

彷徨して、思わぬ地名に出会うとき、その地名の歴史を尋ねることは好きである。
由来を探って見ると、そこに積もった歴史の悲哀を感じ、その土地も好きになる。
”古墨田川”は、岩槻と春日部を流れるやく5Km弱の短い川であるのだが、川の名前がいかにも歴史がありそうで、どうやら探求の誘いに負けてしまった。

春日部は、昔”粕壁”と書き、関東の大河、利根川と荒川の合流地点の、いわば”氾濫原”で、高台の一部を除けば、人が住めるようになったのは、伊奈忠次、忠治の、利根川・荒川の東遷・西遷の治水事業の以降のようである。今一つの特色は、日光東照宮を建立の折、寄せ集められた”腕利きの大工”が、東照宮完成の暁にそこそこの給金を貰い帰途に就いたとき、粕壁の地に至って、ここが気に入って住み着き、桐を材料とする産業を興したという。昨今、ニュースを賑わした”大塚家具”も元を糺せば、東照宮帰りの”桐箪笥”職人だったという。
氾濫原は、桐の木の育成に都合がいいのかも知れないが、そこは詳しくない。

「今は昔、・・・」
この書き出しは、”昔話・むかしばなし”の常である。

 ・古利根川と古墨田川の合流地点(春日部市)・

古墨田川は、”ふるすみだがわ”と読まれる。今の読み方である。荒川と利根川は合流した以降の下流の大河が本来の墨田川ということ。岩槻の”平野”辺りを発祥として豊春を通り、春日部で大落古利根川に落合する河川のことである。
大落古利根川は”おおおとしふるとねがわ”と読ませる。この川は中川の支流で、流域の農業排水路を兼ね、下流で葛西用水路に通じるため、”大落・おおおとし”の名前が付いたと思われる。
江戸時代、関東代官頭・伊奈忠次、および関東郡代・伊奈忠治、忠克など三代にわたる利根川の東遷の大事業以後の、現代に続く河川の風景である。

では、伊奈氏の利根川の東遷以前の風景はどんなであっただろうか?

 ・在原業平像・

今は昔、・・・
在原業平なる歌人がいた。生没が、天長二年(825)-元慶四年(880)とあるから、平安初期の人物であろう。彼は、自叙伝の物語「伊勢物語」を書いている。
ここで、優れた歌人であった業平の和歌を記述してみると ・・


 ○ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは ・・小倉百人一首
 ○世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
 ○名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
                              いずれも『古今和歌集』

 ・春日部八幡神社参道・都鳥の碑・

さて、「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 ・・・」は、墨田川の岸辺で、かもめ(=都鳥)を眺めて作った和歌だとされている。
この墨田川の岸辺は、墨田区に”業平橋”があり、付近に”言問橋”までご丁寧にあるので、つい先頃まで、あの辺りが、在原業平”ゆかりの地であると思い込んでいた。

 ・都・墨田区の業平橋・

埼玉県道二号線という道路がある。本当はもっと長いが、大宮、岩槻を通り春日部に繋がる、変哲もない番号県道であるのだが、実は余りの交通量の多さに”バイパス”に本家を奪われた、旧国道十六号の格下げの現在名である。地元では、旧道十六号の方が馴染み深い。ちなみに国道十六号は、交通量の多さで日本有数の路線になっている。
この県道二号線が、岩槻から春日部に入って直ぐ、古墨田川を渡る橋も”業平橋”という。

 ・春日部の業平橋・

ここに、在原業平ゆかりの”業平橋”の二つ目が出てきてしまった。
学者に言わせると、「在原業平ゆかりの”業平橋”」はどうもこちらの方が本当らしい。平安時代初期には、東京の墨田区は海中か、せいぜい浜辺であり、迫り上がって川口近辺まで海が広がっていたのではないかという。

 ・古墨田川風景

今は昔 ・・・
その頃、荒川は今の”元荒川”の流域を流れ、利根川は今の”古利根川”の流域を流れ、渡良瀬川を合流しない利根川の水量は、荒川の水量に及ばずに乏しく、利根川の方が荒川に合流していたのではないだろうか、と言う説である。このとき、古墨田川は、利根川の水流を荒川へ運んで繋いだと言われている。今とは、川の流れが”逆さ”になっていたという。
平安時代の古書を尋ねると、それらしき記述が見受けられるというのだが、・・・。それに、この付近は、それを可能とする海抜の低地であることは確かだが ・・・。

 

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