ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

神社の儀式

2017-05-26 02:37:51 | 神社・仏閣

神社の儀式

興味のない人には、たいくつな話・

そのむかし・
  神社は、「むら」の中で、生命謳歌と人生節目に、”役割”がありました。
  学問的には、戦前の「家父長制度」と深くつながっているようです・・
  そのことを、”いい”とか”わるい”とか、価値の判断を言っているのではありません。
  ”むかし”は”こんなだった”という、事実の認識です。
  以下は、「通過儀礼(=もしくは、通過儀式)といわれるものです。
    --・何も日本に限ったもにでもありません。キリスト教にもあるし、中国やイスラム圏にもあります。
    広義にとらえれば、アフリカ原住民やニューギニアなどにも存在する「大人」への通過儀式です。
    ある意味では、「大人」への段過程での確認作業ともいえます。・・生活の知恵です。


  画:夜の楼門:大宮氷川神社
  


◇まず、生誕・
 ・「家父長制度」では、「家」という意識がかなり強かったようです。「家」は一族につながります。
 ・「家」の中で、「生命の誕生」が確認されると、”祝”として認識されます。
   もし、生命誕生が「男児」であれば、「家」の存続・継承が担保され、発展の可能性が留保されます。
   もし、「女児」であれば、将来の婚姻により、「一族」の発展・拡大と団結が留保されます。
 ・この「生命誕生」は、公的な祝い事として、神社を通して「むら」社会に告知されます。
  1:)【着帯の祝い(腹帯)と安産祈願】
     ---「着帯の祝い」とは、子宝に恵まれたことを神さまに感謝し、
     母体の安全と胎児の健全な発育を願い、5ヶ月目の戌の日に白布の腹帯〈岩田帯)を締めるお祝い。
     五ヶ月目の戊の日が選ばれるのは、犬のお産が軽いということにあやかるためといわれています。
     --「安産祈願」
     母体と胎児の健康無事を願うためにをするのです。
     祈願は、「着帯の祝いの日」に合わせて行うことが多いようです。
  2:)【(誕生)産湯と産着】
     ---「産湯」とは、生まれるとすぐに氏神様のその土地の水で産湯につかることです。
     その産湯で清めることで、氏神様の産子となると信仰されてきました。
     ---「産着」とは、産湯を使わせた後、赤ちゃんを袖や紐のないおくるみにくるみます。
     生後3日目になると、お祝いをして袖のある産着を着せます。
  3:)【お七夜と命名】  
     ---赤ちゃんの名前は、生後7日目のお七夜に付けるのが習わしです。
     誕生を喜ぶと共に神さまに覚えてもらうように名前を半紙などに書いて神棚に供えます。
  4:)【初宮参り】  
     ---赤ちゃんを氏神様の氏子として認めていただく意味があります。
     初めて神社にお参りして、神のご加護に感謝し、健やかな成長を祈ります。
     男子は生後31日目・女子は生後33日目にお参りするのが多いようですが、
     日数にこだわらずに、30日前後の穏やかな日を選んでお参りするのもよいでしょう。
  5:)【お食初め】  
     ---生後100日目頃に食膳を用意して、赤ちゃんに食事を食べさせるまねをします。
     赤ちゃんが一生幸福に育ち、食べるものに困らないようにという、親の願いが込められています。
     膳には赤飯の他、鯛などの尾頭付きの焼き魚が付けられます。--頭が早く固定するようにとの意味。
  6:)【初節句】
     ---節句とは、
     ・1月7日の「人日」じんじつ、
     ・3月3日の「上巳」じょうし、
     ・5月5日の「端午」たんご、
     ・7月7日の「七夕」しちせき(たなばたではありません)、
     ・9月9日の「重陽」チョウヨウの5つがあり、それらを総称して「五節句」といいます。
     「初節句」とは生後初めて迎える節句のことであり、
       男子は「端午の節句」のときに鯉のぼりや武者人形・鎧兜などを、
       女子は「上巳の節句」(桃/雛の節句とも)のときに、雛人形を里方や親戚から贈られます。
  7:)【七五三】  
     ---男女3歳・「髪置」、男子5歳・「袴着」、女子7歳・「帯解」のお祝いの儀式から由来、
     晴着を着て11/15前後に神社にお詣りし、成長したご加護に感謝し、今後のの無事を祈ります。
     七五三を終えると、晴れて一人前として扱われるようになりました。
  8:)【入学・卒業・就職の奉告】  --- 現代風習・後発
  9:)【成人式】 ---  現代風習・後発
     ---1月の成人の日(20歳)に神社に参詣し、大人の仲間入りを奉告し、社会人の責務が生まれます。
     もともとは、「元服の儀」が原型です。
     子供(幼年)から大人・成人への認定式で、中世は10歳から20歳ぐらいまで、
     江戸時代には15歳頃が一般的となりました。
     家父長制度下の武家では、かなり重要な儀式であったようです。
  10:)【神前結婚式】  
     ---結婚式は、人生儀礼の中でも最も晴れやかで大切な儀式です。
  11:)【厄年・年祝い】  
     ---「厄年」とは、災難や障りが身に降りかかりやすい年のことです。
     厄年は、年齢による体調変化と符合していて、案外合理的です。
     神のご加護をいただき災厄にあわないようお参りして「厄祓い」をします。
     体調管理の観点から、特に注意する、という意味でもあります。
     ---「年祝い」とは、家族のものがある一定の年齢に達すると、
     その長寿を神さまに奉告しお祝いをすることをいいます。
     お祝いの方法は、地方によって千差万別ですが
     あ:)、数えで61歳(還暦)・○
     い:)、70歳(古希 コキ)○
     う:)、77歳(喜寿)
     え:)、80歳(傘寿 サンジュ)
     お:)、81歳(半寿)
     か:)、88歳(米寿)○
     き:)、90歳(卒寿)
     く:)、99歳(白寿)○
     け:)、100歳(上寿 ジョウジュ)
     こ:)、108歳(茶寿 チャジュ)
     さ:)、111歳(皇寿 コウジュ)などがあります。---数が多けりゃいいってもんでもない
  12:)【結婚記念日】   ---  現代風習・後発
     ---夫婦共々に、健康で仲睦まじく過ごせたことを神さまに感謝し、
     この先心新たに二人力を合わせ、良い家庭を築いてゆくことを誓いお祝いする機会です。
     一般的に、
     1::紙婚式(満1年)・
     2::木婚式(満5年)
     3::錫婚式(満10年) 
     4::水晶婚式(満15年)・
     5::陶器婚式(満20年)
     6::銀婚式(満25年) ---  ○
     7::金婚式(満50年) ---  ○
     8::金剛石婚式(75年)
     9::真珠婚式(30年)
     10::紅玉婚式(40年)という記念日もあります。---数が多けりゃいいってもんでもない
  13:)面白いことに神社には、「死」に関すること、「弔い」という概念は存在しないようです。
     ・神社の聖域は、穢れをバリヤーしています。
     ・この「穢れ」の中に、「死」や「血」が入っています。
     ・神社は、物としての死体は穢れあるもの、ですが、
        死体から遊離離脱した「霊魂」は、永遠のようです。
        特に、一族元祖につながる「霊魂」は、家父長の元締めとして強い絆になります。
     ・行く末の一族の命運を、愛情ある家父長が見守るというメカニズムが”氏神”の根幹・
        村社、郷社、県社などは、見守る範囲の拡大版で、おそらく後発なのでしょう。


  武蔵の国一之宮
  


はなみずき通り・

2017-05-15 21:41:16 | 名勝

はなみずき通り・

名前は「はなみずき」通りなのですが、もはやこの時期には”はなみずき”の華やかさはありません。
新緑に変わっています。
この通りは、僅か500mぐらいの長さしかありませんが、
   ここの木漏れ日が好きで、散歩の折にかなりの頻度で寄っていきます。
   見沼用水のところで、「万葉の小径」に交差しています。
   交差のところに、水車小屋もあります。・・・廻っていま  ・・せん。(修理中)


   
   
「はなみずき」に代わって花が咲いています。
  植物に詳しくありません。「ウツギ(=空木?)」でしょうか?


  散歩を休める”小さな喫茶店”もあります。
  
  
この「はなみずき通り・」は、第一公園と第二公園を繋いでいます。
第一公園には、「サッカー場」と「野球場」と「競輪場」があります。
第二公園には、無料の駐車場があります。
「競輪」に負けた人は、競輪場から駐車場まで、
   「はなみずき通り」をとぼとぼと帰ります。
      「おけら通り」と呼ぶ人もいるようです。
   ・---・中山競馬場から駅までは、通称「おけら街道」といって、
         昭和レトロの「飲み屋」さんがところどころにあって、
            あの雰囲気は好きなのですが、・・自分は競馬や競輪はやりませんが・
    とにかく、この「はなみずき通り」は、レトロの荒んだ哀愁はありません・・

・この「はなみずき通り」は、”大宮二十景”というのがあって、選ばれているそうです。


「園芸祭り」・・

2017-05-09 04:17:36 | 草・木・花 風に吹かれて

5月3日
ゴールデンウィーク初日・
薫風優しく頬を撫で、五月晴れ・


見沼グリーンセンターは、「園芸祭り」・・



/

植木を売ってたり、花を売ってたり、野菜も売ってたり、

タイ料理の屋台、中華の屋台、ケバブって南米だったかしら、もちろん”ジュース”や”コーラ”や”かき氷”も売ってます・


喧騒を離れて・温室へ

サボテンがありました。


大宮に”猿の花”が咲いた・・え!なに、それ??

2017-05-04 21:41:31 | 街 探求!

大宮に”猿の花”が咲いた・・え!なに、それ??

 

そんな花、知りません。”猿の花”なんて見たこともありません。

参考:

実は、「猿花」って、地名らしいんです。

「猿花」、そんな地籍は大宮のどこにも登録されていないのですが、
  さいたま市見沼区南中野というところ、日大法学部の正門とは反対側近くに、

 ・「猿花キャンプ場」
 ・「猿花稲荷神社」

があります。だがそこは、猿花という地名ではありません。



   ・「猿花キャンプ場」看板


 
   ・「猿花稲荷神社」鳥居 

 があります。・・どうも、地名を冠にしているようです。
  そうなると、昔の地名のような・気がします。
  
元来、謎めいた”地名”の謎解きは「大好き」です。
それでは、昔「猿花稲荷神社」は何と呼ばれていたか見てみましょう。

新編武蔵風土記稿による猿花稲荷神社の由緒
(中野村)稲荷社:村持。(新編武蔵風土記稿より)・・・「埼玉の神社」による猿花稲荷神社の由緒


稲荷神社<大宮市南中野一一五三(南中野字新田)>
当社の鎮座する字新田は、・・・古くから猿花と呼ばれている所・・この地名は、小石の多い台地の突端を意味する語であるとい・・地元では「猿」の字を「・・「やえんばな」と呼ぶ。『風土記稿』・・は、・・当社は古くから猿花だけで祀ってきた社という。・・・内陣には、神璽が二体と狐の背に立ち稲把と鎌を手に持つ稲荷大明神像が奉安されている・・神璽筥には墨書があり、一体には「正一位稲荷大明神安鎮 神主・・松本和泉守」と京都伏見稲荷の神主の名があるため、同社からの分霊であ・・・もう一体には、「正一位猿花稲荷大明神 璽」・・神主斎部宿祢守義」とある。これは江戸湯島・・の妻恋稲荷の神璽で、神主の「守義」は幕末に神主を務めている・・・「埼玉の神社」より。

この「新編武蔵風土記稿」は、文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた武蔵国の地誌であります。
その頃には、この「猿花稲荷神社」はすでに存在していたようで、そこの地名は新田を意味し、南中野の飛び地であったようです。恐らく、見沼の開拓によって新しく生まれた地域であり、この区画一帯を鎮守する神社であったようです。・南中野を鎮守する諏訪神社とは異なります。


普通の神社


・「えんばな」は、今では死語に近いが”縁端”と書きます。大宮台地の”端っこ”の意味だと思います。
・「や・えんばな」は、恐らく「谷・縁端」ではなかろうかと思えます。
・---すると、見沼田んぼ開拓地の風景が浮かびあがって、”新田”の様子が頭に描けてきます。
・この開拓新田は、---・しばらくの間、”谷縁端”、”縁端”、”縁鼻”と書かれ、呼ばれていたことが想像できます。
・「えんばな」の呼び方が先行した後地名記載の時、誰かか「猿花」と宛字し、それでも暫くは「えんばな」と呼んでいたのでしょう。・・ここいらは多少想像で、正確ではありませんが、80%ぐらいの確信があります。

・「猿花」は、こうしている内に、読みやすい「さるばな」と呼ばれるようになったのですが・・


キャンプ場の木漏れ日


・地域的にかなり狭い区域だったので、やがて南中野に併合されていった・とか。



神社入り口には、稲荷神社の眷属:狐の狛犬が守ります。


つつじ と 千本鳥居  第2章・・つつじ苑

2017-05-01 13:59:07 | 神社・仏閣

 つつじ と 千本鳥居  第2章・・つつじ苑

 

つつじ◆と◆千本鳥居◆はここ数年来の、是非見てみたい景色であった。
          このところの”出無精”が祟って、今日まで叶えてなかった。




    
 第2章・・つつじ苑


 

                                          
                    :写真を「クリック」すると、すこし拡大できます。

 

それにしても、人出が多い・・
    ここの”つつじ”の人気が分かります。


 俯瞰すれば、既に散ったもの、盛りを過ぎたもの、今が旬なもの・様々なる・・つつじ


 こうして、咲く時期を違えて、愛でる季節を長くしている、その数、100種3,000株 ・・・

           緑が薫なか・・

            色・様々に映える”つつじ”・、鳥居の”朱”とのコントラスト・・のハーモニー  ◇社の杜◇


つつじ と 千本鳥居  第1章・・根津神社

2017-05-01 12:47:11 | 神社・仏閣

つつじ と 千本鳥居

つつじ と 千本鳥居 in 根津神社(不忍通り)

つつじ◆と◆千本鳥居◆はここ数年来の見てみたい風景であった。
 このところの”無精”が祟って、今日まで叶えてなかった。。
 今年、4月晦日・・意を決してみる。それほど大げさなことではないが・・
 むかし・・勤務先が台東区にあったので、その頃に気が向けば、身近であったはずだが・
    ・・その頃は、そうゆうことに一向に興味がなかった。
    
 第1章・・根津神社



 
・もともとは、この神社は”千駄木”にあったらしい。旧名は”詳らかならず”。
・文明のころ、この根津の一帯に、太田道灌が住居を構え、
   千駄木の神社に”社格”を奉納したことに始まる、という伝えが残る。
   ・・・憶測すれば、「駒込稲荷」ではなかろうか・・とも思うが確かではない。

千本鳥居は”稲荷神社”に多い。鳥居の数は、千本あるのかどうかわからないが・・

回遊の休憩の”甘酒”

隣接の”弥生正録館”、繊維に関係あるらしい・・


・江戸時代に、この地・根津には、”甲州徳川家”の藩邸があった。
   ・6代将軍・家宣は、根津邸で生まれて、「千駄木の神社」は乳母神社となった。
   ・5代将軍・綱吉には後継ぎがなく家宣が継ぐと、
      千駄木の神社を、根津の藩邸跡に移し、”根津神社”を遷座した。
   ・その時に、徳川将軍家より奉献されたのが、現在の”社殿”である。
   ・1706年に完成した権現造りの本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・透塀・楼門の全てが現存する。

 

今日は、王子で「地下鉄:南北線」に乗り換えて「東大前」で降りて参詣、帰りは「地下鉄:千代田線」で西日暮里経由・・