某年金生活者のぼやき

まだまだお迎えが来そうに無い

矢は本当に大事ですね。

2012-04-24 01:31:49 | スポーツ吹矢の練習
 春になってから吹矢の点数が良い。暖かくなって体が楽になったのかもしれない。しかし、それとは別に面白い傾向があることに気がついた。矢が違うと点数が違う。従来の矢より、New矢Lタイプという新製品を使った方が点数が良いのだ。
 私はケチだから、従来の矢でまず練習する。新製品は高いから、練習で傷めたくないのだ。それで、従来の矢で6ラウンド(30本)吹いた後、この新製品で6ラウンド吹くことにしている。すると、時々200点台が出るようになった。そこまでゆかなくとも、190点台は珍しくなくなった。従来の矢だと180点台が多いから、10点は多くなっている。「まぐれかもしれない」「すぐ元に戻るのかもしれない」という恐れはいつもあるのだが、これまでのところ新製品だと確かに調子が良い。私はスロー・スターターだから、或る程度練習した後の方が点が良くなる。そのせいかと思って最初から新製品を使ってみた。結果は同じ、やはり点が高くなる。(ただし、従来の矢でも全くの新品だと点は高くなるかもしれない。私の前からの矢はどれもかなりくたびれているから、あまり一般化できないかもしれない。)
 小生お気に入りのこの新製品は少し重い、ほんの少しだが。そのおかげかまっすぐに飛ぶ。的に当たった時の音がこれまでのより良い(重い)。多分皆さんそう感じているだろう。これからの大会では、優勝点数が高くなるだろう。200点が珍しくなくなるだろう。
 点数が高くなったと喜んでいても、私の場合それは「矢」の手柄だ。技術が向上したお陰ではない。今書きながらそれに気がついて、少しがっかりした。しかし、弘法程筆を選ぶ、という。良い道具を見つけ、使いこなすのも腕のうちだと、痩せ我慢をしておこう。
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出た!2002点!申し訳ない。またまた吹矢自慢

2012-03-10 00:42:07 | スポーツ吹矢の練習
 今日久しぶりに銀座の吹矢練習場に行った。まず、協会が新しく売り出した極上の矢を求め、調節して使ってみた。10㍍6ラウンドで、なんと2002点!(31,33,33,35,35,35).いや驚いた。今までの最高得点は今年の1月16日に出した200点で、その前の最高得点は昨年2月3日の198点。前にも書いたが2点上げるのに11カ月もかかっている。それが、まず不可能だと思っていた200点を越える記録を1カ月半で出した。実力ではあるまい。新しく開発された矢の威力だろう。「弘法ほど筆を選ぶ」と言うが本当だ。日本スポーツ協会が出来て14年、創立メンバーの先生方は、筒がゆがんだり、矢がよれよれになったりしてあらぬ方に飛んでゆくのを抑え抑えして練習されたことだろう。だんだんに筒はゆがまなくなり、矢もバランスが良くなって、今のように的に当たりやすくなったのだろうと思う。私は良い時に始めた。
 4月にまた試験を受ける。試験会場は今日2002点を出した練習場だから幸先がいい。会場に馴れているかどうかでえらく違う。40肩でまだ右手をきちんと上げられないから、基本動作がしっかりできない。あと一カ月、なんとかして直さなきゃ。
 
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やった!200点

2012-01-16 19:25:46 | スポーツ吹矢の練習
 スポーツ吹矢は大変正直で、少し意地が悪い。ちょっと練習できないでいると、再開した時、始めの5本位は結構良い点数だが、次の5本あたりからおかしくなる。そのかわり、毎日気を入れてしっかりやれば、たとえ1日30本(5本づつ6回)でも手ごたえのある練習ができる。
 今年は割合出足が良かった。そしてとうとう今日夢の200点が出た。但し残念ながら9メートル。家の工事をしたおかげで、的まで9メートルしかとれなくなっている。いままでのところ、しかし、得点は10㍍とあまり差がないから、よしとしよう。これまでは198点が最高だった。2011年2月3日にだしている。2点上げるのになんと11か月かかっている。僅か2点だが、えらく高い壁だ。次に200点を突破出来るのはいつだろう。11か月よりは短くしたいものだが。
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吹矢競技会で優勝

2011-12-16 01:52:25 | スポーツ吹矢の練習
 またまた長いことブログを書けず困っていました。此の間の面白い話はいずれまた。随分たまっていますが。
 先日世田谷区のスポーツ吹矢協議会大会に選手で出場し、なんと優勝してしまった。下高井戸の小学校体育館が会場で、暖房がないからえらく寒かった。皆ガチガチ震えていたから、日ごろの実力を出せなかったのだろう。その点私は何故かいつもあったかいから(頭が?)たいしてこたえなかった。昨年来、冷房なし暖房なしで鍛えられたから良かったのかもしれない。防衛省に感謝しなければいけないかな。
 得点は6ラウンドで180点。あまり高得点とは言えないが、皆さん震えて点数が伸びなかったのが幸いした。
 これまでの昇段試験と同様、今回も前半がパットせず、ビリにならなければいいが、とそればかり気になっていたが、やっと4ラウンド目から上向きになり、満点(35点)が出たり、31点が続いたりと、後半で稼いだ。何故いつもこうなのだろう。最初から良ければ苦労しないのに。
 競技会の日の朝、家で6ラウンド吹いた。194点。これならたいして恥もかくまい、と少し安心して出かけた。早めに出たのに、なんと小田急線が全線ストップ。例によって人身事故。仕方なしに田園都市線で渋谷まで。井の頭線で明大前まで。さらに京王線。えらく遠回りでもう開会式が始まっていた。こんなについていないのではビリだな、と最初からあきらめた。それが逆に良かったのかも。
 試験や競技会では日ごろの点数より1割は低くなるといわれる。私もそうで、朝の194点が180点。1割まで下がらなかったのが幸いしたのかもしれない。始めの勝ちはくそっ勝ち、というから、次回からが本当の実力。さてどうなりますか。
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吹矢と私(4の1)

2011-05-10 21:16:21 | スポーツ吹矢の練習
 4月28日に日本スポーツ吹矢協会で、会長さん、役員の方々、事務職の方々に「吹矢と私」という話をする破目になった。おこがましくも、図々しくも、シャシャリ出て(私の前世はテントウ虫らしい)話をさせて頂いた。原稿(少し手を入れた)が長いので、数回に分けて掲載したい。吹矢は本当に健康に良いと私は思っている。以下のつたない文を読んで下さる方々の中から、一人でも二人でも愛好家が生まれてくれたら、と願っている。
1、自己紹介
 1930年10月28日 中野区沼袋生まれ。西武新宿線新井薬師駅近くの上高田小学校から府立六中(現都立新宿高校)に進学しましたが、昭和19年、2年生の時福島県の太平洋岸、双葉郡富岡町に疎開、以後敗戦を挟んで昭和22年まで、県立双葉中学(現高校)に通いました。
 双葉という地域は、最近まで殆ど誰も名を知らないような過疎地帯でしたが、東日本大震災で双葉町の原子力発電所が壊れて、一躍有名になりました。通学で朝夕乗り降りしていた常磐線富岡駅は津波にやられてプラットホームを残すだけの無残な姿になっています。戦争中、中学生たちの勤労動員で急造した飛行場が中学のすぐ南にあり、特攻隊の訓練らしいのをやっていました。アメリカの艦載機P51などが攻撃して来ると日本の飛行機は一機も飛びません。しかし、いなくなると飛びはじめました。敗戦直後の中学校舎は無残でした。死にそこなった特攻要員たちが暴飲暴食で教室を汚し、柱や壁に無数の刀傷を残し破壊していったのです。
 戦後其の飛行場跡に原子力発電所が出来ました。双葉町の居住者も、富岡町の居住者も、今は放射能汚染から身を守るために、はるか離れた場所に避難しています。半径20キロ圏は双葉高校の学区域ですから、同級生がまだ沢山そのあたりに住んでいましたが、皆どこかに避難しているでしょう。同級生だから皆80歳過ぎ。馴れないところで体を壊さねば良いがと案じています。昔、原子力発電所の話が出てから、若い人々を中心に多くの方々が反対しました。その頃、「反対する奴は電気を使うな、東京からノコノコ出しゃばってきて、町の発展の邪魔をするな」と居丈高になって私どもを罵倒していた町の有力者たちが、今では皆東電を恨んでいます。当時の誘致派有力者たちには年配者が多かったですから、もういない方々が多いでしょう。せめてもの救いです。しかし、生き残って東電を恨んでいる人たちは、またすぐ「でも、原発がないと電気が足りなくなるよ」と変節するでしょう。有力者の変わり身の早いのは、敗戦時にいやと言うほど見てきましたから、今更驚きませんが。
 定年(70歳)まで、大学で経済学の歴史を専門にし、講義を担当していました。
 小学校運動会の徒競争で一度も3等以内に入れず、入賞者がリボンをつけて得意になっているのを毎回見せられて悔しい思いをしましたので、運動と言えるほどのことは全然してきませんでした。43歳の頃「少しは運動をしないと早死にするぞ」と友人に脅かされ、ゴルフを勧められましたが、「女に荷物を担がせて、自分は手ぶらでブラブラ歩いてる。あれで何が運動だ」と馬鹿にして、どうせ棒を振るなら剣道の方がいい、とめちゃくちゃな理由で、大学の剣道部に入れてもらいました。実力はないのに、私は何故か試験にだけは強くて、3年で三段になりました。しかし、その頃からめったやたらと忙しくなり、四段の試験を目前にして剣道中止。ですからその頃から四段、五段というのに憧れていました。学生は、教師の頭を公然と叩けるのは俺たちだけだ、と大喜びだったようです。口では「先生と稽古するときは気を使いますよ」などと殊勝でしたが。
 其の当時、剣道の師範がよく言っていたのは「剣道の上達に必要なのは、1に良い教師、2に基本に忠実でまっすぐな稽古」ということでした。この二つが揃えば、誰でも五段にまではなれる、と言われました。吹矢で今それを実感しています。
 
 
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