児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

アウトリーチについて(音活報告書)

2011年01月30日 | アウトリーチ

地域創造の音活の21年度の報告書が出来てきていた。なんかずいぶん前に原稿を渡したのでやや新鮮さにはかけるのだけれども、きちんと報告書が出来るのは地域創造という公益法人の性格上きわめて大事なことだ。以前、おんかつは13年前と同じように今もモデル事業的である、ということを言ったことがある。そのときにはあんまり受けが良くなかった記憶があるのだけれど、事業としてはともかく、そこで行われている内容については未だにそう思っている。

報告書で音楽のアウトリーチの整理を試みた私の短文をここに掲出しておくことにする。実はもう少し前からこれは出しておこうかと思っていたのだけれど、研修会を前にこの資料が出来てほめられてしまったので、却って出しにくい気分ではある。それほど注目されないだろうというというつもりだったのだけれど・・・。

Theme1  技術としてのアウトリーチと芸術文化政策の事業

チーフコーディネーター 児玉 真

 

焚き火の前で高倉健が子どもとハムを焼いているハム会社のCFに「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」というコピーがあって、なるほどと納得したのはもうずいぶん前なので、若い人は知らないかもしれない。しかし、演奏の世界でも「上手くなければ演奏できない、内容がなければ音楽家にはなれない」といえるし、アウトリーチをやるのにも「話が出来ないと伝わらない、何を伝えたいか理解していないと意味がない」とか言うことも出来る。要するに両方が必要だということだ。

 公共ホール音楽活性化事業を始めてから11年。その間にクラシック音楽のアウトリーチは非常に早いスピードで拡がってきた。とても良いことだと思うけれど、実践が先行するアウトリーチでは、行き先(対象)が多様すぎるため概念は拡散する方向にある。従って音活が一定の枠組みを示していることはとても意味がある。しかし、最近の音活ではさすがにほとんど見受けなくなったとはいえ、いまだに、たくさんの子どもや老人のところに行って演奏し喜んで貰うのは良いことだ!というところまでで思考を停止してアウトリーチをめぐる論議がかみ合わないでいるケースも相変わらずあるのである。

音楽のアウトリーチの場合、「聴く」という一見受身のようだけれども、自分の心の中に何かを作り出していくという創造性に非常に重要な要素があり、演奏者はそのきっかけをつくり聴き手のリテラシーを開発する、という高い能力を要求されている。そこで行うことは、音楽演奏とそれを巡るインタラクティブな演奏者と聴き手のやりとり、というプッシュ型の情報提供をベースに工夫をしたものと考える事が出来るが、それにはそれなりの方法論を要する。しかし、全国何カ所かでアウトリーチ事業のために演奏家の研修をやってみて気がついたのは「アウトリーチは学校とかに出かけていって、そこにいる人たちが好む音楽を演奏し喜んでもらうお話付きのコンサート」と思っていた、という演奏家がかなり多いことだ。青春を費やして命がけでやってきたクラシックの良さを伝えることにエネルギーをさけばよいのにと思うけれど、じゃあどうすればいいの?というそのための方法論が見えていないと言うことである。目標が見えたときの演奏家の能力は高い。演奏家がの目標は、「何を」を見つけてそのための技術を磨くことに他ならない。

クラシック音楽のような「古典」や「伝統」をアートの世界でどのように位置づけるかはなかなか一筋縄ではいかない話だけれども、少なくとも過去の芸術をなぞる再現という以上の意味を持つものである事は間違いない。茂木大輔が書いているように、「今、古典の曲を演奏すると言うことは、何百年も作品が残る価値を作った天才的作曲家と対等に対話し、その上に、過去におけるその曲を弾いたあまたの名人たちのすばらしい演奏や解釈を背負ったうえで、今この場で意義のある解釈、演出をして、かつそれを実演しなくてはならない」という事なのである。だから、古典という伝統的分野においては「最終的には、演じる側も聴く側も、まず過去のすばらしきものを習う」という事が大きな特徴だと思うし、それが社会に残っていく存在意義であるとも思える。楽に体感することをよしとする時代背景の中であえて誤解を恐れずに言えば、教わる、ということが有意な体験であり、伝える側は、それをどのように納得してもらうかという方法論が重要だと言うことになる。それ故に音活でやっているようなアウトリーチの手法はクラシック音楽のように伝統を背負うジャンルを扱うによく合う方法論だと言えるのではないか。

最近、アウトリーチ事業という言葉もよく使われるけれど、アウトリーチそのものはゴールではない。コーディネートする側にとっては、アウトリーチというすでに出来上がった作品を子どものところに持って行くような、物を扱うようにではなく、その時間を経由することで演奏家にも聴き手にも何が起こるか、という常に変化している現象を扱うように考えるのがよいと考える。

アウトリーチは芸術音楽を扱う大事な技術にすぎない。けれど、全国的に見ればまだまだノウハウが浸透していないからこそ技術としてのアウトリーチの技法はますます磨かれなくてはいけないだろう。それは、演奏家が自分の楽器の技術を磨こうとするのと同じことで、時代の大きな要請でもあり自治体やホールの事業を行う上での土台でもある。演奏家にとってそのノウハウはすでに学校などで獲得されているものではなく、様々なプロフェッショナルとの共同作業でOJT(オンザ・ジョブ・トレイニング)として獲得されるものだろう。地域創造の10年間のノウハウの実績を、マニュアル化、教材化することも必要な状況になってきているように思う。

さて、このアウトリーチという高いポテンシャルを持った手法の技術と意欲を獲得した地域のコーディネーターや演奏家たち、という基盤をどう社会が活用するか、それを考え実行するのは公共ホールと自治体の政策的な大事な役割であろう。地域創造の「公共ホール音楽活性化事業」もアウトリーチの本質を認識して貰うのに非常に優れた方法論だけれど、その経験を活かしてそれぞれの会館が地域の状況に合致した政策として事業化していく事が必要なことである。それは大変だろうけれど楽しいはすだ。

 


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