前回(→こちら)の続き。
『ドレスデン 運命の日』の支離滅裂なロマンスシーンは「棒読み」であった。
棒読みとはなんのことかといえば、作家の宮田珠己さんが使っていた手。
ジェットコースターの本も書いたこともある絶叫マシンフリークのタマキングは、DVDに出演した際、自分の知らないコースターをあたかも知っているかのように紹介してくれと頼まれて悩むこととなる。
テレビのタレントなら、行ったことのないレストランを「なじみの店」なんて語るのは、おそらくよくあることなのだろうが、素人がそれをやれと言われると、
「そんなん、ええんかいな」
という気になってしまうことは想像に難くない。
そこで宮田さんが取った方策というのが、自分の知っているジェットコースターについては問題ない。笑顔でよどみなく解説する。
一方、知らないコースターや本当はオススメではないものについては、あえて「棒読み」で解説する。
そうすれば、見る人が見れば
「あー、この部分は棒読みということは、本当は無理矢理いわされてるんだな。じゃあ、話半分で聞いておこう」
とわかるというわけだ。良心とつつがない仕事の進行を天秤にかけたうえであみだした、まさに苦肉の策であり、タマキング曰く、
「棒読みの部分は、3割ぐらいフカしてますので、そのつもりであしからず」
とのこと。これが、私のいう「棒読み」なのである。
では、『ドレスデン』の中で、なにが棒読みなのかと問うならば、それはもうアンナとロバートとのロマンス部分。
これはよく言われることだが、戦争映画で作者が描きたいのは、もう「メカとグロ」なのである。
あとはせいぜいカッコイイ将校とか兵隊。男女の愛とか、だいたいがどうでもいいのだ。
これは、かの名著、相原コージと竹熊健太郎の『サルでも描けるまんが教室』でも言及されている真理である。
でも、売る側としてはそんな「ソ連戦車大好き!」「四肢バラバラ死体サイコー!」みたいな狭いところでなく、普通のお客さんにも来てもらわないと困る。
ということで、「戦火の恋」とか「反戦メッセージ」というのを、入れてくるわけだ。
それが、制作側にはイヤでイヤでしょうがない。オレがやりたいのは、特撮なんや。銃に死体に、中野昭慶ばりの大爆発なんやと。
子供のころからそれを目指して、今でもそこに誇りを持ってやってるのに、なんで金のためにハリウッドの大味な映画みたいな、頭すっからかんなロマンスを入れなあかんねん。やってられへんわ!
そこで棒読みである。
全国の良心的な映画ファンのみなさんはわかるよな、これはロマンスなんかやないねん。ホンマは特撮やりたいのにやらせてくれへんから、ブンむくれですわ!
仕事やから一応やるけど、マジで恋とかどうでもええねん。そこは理解してや!
という、監督の魂の叫び。それこそが「棒読み」なのだ。
そう、この『ドレスデン』のアンナとロバートがバカップルで、見ている人を不愉快にさせ、ネットのレビューでも
「なぜあのふたりが、あんな行動するのかは、正直よくわかりません」
と書かれるのも、これすべて
「やりたくない仕事だから、わざとそれがわかるようにぞんざいに作っている。誰が観ても不自然とわかるように作って、《そこは酌み取ってや》というメッセージを発している」
ということなのである。
ここを読みとらないと、なにも見えてこない。その作り手側の気持ちを斟酌しないと、「よくわかりません」と混乱してしまうことになる。
そこまで見すえてみると、はじめてこの映画の「見所」がよくわかってくる。内容よりも、その裏の人間模様を読み取らなければならない。
そう、この映画の本当のおもしろさは、表にはあらわれない「バックステージもの」の部分を邪推することにあり、製作者たちも、きっとそれを望んているはずなのだ。
なんて話を得々と、同じ映画ファンである友人サンノセ君に語ったところ、彼は映画を見終えたあと一言、
「そんな深読みしなくても、ただ脚本が破綻しただけの、ダメ映画なんじゃないの?」
まあ、それはそうかもしれへんなあ。
『ドレスデン 運命の日』の支離滅裂なロマンスシーンは「棒読み」であった。
棒読みとはなんのことかといえば、作家の宮田珠己さんが使っていた手。
ジェットコースターの本も書いたこともある絶叫マシンフリークのタマキングは、DVDに出演した際、自分の知らないコースターをあたかも知っているかのように紹介してくれと頼まれて悩むこととなる。
テレビのタレントなら、行ったことのないレストランを「なじみの店」なんて語るのは、おそらくよくあることなのだろうが、素人がそれをやれと言われると、
「そんなん、ええんかいな」
という気になってしまうことは想像に難くない。
そこで宮田さんが取った方策というのが、自分の知っているジェットコースターについては問題ない。笑顔でよどみなく解説する。
一方、知らないコースターや本当はオススメではないものについては、あえて「棒読み」で解説する。
そうすれば、見る人が見れば
「あー、この部分は棒読みということは、本当は無理矢理いわされてるんだな。じゃあ、話半分で聞いておこう」
とわかるというわけだ。良心とつつがない仕事の進行を天秤にかけたうえであみだした、まさに苦肉の策であり、タマキング曰く、
「棒読みの部分は、3割ぐらいフカしてますので、そのつもりであしからず」
とのこと。これが、私のいう「棒読み」なのである。
では、『ドレスデン』の中で、なにが棒読みなのかと問うならば、それはもうアンナとロバートとのロマンス部分。
これはよく言われることだが、戦争映画で作者が描きたいのは、もう「メカとグロ」なのである。
あとはせいぜいカッコイイ将校とか兵隊。男女の愛とか、だいたいがどうでもいいのだ。
これは、かの名著、相原コージと竹熊健太郎の『サルでも描けるまんが教室』でも言及されている真理である。
でも、売る側としてはそんな「ソ連戦車大好き!」「四肢バラバラ死体サイコー!」みたいな狭いところでなく、普通のお客さんにも来てもらわないと困る。
ということで、「戦火の恋」とか「反戦メッセージ」というのを、入れてくるわけだ。
それが、制作側にはイヤでイヤでしょうがない。オレがやりたいのは、特撮なんや。銃に死体に、中野昭慶ばりの大爆発なんやと。
子供のころからそれを目指して、今でもそこに誇りを持ってやってるのに、なんで金のためにハリウッドの大味な映画みたいな、頭すっからかんなロマンスを入れなあかんねん。やってられへんわ!
そこで棒読みである。
全国の良心的な映画ファンのみなさんはわかるよな、これはロマンスなんかやないねん。ホンマは特撮やりたいのにやらせてくれへんから、ブンむくれですわ!
仕事やから一応やるけど、マジで恋とかどうでもええねん。そこは理解してや!
という、監督の魂の叫び。それこそが「棒読み」なのだ。
そう、この『ドレスデン』のアンナとロバートがバカップルで、見ている人を不愉快にさせ、ネットのレビューでも
「なぜあのふたりが、あんな行動するのかは、正直よくわかりません」
と書かれるのも、これすべて
「やりたくない仕事だから、わざとそれがわかるようにぞんざいに作っている。誰が観ても不自然とわかるように作って、《そこは酌み取ってや》というメッセージを発している」
ということなのである。
ここを読みとらないと、なにも見えてこない。その作り手側の気持ちを斟酌しないと、「よくわかりません」と混乱してしまうことになる。
そこまで見すえてみると、はじめてこの映画の「見所」がよくわかってくる。内容よりも、その裏の人間模様を読み取らなければならない。
そう、この映画の本当のおもしろさは、表にはあらわれない「バックステージもの」の部分を邪推することにあり、製作者たちも、きっとそれを望んているはずなのだ。
なんて話を得々と、同じ映画ファンである友人サンノセ君に語ったところ、彼は映画を見終えたあと一言、
「そんな深読みしなくても、ただ脚本が破綻しただけの、ダメ映画なんじゃないの?」
まあ、それはそうかもしれへんなあ。