菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

仮説実験研究会ニュースで、遠藤郁夫さんの投稿を読む④

2021年02月08日 10時02分38秒 | 日々の雑感
 ●遠藤郁夫さんが持っている疑問

(2)新型コロナウイルスによる死者数の数え方について
 日本では厚労省が6月18日に各自治体に対して〈厳密な死因は問わずに、PCR検査で陽性であれば、新型コロナウイルスによる死亡者として数えること〉という趣旨の通達を出しています。これは日本だけでなく世界中で同じで、WHOの指示によるものです。しかし、これでは本当に新型コロナウイルスによって亡くなった場合と、もともと基礎疾患を持っていた場合の死とが合計されることになるので、死者数が誇張されることになります。
 上久保さんの『ここまでわかった新型コロナ』という本には、竹林直紀さん(ナチュラル心療内科クリニック院長)が大阪府における8月の新型コロナによる死者数の死因を詳細に分析して作成したグラフが紹介されていますが、35名死亡される内、真に新型コロナが死因と見做せるのは2名だけです。このような問題を含んだまま公表される死者数をもとに人々が新型コロナウイルスに恐怖感をもつとしたら、それはどこか根本的におかしくないでしょうか。

 以上で、遠藤郁夫さんの【投稿】の紹介を終わります。
私は、ただ、新聞やテレビの流す報道をそのまま、ほぼ信用してきた人間です。だから、ジョンホプキンス大学の発表する、世界の感染者数が1億人を超えたとき、では地球の人口は77億人だから、77人に1人は感染者になっているんだなどと、漠然と考えていました。本当は、どうやって、ジョンホプキンス大学は、感染者数を数えているのだ、など疑問は湧いたのですが、確かめようとはしていませんでした。
 仮説実験授業の仲間でった遠藤郁夫さんに見習って、再度、勉強して見たくなりました。



 


 

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仮説実験研究会ニュースで、遠藤郁夫さんの投稿を読む③

2021年02月08日 07時28分09秒 | 日々の雑感
 ●遠藤郁夫さんが持っている疑問

(1)〈PCR検査での陽性者〉=感染者ではないはずなのに
 ひとつは「感染者数」という言葉についてです。以前から気になっていたことですが、〈PCR検査での陽性者〉=感染者ではないでしょう。PCR検査では鼻の奥の粘膜のあたりにウイルスがごくわずかでもあれば、まだ細胞の中に入り込んでいなくてもつまり感染にまで至っていなくても陽性と判定される可能性が高いわけで、「PCR検査での陽性者数」と「感染者数」という言葉は明確に区別されないとおかしいのではないでしょうか。しかし世間的には、2つはほとんど同じものにされています。
 そんなことを考えているとき、品川さんから紹介された『ゴーマニズム宣言 コロナ論2』(小林よしのり、扶桑社、2020)の中で、泉美木欄さんがPCR検査の基準値(何回の遺伝子の複製のサイクルで陽性か陰性かの判定をするかの回数のこと)について詳しく取り上げているのを知りました。
 それによると、台湾の基準は35サイクル、日本は40または45サイクル。なんと!国によって違うのです。ニューヨークタイムス紙によると、アメリカでは37~40サイクルに基準が設定されているそうです。ところが、このサイクル数で遺伝子の増幅を繰り返してしまうと、感染後すでに体内で退治された後のウイルスの残骸までも検出してしまい、陽性と判定されることが発覚したそうです。さらに、アメリカ疾病予防センター(CDC)の研究によると、33サイクルを超えたところで陽性と判定されたサンプルからは、生きたウイルス、つまり感染力のあるウイルスを検出することはほぼ困難だったことが分かったそうです。そうすると日本の40~45サイクルという基準での検査結果は、はたして感染の実態を正しく捉えているものといえるのでしょうか。
 今、日本では、「とにかくPCR検査を増やすことが重要だ」という声が正義のようになっていると感じますが、それによって出てくる陽性者数を無批判的に「感染者数」とみなして受け止めることは多いに問題ありなのではないでしょか?
 ちなみに、あとから紹介する『コロナパンデミックは本当か?』という本の「監修者による補足」には、PCR検査の発明でノーベル賞をもらっているキャリー・マリスの「PCR検査は、感染症の診断には使うな」という言葉が紹介されています。

(つづく)

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「森氏は粗大ゴミではなく、偉大なる過去の遺物」ー前川喜平氏の指摘

2021年02月08日 06時53分50秒 | 日々の雑感
 昨日の東京新聞は、1面に佐藤正明氏の1コマ漫画で、舌禍リレーと題して、森氏の「問題発言を聖火リレー」で描いていて、いつもながら、皮肉の効いた「政治漫画」となっている。
 昨日の東京新聞・本音のコラム欄は、例によって、日曜日なので前川喜平氏が登場し、痛烈な森氏批判を書いているので、紹介したい。

 偉大なる過去の遺物
 前川喜平


 病と闘いつつ、東京オリ・パラに向け尽力する森喜朗氏。その情熱には頭が下がる。首相も務めた大物政治家。自民党の大派閥清和政策研究会の領袖だった森氏は、文教・スポーツのドンとしても君臨してきた。安倍・菅政権の文科大臣6人中5人が清和研。スポーツ庁長官も二代続いて森氏の近い人物だ。

 日本の教育は森政権を境に右傾化してきた。森政権の教育改革国民会議は2000年に提言した教育基本法の改正と道徳の教科化は、それぞれ第一次安倍政権、第二次安倍政権で実現した。安倍政権は森政権の戦前回帰的な教育政策を忠実に継承したといってよい。
 
 「女性のいる会議は時間がかかる」などの発言で女子蔑視を露呈した森氏には、もともと失言が多い。「日本は天皇を中心とする神の国」「教育勅語には時代を超えて普遍的哲学がある」「子どもをつくらない女性を税金で面倒見るのはおかしい」「国歌を歌えない選手は日本代表ではない」など。そこに露呈した森氏の信条は、神話的国体観念、滅私奉公、忠孝の道徳、家父長制秩序、男尊女卑など、恐ろしく復古的だ。個人の尊厳に根ざす日本国憲法の精神と全く相容れない。
 森氏は謝罪会見で自らを「粗大ゴミ」に例えたが、僕は「偉大なる過去の遺物」と呼びたい。現代に存在する余地はないからである。
(現代教育行政研究会代表)

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