この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
大歳は椹野川とその支流・吉敷川に挟まれた位置にあり、地名の由来は、地内にあった
小祠を「大歳様」と呼んでいたことに因むという。
1889(明治22)年町村制施行により、矢原村・朝田村の地域をもって矢原朝田村が発
足したが、1898(明治31)年村名を大歳村と改称する。その後、山口市の一部になった
時、大字は矢原、朝田となり、大歳という名は消えたが、小学校、JR駅、交流センター
などに残されている。(歩行約5.7㎞)
域内の石州街道を歩くため、JR新山口駅(9:45)から防長バス宮野車庫行き約15分、
朝田ヒルズバス停で下車する。
国道9号線を横断して朝田川に沿うと、山口線朝田第2踏切の先にある橋が石州街道筋
である。
橋を少し過ごすと道路上に石組みが見られるが、 1870(明治3)年山口藩民生局(民生
主事は杉民治(吉田松陰の長兄))が、朝田川の治水対策として、関屋橋から椹野川土手まで
の80間(約150m)の堤防上に石畳を敷いて越流堤(水量調節の目的で、堤防の一部を低
くしたもの)を造った。この石畳を「馬踏みの石畳」と呼んだが、現在は堤防上はアスファ
ルト舗装されているが、関係者の配慮により石畳の一部が残されている。
関屋第2号橋からは田園地帯。
田園地帯を進んで行くと、左手に西側の山から突き出た丘陵部の先端部分がある。この
森に8個の古墳があり、福生寺という大寺があったとされ、これに因んで琳聖太子の次男
福性太子が住んだとの伝承が生まれた。地下(じげ)上申絵図に「王子の森」と記述されてい
るという。
この付近は水害が多かったため、土盛りをして敷地を高くして石垣を築いた「水塚」が
残されている。
正面の蔵は、「置屋根造り」といわれる天井まで土壁で覆われた上に屋根を載せた形式
で、火事で屋根は焼けても中に火が入らない構造である。
数軒の民家先は再び田園地帯になる。
田園地帯の道端に小さな祠があって、中に2基の石造物がある。昔、ある大名の家老と
家臣の間でいさかいがあり、敗れた家臣が山伏に変装して九州に逃れる途中、この地で討
ち果たされてしまう。後を追った妻も悲嘆して自害したことから、その哀れさに村人が比
翼塚(仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚)として祀ったという。
民家を過ごすと和田地区の公会堂前に、高さ2.6mの常夜灯がある。刻銘「大神宮」
「常夜灯」とあるが、1890(明治23)年頃に建立されたという。隣には高さ1.4mの
地蔵尊が祀られている。
三度目の田園地帯となると途中からは草道である。
草道にKDDI山口衛星通信センターのパラボラアンテナがデザインされたマンホール
蓋が見られる。(見返って撮影)
この先で吉敷川に合わす。
1935(昭和10)年吉敷川改修の際に架橋された大歳橋(橋詰の親柱に日付あり)で、江
戸期に架橋された石橋(黒川橋)は取り壊された。
橋の西詰先にJR大歳駅。
橋の下流に山口軽便鉄道の鉄橋が架かり、橋東詰で交差した鉄道は吉敷川の土手を走っ
ていた。
橋を渡ると左手が黒川市。
黒川市の民家前庭に庚申塔があるが、黒川市、岩富の境にあたる位置と思える。
雨水などが敷地内に入らないよう石敷で高くした民家。
東詰に戻って椹野川方向へ歩いて左折する。
左折するとメガソーラーの点検中の方から、7月1日の大雨で浸水したので修理してい
るとのこと。その先で床を乾燥中の家屋に出くわす。
岩富公会堂の地には岩富八幡宮があったとされ、御旅所が設けられている。
「もりさま」は森や樹木を神域・神木として祀るものだが、ここにはクロガネモチを神
木として祀られている。
寺とは思えないような構えの最明寺(浄土宗)は、執権北条時頼が弘長3年(1263)の一国
一寺で建立した寺の1つとされる。天台宗であったが慶長年間(1596-1615)に火災で焼失、
その後、山口の法界寺住職が再興し浄土宗に改める。
梵鐘は宝暦3年(1753)に地下請中らが寄進し、境内にある廻国塔は判読困難な状態とな
っている。
本尊は阿弥陀如来像で脇侍多聞天・持国天がある。
朝田神社の西側に大正期の洋風建物があるが、松村医院だった建物である。名医であっ
たそうだが、次女の松村昶子(しょうこ)はベルリンオリンピック(1936)の自由形水泳選手と
して出場。残念ながら予選落ちし、1945(昭和20)年25歳で不帰の客となる。
所有者の方にお会いして敷地内に入らせていただくが、医療に関する蔵書が多くて解体
もままならぬとのこと。
建物の痛みが激しいようである。
クス、スギ、ヒノキなどの大木が茂る中に朝田神社がある。1906(明治39)年の神社
整理に関する内務省令により、1909(明治42)年大歳地区内にあった7社(朝田神社、黒
川八幡宮、住吉神社など)が合祀される。新たな神社名は朝田神社とし、住吉神社の地に新
設されることになり、朝田神社の社殿が移築される。それまでの各神社の地には御旅所が
設けられ、社殿は壊されたという。(🚻あるにはあるが‥)
楼門だけが19世紀のものとされ、他の建物は改造・非改造の差はあるが、18世紀中
頃の建立と思われる。楼門には「住吉大明神」と書かれた社号の額があるが、水の神らし
く椹野川を向いていた。
約200m参道を街道筋に向かうと、入口の鳥居には「玉祖五宮」と刻まれた額束があ
る。
室町期の1497(明応6)年大内義興は九州の戦勝祈願のため、大内氏ゆかりの5社詣を
行う。朝田神社は最後に詣でた神社であったことに由来する。
農耕の神である大歳様は小字大歳に祀られていたが、1895(明治28)年その地に小学
校が開校し、その地名から大歳小学校と称した。大歳様は小学校横に移動したが、その後
も何度か移転して昭和初期に現在地へ遷座する。村名も小学校に因んで大歳となった。
現在の地域交流センター付近に大歳村役場があったとされる。
恵比須社は黒川市にあり、庄屋・吉富藤兵衛の覚書に「建立の由来も作者も不明。言い
伝えでは大内時代からあり、社敷地は往還べりの空地にあり」とある。
明治の末頃には大歳村役場内にあったが、1957(昭和32)年夏の大風で大破し、現在
は黒川市の福田氏宅東隅に移転している。
黒川市は駅場で山口竪小路へ1里半、小郡津市へ1里半で、屋敷数28軒で宿泊施設は
置かれなかったが、人夫23人、伝馬10疋が定められていた。しかし宿馬は別に置かず、
農家の馬を回り回りに仕役するという程度だった。
昔の町並みは消えてしまって「黒川市」という名だけが歴史をとどめている。
山下玄良の屋敷跡と顕彰碑。玄良は1755(宝暦5)年この地に生まれ、家の医業を引き
継ぎ名医として名高く、藩医との推挙もあったが要請を断り町医者に徹する。萩藩の医者
であり、日本画家であった高島北海は子孫である。
石州街道に引き返すと案内板あり。
案内板傍には小さな道標があり、「右:美祢郡、左:小郡道」とある。
供有橋西詰に田中平四郎翁頌徳碑がある。翁は1862(文久2)年生まれで、ハワイにお
いて砂糖キビ栽培で成功し、昭和の初め日本へ帰国する。故郷の人々が飛び石だけの渡渉
で苦労するのを見て、私財を投じて石橋を架け「供有橋」と名付けた。現在の橋は3代目
とのこと。
山口軽便鉄道は、1908(明治41)年小郡新町~山口湯田間が開通したが、現在の山口
線が開通したため、1913(大正2)年には廃線となる。線路は椹野川及び吉敷川右岸土手
に沿って北上し、大歳橋がある所で左岸に移動する。供有橋東詰を走行して現在の大歳小
学校敷地内を通って石州街道を利用して湯田へと繋がっていた。(左の土手が線路跡)
JR大歳駅は小郡から山口まで国鉄線が開通する前に、軽便鉄道の大歳駅があったが、
国有化により現在地に移転する。2面2線を持つ地上駅で、列車交換が可能な駅である。