ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

大竹市阿多田島に灯台退息所と観音山

2023年09月04日 | 広島県

                    
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         阿多田島(あたたしま)は厳島の南にある島で、大竹市小方から南西海上11㎞に位置する。
        周囲12㎞の中央には高山と西には標高100mの小山地がある。平地は両山地の間、内
        深浦から外深浦に少しみられるのみである、(歩行約5.5㎞、🚻港待合所のみ) 

        
         JR玖波駅前(8:40)から大竹市こいこいバス大竹駅行き約20分、小方港バス停で下車
        する。このバスは一律200円と安価なため多くの方が利用されている。

        
         待合所に入ると「乗船券は船内で販売」とあり、出航すると船員さんが販売にまわる。
        (往復1,420円)

        
         出航すると右手に三菱ケミカル(旧三菱レイヨン)の工場群が続く。

        
         フェリー「涼風」に乗って約35分の船旅だが、初めて目にする厳島の裏側は、洋上か
        ら眺めるといくつもの峰があって弥山がどれなのかわからなかった。  

        
         釣り人、島の関係者などと下船すると、正面に待合所、その奥に阿多田島漁協。集落は
        島の北東岸の本浦のみである。

        
         「あたたかい 阿多田島」とあるが、阿多田の地名は、「あたたかい島」が訛ったもの
        という説がある。

        
         まずは正面の山腹に見える阿多田小学校体育館へ向かう。
         この島の住人の生業は半農半漁であったが、大正期から昭和期にかけて鯛のしばり網、
        鰯網が盛んになって漁業が中心となり、1965(昭和40)年にはハマチ養殖が始まった。 

        
         ネットが見えたので上がって行くと旧阿多田小学校グラウンドが残されている。創立年
        はわからなかったが、2013(平成25)年小方小学校に統合されて廃校となり、体育館の
        みを残して校舎は取り壊されていた。

        
         セミ・ドキュメンタリー映画「典子は 今」で、典子が知人女性に会いに熊本から一人
        阿多田島へ訪れるが、相手の女性は亡くなっていた。女性の兄から魚釣りを体験させても
        らった海である。

        
         集落に入って行くと迷路で気の向くままに歩くほかない。 

        
         演福寺(真宗)は漁港の背面に位置し、1717(亨保2)年開創とされる島唯一の寺である。

        
         港には江戸期に構築された「波除け石垣」が現存する。地元の方によると、この石垣ま
        でが海岸線であり、平たい石で宅内に波が入らないよう工夫されたものという。(元は網
        元宅)

        
         鳥居脇には、1978(昭和53)年7月当時の皇太子夫妻が、ハマチ養殖場の視察のため
        行啓された旨の碑が建立されているが、島にとって名誉なことであったと思われる。

        
         1816(文化13)年3月大工屋平左衛門が寄贈したという四脚灯籠がある。建立当時は
        灯台の役目を担っていたというが、現在では町並みも変わり、海岸線が沖に向かって埋立
        てされて、当時の様子を伺い知ることはできない。(台座に盃状穴)

        
         参道右にある日清戦争凱旋記念碑は、3世紀後半から7世紀後半にかけて備中にあった
        箱型石棺の蓋を利用して作られている。裏側には大小20個ほどの盃状穴が見られる。

        
         1712(正徳2)年島に初めてネズミ被害が発生すると、数年毎に被害を受け、悪ネズミ
        を撲滅する祈祷が神社前で行われたという。1908(明治41)年まで島民を苦しめたネズ
        ミ被害は、明治の中期以降に殺鼠剤が導入されてようやく撲滅したとされる。当時は神仏
        に頼る以外に方法がなかったようだ。

        
         阿多田島神社の由緒によると創始は不明だが、往古、名島・来島の両豪族がこの島に漂
        着し祀ったと伝わる。社地は元和年間(1615-23)に上田宗固が小方村の給領主になった時に
        寄進したといわれている。

        
        
         集落には独特な傾斜に家々が並び、積み上げられた石垣は野面積みだったり、少し隙間
        のある石垣(打ち込みはぎ)、隙間のない石垣(切込みはぎ)という方法が用いられている。

        
              海の家「あたた」の案内を目印に坂を上がって行く。 

        
         町並みを見下ろせる場所もある。

        
        
         ベンチのある向い側が観音山登山口。

        
         急斜面はなく横木の階段が設けてあって歩きやすいが、この時期はクモの巣払いに一苦
        労する。

        
         山頂は標識など何もないが、少し下った所に観音堂がある。

        
        
         堂内にある由緒によると、寛永年間(1624-44)頃に玖波村の漁師・与右衛門が肥前国(
        現長崎県北部)の平戸沖で網にかかった観音像を持ち帰ったところ、夢枕に「わが身は平戸
        の生まれじゃ、平戸が見えるところに祀ってくれ」とお告げがあったので、この場所にお
        堂を建て安置することを誓ったという。それからこの山を観音山と呼ぶようになったと記
        す

         何事もなく登れたことと観音像を拝顔できたことに感謝し、お賽銭と参拝を済ませて入
        口の戸をロックする。

        
         見える島が大黒髪島で、その手前の海の中に白石航路標識が見える。

        
         右手に見える島が甲島のようで、この島の中央が大竹市と岩国市の境界である。左奥に
        柱島、端島、黒島も見える。

        
         岩国方面。

        
         キキョウは秋の七草の1つで、華奢な花姿と星形の青紫色の花が印象的なのでシャッタ
        ーを押す。花は秋だが今日は秋にはほど遠い真夏日である。

        
         登山口に戻ってさらに上って行く。

        
         高山登山道入口の先にある三差路は左へ進む。(海の家まで435m) 

        
         1996(平成8)年大竹市が管理する宿泊施設「海の家あたた」が開設されたが、開館日
        が指定された施設である。(本日は休館)

        
         島の東、3㎞沖合にある白石礁という岩礁に設置された安芸白石灯標を管理する目的で、
        1903(明治36)年白石挂灯立標(けいとうりゅうひょう)吏員退息所が設けられた。
         1889(明治22)年呉に大日本帝国海軍鎮守府が設けられ、1895(明治28)年に日清
        戦争が勃発すると、宇品港が兵站基地として利用される。そのため軍用艦船の運航用航路
        標識が設置されたが、太平洋戦争では米軍の機銃掃射を受けて破壊される。

        
         煉瓦造りの外壁にモルタルを塗った建物で、入口側にあるのが付属屋の物置(建築面積
        42㎡)とされる。

        
         物置とされるが浴室、3号宿舎があったようだ。

        
         ここに吏員の一家が住み込んで、白石灯台を守り、海の航行の安全をサポートしていた
        灯台守の職場と家庭があった場所である。
         船で灯台に出向いて点火したり、保守管理にあたっていたが、1978(昭和53)年に無
        人化されて灯台守の役目を終えたという。

        
         吏員退息所(91㎡)はアーチ形の出入口や窓の鎧戸等に洋風の意匠が取り入られている。
        建物は近代化遺産として国の有形文化財として登録され、現在は灯台資料館として活用さ
        れ、吏員の暮らしぶりがそのまま残されているという。
         島の方から「事前に市役所に連絡してきたかね」といわれたが、明治時代のノスタルジ
        ックな建物を見るだけでも価値があった。

        
         資料館前では青い海と瀬戸内の島々が堪能できる。

        
         資料館から石段を下ると、透明度のある海と海岸線が美しいビューポイントである。

        
         石柱があるので近づくと白石燈立標用地とあり。

        
         煉瓦造の附属屋は燈火用の油庫として使用された。退息所などは外観にモルタルが施し
        てあったが、煉瓦の外観を残した建物で建築面積は14㎡とされる。 

        
         亀甲模様の中央に大竹市の市章が入った漁業集落排水マンホール蓋。

        
         1973(昭和48)年突堤(橋?)で繋がった対岸の猪子島(いのこじま)に渡る。

        
         阿多田港沖には、2010(平成22)年オープンした海上釣り堀「大漁丸」がある。帰り
        の船の中で釣り人にお聞きすると、料金は11,000円だが料金以上の収穫があるという。
        ここで釣り始めると他では釣る気になれないようだ。

        
         猪子島には住家はないが、海産物の加工工場がいくつかある。

        
         牡蠣養殖に使用されるホタテ貝が山積みされているが、貝殻の形状や大きさが揃ってい
        ることで作業がしやすいことや、種牡蠣が付着しやすいし離れにくいことで用いられてい
        る。

        
         龍宮神社の創建は不明とのことだが、往古、島の南に鎮座されたが、一時は阿多田神社
        に合祀される。1977(昭和52)年再び島に戻されることになり、この小山が適地として
        選ばれた。 

        
         「いりこ」は西日本で使われる方言のようで、語源は「煎り煮干」とのこと。
         船から陸揚げされたイワシは直ちに水洗いされて、大急ぎでプラのセイロに並べられて、
        海水の入った釜でじっくりと煮上げられる。後に天日干しで太陽と潮風の恵みを受けて出
        来上がるというシンプルな工程のようだが、鮮度を落とさないために時間との勝負である。

        
         イワシ網漁業ではこのような魚が同時に獲れるとのこと。

        
         1888(明治21)年本浦東で大火があり、民家28戸が焼失する。

        
         島には猫が多いが、阿多田島ではこの猫以外はお目にかかれなかった。

        
         船上から見ると橋というより防波堤である。

        

         121世帯229人が暮らす島だが、お会いした方から声掛けもあって「あたたかい島」
        だった。

        
         潮の干満の関係で洞門を見ることができなかったが、15時50分の定期便で島を離れ
        る。