ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市名田島は椹野川左岸の開作地

2023年09月27日 | 山口県山口市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         名田島は山口市南部の椹野川左岸にあって、東は陶ヶ岳を起点とする連山の麓に位置す
        る。地名の由来について地下上申は、海中の離れ小島の中にわずかな田があり、潮時をう
        かがい耕作を行っていたが、これを地主の名田(みょうでん)と呼び、のちに名田島となった
        という。
今回は元禄開作と地名となった島を歩いてみる。(約4㎞、🚻なし) 

        
         JR新山口駅(11:00)から防長バス宮ノ前経由秋穂荘行き約10分、岩屋下バス停で下車
        する。

        
         長妻、慶三、元禄開作の概略図、破線は名田島村と陶村の境界。

        
         降り立ったバス路線が慶三開作の堤防跡のようで、右側の民家後側付近が陶と名田島の
        境界のようである。

        
         向山上集落内。

        
         火の見櫓ほどの高さではないが、階段が新調されているので半鐘は現役のようだ。傍の
        石柱は支那事変出征記念碑で11名の名前が刻まれている。 

        
         風力を利用して籾と籾殻を分ける「唐箕(とうみ)」2台と大甕が並ぶ。

        
         正面には田園の中にある名田島小学校と、傍には慶三開作から元禄、新開作の南蛮樋(国
        指定史跡)に流れ出る農業用水路がある。

        
         校庭の片隅に5つの碑が建つ。

        
         1942(昭和17)年の台風襲来は満潮時と重なって、椹野川と南若川(なんにゃくかわ)
        堤防8ヶ所が決壊して悲惨な光景となる。死者32名、家畜40頭、家屋の全壊流失68
        戸、家屋の浸水や水稲が全滅する。この大風水害受難之碑は当時の水位を印し、後世に伝
        えるため建立された。

        
         「秋本先生父子頌徳碑」の説明によると、父の守恭氏は学校創設に尽力し、潤輔氏は同
         校の校長として子弟の教育に携わったという。その他忠魂碑や従軍記念碑がある。

        
         1873(明治6)年島の内にある大道寺を借りて小学校が開校し、のち六神社境内に校舎
        を新築して名田島小学校と称する。1886(明治19)年東開作の地に校舎を新築し、向山
        小学校と合併して現在に至る。
         2014(平成26)年グラウンドの芝生化モデル事業に選定されたようで、ヒートアイラ
        ンド現象や埃の緩和のみならず、転んでもケガをしないなどの効果があるようだ。学校は
        今年で創立150周年でもある。

        
         正徳年中(1711-16)陶村から分離して独立する。1889(明治22)年の町村制施行により、
        近世以来の名田島村として自治体を形成する。

        
         東開作公会堂前に地蔵尊と石祠。

        
         一般県道山口防府小郡自転車道線は山口市宮島町から防府市の佐波川を経由して、小郡
        下郷の東津に至る約36㎞の自転車道として整備された。
         名田島の区間はJR四辻駅前から南若川堤防を走り、岩屋下から県道を小郡へ向かう路
        線である。(左手は山口南総合センター) 

        
         この一帯は、1650(慶安3)年島山東の樋の口から向山の南若川西土手までが築立され、
        俗に慶三開作といわれている。

        
         小郡バイパス第7函渠を潜ると島エリアに入る。1626(寛永3)年長妻某なる藩士によ
        って築立されたもので、陶村と島が陸続きになった。

        
         厚く土で塗り込めた土蔵の屋根の上に、防火と断熱のため別構造で置き屋根を載せ、火
        災時には取り除くこともできる構造になっている。

        
         石造地蔵尊には「三界萬霊」とあるが、この世に存在する一切の霊(萬霊)を多くの人に
        供養してもらうことを願って、寺院の入口や路傍に建立された。三界とは生命あるものが
        住む3つの世界(欲界・色界・無色界)のことである。

        
         周防大橋と周囲に稲穂がデザインされた集落排水用マンホール蓋。

        
         島周囲約2.2㎞内外の小島は緩やかな上り坂である。

        
         かって島や東開作集落内で飲料水、茶の湯や風呂水など生活用水として利用された湧水
        の池(手水川)がある。碑は皇紀2600年(1940年)に建てられたもので、碑文は神功
        皇后(伝説の皇后)が三韓征伐の際、ここで面影を移し島明神に戦勝祈願したと伝えると記
        す。

        
         六神社の社伝によると、名田島開作の鎮守として厳島神社より勧請して創建されたと伝
        える。六神社の祭神は三女神、保食神と仲哀天皇・神功皇后である。

        
        
         拝殿傍には灯すことができない常夜灯。

        
        
         大元明神社とあるが詳細を知り得ず。

        
         大道寺(曹洞宗)の寺伝によると、1742(寛保2)年村民の願いによって大島郡小松村に
        あった奥ノ坊を移したのが始まりとされ、1744(延亨元)年現寺号に改める。

        
         1889(明治22)年名田島で生まれた田中慶雲は、高村光雲に学び、境内には彫刻作品
        の「清浄観音」がある。

        
         1867(明治3)年2月7日に木戸孝允率いる脱隊騒動の鎮圧軍は、大道寺を本陣・野戦
        病院とする。この戦いで殉難した5名の墳墓が山口藩によって建立される。
         墓標は読み取れないが、同年2月9日小郡八方原にて負傷して13日に亡くなった藤井
        伊之助、杉山守孝及び伊藤頼利ほか2名とされる。

        
         桜井慎平(1834-1880)は名田島で生まれ、幕末には諸隊(集義隊)を結成して仮総督となっ
        た。のち八幡隊と合併して鋭武隊となったが、慎平の処遇は明らかでない。
         維新後は官吏の道に進み、金沢裁判長となり金沢で没する。墓標には「判事正六位桜井
        直養之墓」と刻まれている。

        
         再び六神社に戻って参道を下る。

        
         標高が低いので展望はよくない。(山口南総合センター方向)

        
         西開作と椹野川方面。

        
         参道を下って来ると正面にこんもりとした森が見えてくる。

        
         神功皇后が三韓征伐の際、この岩に軍船を繋げて休憩された言い伝えがあると説明され
        ている。神護石の転訛したものと思われるが、神域又は霊域として尊信されてきたことは
        言い伝えのとおりである。

        
         森重雪島(せっとう・1841-1915)は森重嘉兵衛の長男として名田島村に生まれる。186
        8(明治元)年戊辰の役に従軍したが、のち脱退騒動に加わったため流刑されて3年間萩市見
        島で暮らす。
         罪が許された後、30代で絵師の狩野芳崖に弟子入りして南画を学び、郷里に帰り多く
        の子弟を教えた。島中山墓地に門人たちが碑を建立する。

        
         墓地近くの天理教前バス停よりJR新山口駅に戻る。(@220-)