ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市二島の古宮から朝日山と秋穂正八幡宮

2023年09月18日 | 山口県山口市

               
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         秋穂二島(あいおふたじま)は、山口湾に流れ込む椹野川の左岸に位置する。1610(慶長
          15)
年の検地の際に秋穂村とされたが、広範な村であったので旧秋穂町地域を秋穂本郷村
        とし、西方を秋穂二島村にする。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、「弐島と申儀は小島が弐ツ在り之、此の島を片取
        り、郷名を弐島村と往古より申伝之由」とある。現在は2つのうち1つは、開作地となり
        1つは海中に残っている。(歩行約7.5㎞)

        
         JR新山口駅(9:41)から防長バス秋穂荘行き約20分、原の前バス停で下車する。辺り
        は民家が存在しない田園地帯のバス停である。

        
         田園地帯を歩くと左前方に権現山と朝日山、その手前が小名でいう二島集落。

        
         秋穂八十八ヶ所霊場65番札所である北田大師堂。

        
         二島の由来となった2つの島の左手は、開作地にあって陸続きとなったようだ。一方の
        海中にある島は、干潮の際には歩いて渡ることができることから「山口のモンサンミッシ
        ェル(小さな島全体が修道院)と称賛されることもあるという。

        
        
         平安期の814(弘仁5)年頃瀬戸内海に海賊が横行し、異国からの脅威もあって、降伏鎮
        護の神として豊前国宇佐神宮より勧請、海の波打ちぎわである秋穂二島に鎮座する。
         室町期に社殿が消失し、1501(文亀元)年大内義興が現在の正八幡宮がある地に遷座さ
        せる。それ以降、この地は古宮というようになる。

        
         二島集落から南集落へ垰越えする。

        
         垰越えの先に山口湾が見えてくる。

        
        
         四差路を左折すると石仏があり、舟形に掘られた中に刻字があるが風化して読めない。 

        
         車の轍もあって先行きを心配することなく歩ける。分岐からだと車でも入ることが可能
        である。

        
        
         若宮神社の社伝によると、昔、岩屋山の箕尾浜に鎮座していたが、大地震で破壊されて
        しまったので、平安期の806(大同元)年現在地に遷座したとある。

        
         若宮神社右手より石段に入ると、天に上るような石段で転げ落ちると若宮神社まで戻っ
        てしまいそうな勾配である。

        
        
         権現山山頂部(標高65m)の磐座前に焼火(たくひ)神社が鎮座する。由来によると、15
        43(天文12)年頃に毎夜現在地に光明があり、霊夢により隠岐島の焼火神社から勧請した
        とある。火伏せのほか、邪病退散、海難守護の神として大切に祀られている。

        
         本殿前から眺める山口湾と秋穂湾。

        
         南集落と山口湾、右手にきららドーム。海岸部の黒い部分は元塩田跡で、メガソーラー
        が設置されているようだ。

        
         転げ落ちそうな石段を避けて神社右手の車道を下る。

        
         鳥居を潜り左折道を下って来ると集落道に出る。近くに南公会堂があって、ここも駐車
        可能である。(入口に標識あり)

        }
                 惣在所集落に入り蔵がある所で左折する。 

        
         朝日山南側参道の途中には観音像があり、石段の中に新たな山門が設けられている。

          
         平安期の896(寛平8)年に千光院として祢宜集落に開創される。その後、火災で焼失し
        て真善坊に合併される。 
         1869(明治2)年真善坊と遍照寺(両寺とも祢宜集落)が合併して真照院となり、朝日山
        観音堂があった地に移転する。その後、火災に遭い、1963(昭和38)年に現在の堂宇と
        なる。

        
         この二島の地には幕末に奇兵隊が5ヶ月ほど駐屯する。1763(文久3)年6月に結成さ
        れた奇兵隊は、9月には萩藩が山口に政庁を移し、幕府が海から攻めてくるとすれば、山
        口に近い秋穂とみて、海岸線防禦のため陣をかまえる。(権現山同様に秋穂の風景が広がる) 

        
         9月3日富永有隣ら先陣が秋穂浦に上陸し、5日に本隊が船で来て、大里集落の泉蔵坊
        と万徳院(のち合併して栄泰寺)と禰宜集落にあった遍照寺と真善坊の4ヶ所に陣を置いた。
         1863(文久3)年8月27日都を追われた七卿が、三田尻に到着して滞在すると、9月
        25日奇兵隊は警護のため移動する。(登山愛好家では人気度の高い大海山と勘十郎岳)

        
        
             書院と庫裏前を下ると鳥居があり、奥の院への参道に入る。(鳥居先の左手に🚻) 

        
         石段を上がって行くと奥の院観音堂分岐があり、傍には西国三十三観音霊場第21番(丹
        波国・穴太寺)の石仏がある。

        
         護国神社への道を進むと鳥居があり、柱には「慶応三年(1867)丁卯四月 堅田信義寄付」
        と刻まれている。堅田は萩藩寄組士筆頭であり、幕末には八幡隊総管に就任するなど活躍
        した人物である。
         鳥居を潜ると左手に、周芳国秋穂郷朝日山八幡隊招魂碑が建立されている。碑文を読み
        取ることはできないが、「元治三年(1866)丙寅春三月 堀真五郎」とある。元治3年は存
        在しないが、「慶応」の元号は徳川慶喜に応じるという意味合いから、これを嫌ったもの
        と思われる。

          
         朝日山北峰山頂(標高80m)には、朝日山護国神社が鎮座する。藩の招魂場開設令によ
        り八幡隊の招魂場として、1865(慶応元)年6月八幡隊が招魂場を建設する。

        
         吉田年麻呂、寺島忠三郎をはじめ66柱が祀られ、後に村出の戦没者278柱が合祀さ
        れる。 

        
         秋穂八十八ヶ所69番札所は祢宜の真善坊に置かれていたが、1932(昭和7)年真照院
        奥の院が建設されて移ってきた。堂の傍には薬師如来像も建立されている。

        
         西峰は周回することができ、神変大菩薩(役の行者)や石仏などが祀られている。

        
         小郡市街地の手前に南流する南若川と名田島開作。

        
         時間の関係で西峰から西の道に入らず、引き返して途中にある順路道に入る。

        
         南峰に妙見社が鎮座する。

        
         石段を下って西峰への順路に合わすと、西国霊場2番・金剛宝寺(通称は紀三井寺)があ
        る。右の石柱には、1925(大正14)年寄進により三十三観音霊場が設置された旨が記し
        てある。 

         
         再び本堂前を通って東参道に下り、禰宜集落へ向かうと朝日山の山容が広がる。

        
         火の山連峰の南端にある亀山と二島中学校。

        
         正八幡宮の御旅所。

        
         一ノ鳥居を潜ると2つの太鼓橋。地上の人と天上の神を結ぶ架け橋で、渡りにくい橋を
                架けることによって、人間界と神が住まう領域との境界を明確にする意味があるそうだ。

        
         二ノ鳥居前の灯籠は、長州ファイブの一人、秋穂二島出身の山尾庸三が寄進したもので
        ある。1662(寛文2)年建造された二ノ鳥居は、花崗岩で八幡鳥居の笠石にはわずかほど
        のそりがある。

        
         寄進された灯籠がずらりと並ぶが、時期は幕末の弘化年間(1844-1848)から慶応年間(18
        65-1868)までに寄進されたものが多い。四つの寺に宿陣した奇兵隊が、この境内に集まっ
        て訓練をしたとされる。

        
         正八幡宮は本殿・拝殿・幣殿・楼門と廻廊が軒を接して並び立っているが、大内時代の
        代表的な建物である。度々火災に遭うが、1501(文亀元)年に大内義興が現在地に再建し、
        1740(元文5)年に毛利宗広が改築したのが現建物である。(国指定重要文化財)
         西戎(せいじゅう)鎮護の神として祀られたことから、現在地に移されても建物は西向きに
        なっている。

        
         もとは「八幡二島宮」と称していたが、移転後の地は秋穂のため「秋穂八幡宮」となる
        ところであるが、変えることは適当でないとのことで「正(しょう)八幡宮」と称するように
        なったという。別当坊は二島の極楽寺から秋穂の遍明院に代った。

        
         独自の建築様式のようで建物全体が「宮」の字型にできており、「宀」が楼門と回廊、
        「呂」が拝殿、中殿、本殿を示している。

        
         回廊の柱の礎石は周囲に溝を掘り、これに潮水を入れて白蟻の侵入を防ぐようにできて
        いる点など、この社独特の技法が施されている。

        
         石造の真ん中は荒神様で右手が足王様とのこと。

        
         石造の庚申塔は花崗岩製で笠があり、塔身の正面を舟形に彫りくぼめ、青面金剛像を薄
        肉彫されている。「元禄5(1692)」と刻まれ、県下最古の刻銘がある庚申塔とのこと。

        
         秋穂街道(お上使道)は、秋穂浦から下村、天田集落を過ごし、正八幡宮裏から宮の旦、
        梅ノ木垰を越えて陶峠に至っている。

        
         松尾社。

        
         正八幡宮境内地には古くから弥勒堂があった。八幡宮の社僧でもあった遍明院の性海住
        職が、1783(天明3)年に秋穂霊場札所を設ける際に、その第1番札所を弥勒堂として大
        師堂と相堂にした。現在の堂は1918(大正7)年の建立である。

        
         鐘楼は本殿と同時期の1740(元文5)年建立とされ、県下に同形式の鐘楼が残っている
        例が少ない上、神社に残存している例もなく、貴重な文化財として山口県指定文化財に指
        定されている。(2009年に保存修理工事)

        
         秋穂二島は10集落に分散しているが、その中央にあったのが祢宜集落で、役場、学校、
        農協、商店などが集中していた。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、秋穂二島村として存立し、1944(昭和19)
        年まで村役場を置いた。後は市出張所となっていたが、隣に新築移転して駐車場用地とな
        っている。
         また、この付近に奇兵隊が駐屯した遍照寺があったとされる。

        
        
         唐破風玄関の祢宜公会堂脇に秋穂八十八ヶ所第71番札所。この地は古くからあった薬
        師堂跡で、当時を偲ばせる宝篋印塔が残されている。

        
         2022(令和4)年に山口市南部の幼稚園(鋳銭司、名田島、二島、秋穂)を統合し、「山
        口みなみこども園」(旧鋳銭司幼稚園内)が設置された。定員割れが大きな理由だそうだが、
        このままだと小・中学校も同様な道を歩むことになりそうだ。
         小学校が地域のシンボルであり続けることを願って、二島小学校前バス停(13:30)より新
        山口駅に戻る。