ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市の大殿地域は旧萩往還道界隈と大内氏の遺構

2023年02月20日 | 山口県山口市

                             
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
          山口盆地のやや北寄りに発達した町で、東南側を北東から西南へ椹野川が流れ、町の中
         心部を一の坂川が東南に流れ込み合流する。域内を萩からのお成道(往還道)と石州街道が
         通り、一の坂川左岸一帯に大内氏時代の史跡が残る。
          天花から旧萩往還道を歩いて山口駅に戻るルートを散歩する。(歩行約5㎞、🚻あり) 
        
         
          JR山口駅から山口市コミュニティバス香山公園五重塔行きバス約10分、野田バス停
         で下車する。

         
          バス停を引き返して野田学園高校、菜香亭など見ながら国道9号線を横断すると、七ツ
         尾山の麓に雲谷庵の屋根が見えてくる。

         
          室町期の画僧・雪舟は、室町期の寛正年間(1460-1466
)頃大内氏を頼って山口に下る。
         1467年大内氏の遣明船に乗って明に渡り、帰国後は山口に住んだが、のち各地を遊歴
         したのち、文明年間(1469-1487)に再び山口に来山し「天開図画楼(てんかいとがろう)」とい
         う画房を開いた。その位置は現在の雲谷庵の所らしく、雪舟65歳の頃といわれている。
         雪舟の没年や死没地は山口や益田など諸説あるようだが、山口説によると、1506(永正
           3)
年87歳の時、この雲谷庵で没したといわれている。

         
          雪舟没後に庵は荒廃したが、藩主毛利輝元は雪州の画系が絶えるのを惜しみ、肥前の画
         工・原治兵衛に継がせ、治兵衛は雲谷等顔と改名する。江戸期を通じて雲谷宗家が継承し
         てきたが、明治維新後民有となり建物は解体された。
          1884(明治17)年遺跡の隠滅を惜しんだ地元有志が、跡地を買い取り庵を再建する。
         正面の柱は旧仁平寺楼門の柱、外の花頭窓は旧観音寺の窓とのこと。

         
          玄関にも旧高嶺宮(山口大神宮)の蟇股、天井には小野為八が描いた龍、興隆寺僧房の扉、
         宝現霊社拝殿の柱などが流用されている。 

         
          雲谷庵の通りを進むと右手に俊龍寺(曹洞宗)がある。室町期の1460(寛正元)年大内教
         弘が建立し、創建当時は献珠院と称していた。毛利輝元が豊臣秀吉の没後に菩提を弔うた
         め家臣柳沢元政に命じ、同寺を改築して位牌を安置し、秀吉の法名から現寺名に改める。

         
          安土桃山期の1597(慶長2)年は足利義輝及びその母慶寿院の33回忌に当たったので、
         毛利輝元は柳沢元政(鴻峯城代)に法会の執行を命じた。柳沢は織田信長に追われた足利義
         昭の庇護を条件に毛利家へ出仕したが、その後、秀吉に請われて豊臣家に仕え、秀吉死後
         毛利家に帰参すると経歴を持つ人物であった。
          供養塔は右から豊臣秀吉、足利義輝、足利義昭、慶寿院とされ、秀吉の供養塔には元政
         が秀吉から拝領した鎧が埋められているという。

         
          寺から萩往還道に出ると木町人丸神社。「ひとまる」の語呂から「火・止まる」神とし
         て信仰されてきた。
          山口も大きな火災が発生して住民は難渋したため、島根の人丸神社から分霊を勧請した
         ところ、その後は大火に見舞われることはなかったとされる。

         
          街道からの五重塔は、最上階の屋根と相輪が見える程度である。

         
          一の坂ダムの中央付近に名勝虹橋があった。南北朝期の1370年明国から山口の大内
         舘を訪れた使者趙秩(ちょうちつ)が、この風景を称えて「虹橋跨水」の詩を詠んだが、今は
         見られぬ風景である。
          「虹橋、水に跨がる 盤浸甃玉(ばんしんしゅうぎょく)、東流を按む 石を鞭うち、仙を尋
         ねて興未だ休まず 借りに紫虹を得なば、飛んで去らんと欲す 扶桑、何れの処か、是、
         三洲」とある。

         
          山口市中心街に見られるマンホール蓋。

         
          街道筋の光台寺真向かいにある長屋門は、1867(慶応3)年支藩である清末藩が、藩庁
         の山口移転にともない屋敷地を購入して長屋門などを築いたが、本邸の完成を見ないまま
         廃藩となる。

         
          上立小路界隈の民家は、その多くが更新されている。

         
          1849(嘉永2)年創業の部坂呉服店は、築100年以上の数寄屋造りの町家とのこと。

         
          築地のある地が築山館(つきやまやかた)跡。

         
          大内弘世の孫・教弘は勢力範囲の拡大により、大内氏館の北側に新館を構築するが、立
         派な築山があったので「築山館」と称した。その豪華さは京の建物に劣らず、築山と池の
         景色はことに優れていたという。
          しかし、室町期の1556(弘治2)年3月、内藤隆世が杉重輔を襲った際の兵火で類焼し、
         以後は廃墟と化した。

         
          築山神社は毛利輝元が大内義隆を祀るため、1605(慶長10)年に建立した「宝現霊社」
         が始めと伝える。当初は上宇野令の多賀神社敷地内にあったが、その後、龍福寺などを経
         て、1870(明治3)年現在地に移された。
          本殿、拝殿ともに、1742(寛保2)年に山口市大内の興隆寺境内に建立された東照宮の
         社殿を移築したものという。

         
          江戸期には築山した巨石奇岩の多くは散乱していたとされるが、幕末に八坂神社を遷座
         させるため平地にした時、大部分を割り砕き、また他へ持ち去られたという。 
          築地にも大石をたたみ上げた石垣が残っていたが、幕末に藩庁が山口に移り、政事堂を
         構築する際にすべて持ち去られた。今は一部に盛土が残る程度である。

         
                  「池はうみ こすゑは 夏の深山(みやま)かな」
          連歌師・飯尾宗祇が大内氏の招きに応じて山口に客寓した折、築山館でしばしば蓮歌の
         興行を行った際に詠んだ発句とされる。

         
          室町期の天文年間(1532-1554)大内義隆は迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公
         卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で7人の若い殿上
         人が一首ずつ歌を作り、次々に箏(そう)で弾き歌いすることが行われた。これが箏の組歌の
         起源であり、歌の組み合わせなので組歌という。

         
          毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡子・元教は常日頃より毛利氏に
         不満を抱き、豊後国の大友義鎮と大内氏再興を企てる。元教は父に賛同を求めたが、父は
         逆に誅殺することを命じ自害に追い込まれた。墓石はもと築山神社の土塁上にあったが、
         近年境内に移設された。

         
          八坂神社の社伝によると、南北朝期の1369年大内弘世が京都感神院(現八坂神社)
         から勧請して上立小路に建立したが、大内教弘の時代(1459)に香積寺門前に移された。そ
         の後、室町後期の1519年大内義興が高嶺大神宮(現山口大神宮)の創建にあたり、八坂
         神社も大神宮の地に移して翌年社殿を新築した。
          1864(元治元)年山口に藩庁を移す際、当時は畑となっていた築山館跡地に移築遷座さ
         せた。(国重要文化財)

         
          擬洋風の河村写真館(旧小野写真館)は、明治初期の建築によく見られるベランダと塔屋
         を備えている。建築年代や建築主については諸説あるようだが一説によると、1875(明
           治8)
年毛利藩の砲術師範であった小野為八の築で、県下では1号の写真館であったという。  
         小野は渡米して写真術を学び、3つに並んだアーチは彼が渡米中に経験したものとされる。
         建築時から所有者を変えながらも、およそ120年にわたり写真館として使われ続けた。

         
          大内氏の居舘であった大内舘と築山館の西側を南北に通る道は、山口の町を建設する折
         に計画道路として開かれた。大内時代は北詰めの木町橋よりやや南に惣門、東端は法界寺
         付近に惣門を置く武家地であった。
          江戸期になると、この道は萩から三田尻に向かう御成道(旧萩往還道)となった。(下竪小
         路付近) 

         
         
          野村家住宅は、1886(明治19)年に造り酒屋の杉酒場として建てられたもので、主屋
         は木造平入り2階建てで旧萩往還道に面し、2段になっている屋根は高い方が主屋で低い
         方が土間部分である。主屋の他に茶室と土蔵、庭があって、裏手に酒造場があった。(国登
         録有形文化財)

         
          土蔵は漆喰作りで瓦屋根の下に隙間がある「置き屋根造り」で、梁間2間×桁行3間の
         蔵は数字をとって「にさんの蔵」と呼ばれ、山口地方では大正から昭和初期にかけて、こ
         の形式の土蔵が建てられたそうである。(国登録有形文化財)

         
          庭内の角にある大きな樽を伏せた形の「酒樽茶室」は、大酒樽4樽分の良質材のみを使
         用し、戦後に造られた珍しい茶室である。ちなみに大酒樽は20石樽で、一升瓶2,000
         本の容量であるとのこと。

         
          裏手の酒造場跡にはふるさと伝承センターと美祢氏住宅が並んでいる。村長や衆議院議
         員を務めた美祢龍彦氏が、1891(明治24)年山口市錦町に居宅として建てられたものが、
         市に寄贈されて約3分の1のみ移築されている。

         
          大内舘の西門が発掘調査後に原形に即して復元されている。南北朝期の1360(正平1
           5)
年大内弘世は大内御堀から山口の地に移り居館と定めた地である。
          室町期の1551(天文20)
陶晴賢の乱では焼失を免れたが、1556(弘治2)年の内乱
         で焼失してしまう。居館は四方に堀を堀り、その土をもって土居が築かれていた。

         
          現在、大内舘跡に建つ龍福寺(曹洞宗)は、鎌倉期の建永年間(1206-1207)
大内満盛が鴻ノ
                  峰南麓
の地に瑞雲寺という臨済宗の寺を創建したという。その後、大内弘直が再建して弘
                  直の菩提寺としたが、室町後期の1454(亨徳3)年大内教弘が曹洞宗に改め龍福寺と改称
         する。のち大内義隆が重建したが、1551(天文20)年の内乱で焼失する。

         
          室町期の1557(弘治3)年毛利隆元が大内義隆の菩提寺として、大内舘跡に龍福寺を再
         建する。隆元建立の堂宇は、1881(明治14)年火災により本堂が焼失したため、大内地
         区にある興隆寺というお寺の釈迦堂を移築して本堂とする。釈迦堂は室町期の1521(大
           永元)
年に建てられたもので、室町時代の寺院建築の特色をみせる大伽藍である。(国重要
         文化財)

         
          本堂に向って右手にある池泉庭園は、室町期の1400(応永7)年末頃に作庭され、大内
         舘が焼失するまで存在していたと推定される。南北に約40m、東西約20mの瓢箪のよ
         うな形をした池に中島が設けてある。
 
         
          室町期の1550(天文19)年大内義隆から布教の許可を得たサビエルは、よく大殿大路
         にあった井戸の傍で説教を行なったと伝えられる。どこに井戸があったかはわからないが、
         寺の参道脇に「サビエル布教の井戸」が再現されている。

         
          この参道は紅葉が美しいスポットとして知られている。

         
          1895(明治28)年5月鴻東尋常小学校(現大殿小学校)開校記念に1本の松が植えられ
         た。翌年に山県有朋が来校し、子供たちが大きく羽ばたいて成長することを願って、「先
         駆ける」との意味から、「さきがけの松」命名揮毫されたという。(石碑は後に建立)

         
          大殿大路界隈の町並み。

         
         
          萬代家の本宅が明治期に竪小路の西側に新築された際に、離れ(茶室)として建てられた
         もので、大正期に庭などとともに現在地へ移築された。
          江戸期には醤油製造業を営んでいた萬代家は、徳山藩士・木谷勘右衛門の子が、山口に
         出て「萬代」を名乗ったことに始まるという。 

         
          萬代家の敷地内で杉民治(吉田松陰の兄)が維新後の一時期、「杉私塾」を開いた建物が
         ある。建物は明治維新前後に建てられたもので、2階建てにそれぞれ4畳半の和室がある。

         
          十朋亭は萬代家が江戸後期に建築した離れである。当主の萬代利兵衛は、勤王の志士た
         ちの活動を擁護したため、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの者が出入りする。

         
          萬代家に宿泊していた大坂の儒学者・篠崎小竹が名付けたとされ、小竹が揮毫した「十
         朋亭」の扁額がある。

         
          旧萩往還道を進むと石州街道に合わす四ツ辻で、「札の辻」と呼ばれ江戸期には高札場
         があった。

         
          札の辻を右折すると、石州街道と並行して大市、中市と現在でも山口の中心的な商店街
         に入る。

                 
                 アーケード街に入るとひと際目立つ建物は、1883(明治16)年創業の山陰堂で「銘菓
         舌鼓」が有名である。

         
          梅田家は江戸期には酢屋、明治期は質屋・醤油製造を営んでいた。現存する建物は築約
         180年の町家である。

         
          中市の豪商・山田家の初代が、毛利氏の防長二州移封の際、藩主輝元に従って広島から
         山口入りしてこの地に居を構える。
          本陣に指定されていたが、本陣は諸大名の宿泊所であるが、山口は山陽道と違い諸大名
         の通行はなく、藩主が山口に来て御茶屋に宿泊する時、お供の藩士が多い場合に本陣が使
         用されたという。明治期には山口町役場などに活用された。

         
          正福寺(真宗)の寺前には、安土・桃山期の1581(天正9)年寺が建立された時に植えら
         れたというイブキの大老樹がある。

         
          山口に夏を告げる祇園祭は、7月20日から27日まで行われるが、初日に八坂神社で
         鷺の舞が奉納されて、この御旅所まで神輿3基が町を練り歩く。最終日は御旅所から八坂
         神社へ御還幸が行われるが、大内時代から約600年以上続く祭りである。

         
         
          
山口客館は幕末に萩から山口に藩庁を移転した際、賓客に対する応接所として、幕末の
         1867年に建てられた。明治になって今道小学校の校舎に利用されたが、現在は山口地
         方裁判所の敷地となっているので、閉庁時には碑を見ることができない。
本門と東門は、
         雪舟庭のある常栄寺の惣門と勅使門に移築されている。


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