ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市三田尻の英雲荘と御舟倉 

2023年02月09日 | 山口県防府市

          
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三田尻は佐波川河口の左岸、防府平野の中心に当たる桑山付近及び南部の平地と海岸砂
        丘上に立地する。

         地名の由来は古代の娑婆県(さばのあがた)に大和朝廷の御田(みた)があり、その尻にあたる
        ことから御田尻になり、現在の三田尻になったという。(歩行約4.5㎞)

        
         JR防府駅南口から防長バス小田港行き(12:10)約8分、三田尻病院前バス停で下車する
        と、バスの進行方向に英雲荘の門が見える。

        
         1917(大正6)年に玄関は東向きとされたが、明治期までは萩往還に面する形で南向き
        だったとのこと。建物は江戸時代に建てられた「大観楼棟」、明治時代に建てられた「奥
        座敷棟」、大正時代に建てられた「玄関棟」と「台所棟」に区分される。

        
         玄関棟には客室が付設されており、来客の宿泊にも考慮された造りとなっている。

        
         御書院南側廊下の板襖には、江戸中期の篆刻家・三井親和(みついしんな)の書がある。
        「松閒白月 照仙書」、奥側に「鸚鵡杯中 酔留客」とある。

        
         大観楼棟1階の書院の間は、藩主が来客や家臣と対面する重要な部屋であった。 

        
         右から玄関棟、2階建てが大観楼棟、奥座敷棟の建物構造である。1725(享保10)
        海路での参府途中、遭難事件が発生するなど天候に左右される通行に難儀をしていたよう
        で、宝暦年中(1751-1764)頃より参府は陸路に転換される。
         使用されなくなった御茶屋は、1783(天明3)年に7代藩主・毛利重就(しげたか)の隠居
        所(三田尻御殿)となる。

        
         1789(寛政元)年に重就が死去すると御殿は廃止されて、
1776(安永5)年三田尻御茶
        屋に建てられた花月楼は変遷を経て、現在は松陰神社内に移築されている。
         この地にある花月楼は、1786(天明6)年国分寺に建てられたものが、明治期に移築さ
        れたものである。

        
         花月楼は江戸時代中期に考案された花月楼形式で、八畳の間と上段の間が設けられて茶
        会を催すことができるよう設計されている。奥にも3畳の茶室がある。

        
        
         国分寺五重塔の礎石が敷石の一部に利用されている。

        
         1871(明治4)年の廃藩置県後、明治政府は旧藩主に東京居住を命じた。西南の役が終
        わり、世の中が平静を取り戻すと、ほどなく旧藩主は国元居住が許可された。
         1898(明治31)年毛利家も旧領国に居を構えることとなったが、三田尻御茶屋を居宅
        にするには規模が小さいため、防府市多々良に邸宅が完成するまでの仮住まいになる。奥
        座敷棟は敷地西側に単立していた棟を移築して接続された。

        
         1863(文久3)年に京都の変で長州に逃れた三条実美ら七卿が2ヶ月間滞在した場所で
        ある。大観楼は2階から海が見える眺望だったことから付けられたという。

        
         2階から庭園。

                
                  東門入口に天明年間(1781-1789)の配置図。 

        
         老松神社は飛鳥期の652年創建と伝えられ、当初は須佐神社と称して娑婆(さば)氏が祀
        っていたとされる。平安期の872年に松の老樹が繁茂することから老松神社となったと
        いう。

        
         本殿の西南にあるクスノキの老巨樹は、昔から御神木として崇められ、根廻り16m、
        樹齢2千有余年と伝える。県内では川棚の大クスに次ぐ巨樹であるとのこと。

        
        
         1863(文久3)年6月に結成された奇兵隊が、9月5日秋穂海岸を警備するため移動し
        たが、25日には三田尻の御茶屋に滞在中の三条実美ら七卿警護のため三田尻へ移る。そ
        の際に本陣としたのが正福寺(曹洞宗)である。 

        
         萩往還道が交わる四差路を右折すると松原児童公園がある。1874(明治7)年この地に
        県立華浦(はなうら)医学校と病院が開設される。
         しかし、運営資金の不足や学校に関する法律改正などにより、1877(明治10)年に病
        院、1883(明治16)年に学校が廃止された。現在も県立病院が防府の地にあるのは、こ
        こに県立病院があったことが大きな要因とも考えられる。

        
         梅田幽斎は、1809(文化6)年江戸で生まれ、34歳の時に場所は特定できないが三田
        尻の新道で医業と塾を開き、大村益次郎も若い頃に医学などを学んだ。
         また、当時多くの人々が死亡し、恐れられていた伝染病の天然痘を予防できる種痘の方
        法を長崎で学び、藩内でいち早く行う。

        
         萩往還道を南下して行くと四差路の角に道標があり、道標の西面に「左:宮市天満宮・
        志ものせき道」南面には「右:かみかた・左:中のせき道」とある。

        
         幕末頃(1860年)の三田尻町、御舟倉などの配置図。

        
         道標を左折して往還道を東進すると野村望東尼終焉の地がある。1867(慶応3)年9月
        25日望東尼は山口を発って薩長連合の東征を見送るため三田尻へ向かう。
         この日から宮市天満宮で7日間の戦勝祈願をするが、体調を壊して歌友であった荒瀬家
        に足を留めていたが、この地で62歳の生涯を閉じる。

        
        
         この筋(萩往還道)が三田尻の中心地で旧五十君家周辺に古民家が存在するが、ほとんど
        が更新されて往還道だった面影は残されていない。

        
         五十君家(いぎみけ)は備後国神辺(かんなべ)の五十村を本拠とする小領主であった。毛利氏
        の防長移封に際して、作間新五左衛門(初代三田尻都合人)を頼って三田尻に移住する。
         五十村の村君に因んで五十君氏と称したと思われ、酒造業を営み三田尻の町を整備する
        など、その功績により三田尻本陣に任じられる。

        
         光妙寺(浄土真宗)は、室町期の1474(天明6)年大和国高市郡山田村に草創された。
        のちに広島県吉田に移転したが、毛利氏の防長移封の際に引寺してもらってこの地に一宇
        を建立したという。
         境内に光妙寺三郎(1847-1893)の墓があるが、住職の3男として生まれ、1865(慶応元)
        年長州藩諸隊の鴻城隊に入隊し、井上馨の書記役を務めた。維新後はフランスなどに留学
        し、帝国議会議員などを歴任し、弁護士活動に専念するも肺結核で死去する。墓は品川の
        光福寺にもある。

        
         蘭方医として活躍した梅田幽斎は、1868(明治元)年に阿東町での鉱山事業に失敗、1
        870(明治3)年7月8日、失意のうちに教え子の医師・山根秀策宅(宮市)で亡くなる。享
        年62歳。

        
         防府における近代工業は柏木幸助の事業で始まる。1875(明治8)年、この地でマッチ
        工場を設立して製造を開始したが工場が全焼する。1883(明治16)年から体温計の製造
        を行った柏木幸助の生家と工場跡であったが、現在は宅地化されて柏木体温計があった証
        が消え去る。(2018年撮影)

        
         一馬本店は造り酒屋を生業としていたが、1899(明治32)年毛利家の備荒貯蓄米倉庫
        を購入して味噌・醤油の醸造場とする。一馬という社名の由来は、元日に馬が店に飛び込
        んできたので付けたという。

        
         間口10mほどもある倉庫は現役のようで、背後に聳える煙突は、イギリス積みと呼ば
        れる角形の煉瓦煙突である。 

        
         防府では「美しい自然」のゴロが入ったマンホールを見かけるが、三田尻港に通じる旧
        道には市松模様に市章が入ったマンホール蓋が並ぶ。

        
        
         1863(文久3)年住吉神社の境内地に築造された石造灯台は、高さ727㎝で宝珠・笠
        ・火袋・中台・石積みの竿・基壇からなる灯籠型である。竿の部分には建立に携わった世
        話人や石工、拠出者などの銘がある。

        
         住吉神社は、1715(正徳5)年水軍の船頭が願い出て海上安全のために創建される。

        
         住吉神社と対峙するように建立されているのが人麿神社。江戸期に「火止まる」で防火
        神、あるいは「人生まれる」で安産神として広まったという。

        
         三田尻御舟倉は萩から三田尻への最短距離であったため、1611(慶応16)年頃に下松
        から三田尻に移された。
         参勤交代は三田尻港より乗船し大坂港に着港、それから別の御座船に移乗して淀川をさ
        かのぼり、伏見から陸路によって東上した。藩主一行の用具、雑貨などは別の御用船で海
        路江戸まで輸送した。参勤交代が陸路に変更されるとお役御免になるが、朝鮮通信使など
        の送迎の任などに当たった。

        
         警固町(表町・裏町)に通じた石畳道(坂道)の一部が残されている。

        
         鋳物師大師塚は古墳時代後期に造られたとされるが、いつしか周囲が削り取られ、元々
        どのような形をしていたのかはわからないという。

        
         横穴式石室と呼ばれるもので内部は3つに区切られており、大きな石が用いられている
        など石室構造の壮大さは県内の代表格といわれている。

        
         天御中主神社の創建は飛鳥期の625年とされ、古くは妙見社といった。廃仏毀釈の影
        響で妙見信仰は仏教的であるとのことから現社号に変更された。
         廃仏毀釈がなければこのような社号にならずに済んだと思われるが、地元では今でも妙
        見様として親しまれている。 

        
         神社横にある車塚古墳は、6世紀中頃(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、後円部
        の石室は稲荷社が祀られているとか。

        
         上から見ると円形と台形が合体した鍵の形をし、昔の車の形にも似ているので「車塚」
        と呼ばれる。

        
         旧萩往還道と山陽本線が交差する左手には、江戸期を通じてこの地に芦樵寺があって、
        幕末期に久坂玄端をはじめとする勤王の志士たちを援助した岡本三右衛門の墓がある。勤
        王のために財を失い一介の百姓となったというが、のちに正五位の官位が授けられた。今
        の時代では考えられないが、陰で支えてくれた人たちがいたことで新しい時代が迎えられ
        たのである。

        
         1898(明治31)年に山陽鉄道の三田尻駅として開業するが、1962(昭和37)年に駅
        名を防府駅と改める。
         鉄道唱歌第2集25番に「出船入船たえまなき 商売繁盛の三田尻は 山陽鉄道の終わ
        りにて 馬関にのばす汽車の道」とあるが、1901(明治34)年に山陽鉄道会社が設立認
        可されて、下関まで開通したのは設立から13年目のことであった。