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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市宮市‥防府天満宮と旧山陽道の宮市宿

2023年02月08日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         宮市は佐波川流域の左岸に位置し、天神山南麓にある防府天満宮(松崎天神)前を東西に
        山陽道、南へ真直ぐにのびる道は御茶屋(英雲荘)へ向かう萩往還道である。この付近が町
        の中心で、山陽鉄道(山陽本線)は佐波村と三田尻村の村境に敷設された。
         地名の由来は、九州の大名が休泊する宿駅で、近在の商いの場として昔から市が立ち、
        宮前の市から宮市となったと思われる。(歩行約4.7㎞、🚻町の駅)        

        
         JR防府駅北口から防長バス阿弥陀寺行き約10分、国分寺バス停で下車する。

        
         バス停から路地を抜けると国分寺前の旧山陽道に出る。

                
         国分寺正面で車を避けて溝側に立つと、溝の中に「明和六己丑(1769)‥」と刻まれた石
        柱が石垣に埋め込まれている。

        
         酒・肉と葫(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・薑(しょうが)の五辛(ごしん)を飲
        食した者は、寺に入ってはいけない旨の「不許酒肉五辛入門内」の碑が南大門跡前に建つ。
        五辛の扱いは時代や地域によって異なるようである。
         築地塀に5本の定規筋が施されているが、皇室に由来する格式を表すようで、御所、勅
        願寺院などに用いられて5本が最高とされている。

        
         南大門跡を進むと仁王像のある楼門(仁王門)を潜るが、往昔の門は室町期の1417(応
          永24)
年に焼失したが、1503(文亀3)年大内義興が再建する。現在のものは、1596
          (文禄5)年毛利輝元が建立し、のちに毛利重就(しげたか)が修築を行ったとのこと。

         
         金堂(こんどう)の東南方に位置して、創建当時は七重塔があったが落雷により焼失する。
        鎌倉期に五重塔で再建されたが、室町期の1417(応永24)年伽藍全焼の際に類焼したと
        される。

        
         荘重な二層入母屋造の金堂は見応えがある。周防国分寺は、奈良期の741(天平13)
        聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺のひとつである。創建当初の境内に今も
        伽藍を残すのはきわめて珍しいとのこと。

        
         金堂は昔ながらの土檀礎石の上に、1788(天明8)年頃に毛利重就を施主として重層入
        母屋桁行7間、梁間4間を再建したのが現在の建物である。

        
         金堂を正面にして右へ廻ると「衛門三郎」と記された長文の由緒書きがある。衛門三郎
        は強欲な長者で、弘法大師がお布施を頼んだ時、大師の鉄鉢を叩き落した。翌日から8人
        の子供が亡くなり、乱暴した僧侶が弘法大師と知り、大師を追いかけて四国各地を廻る。
        この伝説が遍路の始まりと記述されている。

        
         その傍に、禁門の変(1864.7.19)において戦死した国分寺隊4名の招魂碑がある。境内
        には鳥居もあって大権現が祀られている。

        
         大権現の左手にある「水鑑の井戸」は、菅原道真が太宰府に下向する際、周防国分寺に
        参詣して受戒を受けたお礼に、この井戸で姿を写し、自画像を奉納されたという伝説の井
        戸である。

        
         1707(宝永4)年毛利吉広によって建立された持仏堂(客殿)。 

        
         旧山陽道を西下すると「防府天満宮大宮司・武光家屋敷跡」の碑がある。武光家伝によ
        ると、防府天満宮を創建した周防国司の土師信貞の次男・土師武光が元祖で、以来、武光
        姓に改め、第35世まで天満宮大宮司家を務めた。入口の門は国庁寺が解体される際に裏
        門を移設したものとされる。

        
         萬行寺前は鉤の手となっているが、防衛手段として、敵が一気に攻め込みづらくするた
        め、また、敵を追い詰め易くするために宿の入口を直角に曲げたものである。

        
         一等水準点が設置されているが、全国の主要な国道または主要地方道に沿った約2㎞ご
        とに設置されているようだが、ここに設置された当時は主要道であったということだろう。
         この水準点を使用することにより、地盤沈下の調査や道路、下水道などに活用され,土
        地の高さを㎜単位で求めることができるとのこと。この水準点の標高は14.2782mと
        表示されている。 

        
         岡本三右衛門頌徳碑が芦樵寺山門前にあるが、岡本家は繰綿(くりわた)や木綿を扱う商家
        で、久坂玄端をはじめとする志士たちを援助し、中谷正亮、大楽源太郎らも出入りした。
        1862(文久2)年2月3日中谷が久坂に寄せた手紙には、坂本龍馬がここに滞在している
        ことが記されているという。
         旧宅跡は旧山陽道沿いの高野歯科医院向かい側付近、墓は防府市車塚の山陽本線沿いの
        墓地内にあるが、勤王のために財を失い一介の百姓になったともいわれている。

        
         臨済宗東福寺の芦樵寺(ろしょうじ)は、室町期の1350(観応元)年大内弘世が大内家菩提
        寺として、現在の防府市戎町に建立する。江戸期に萩往還道が設けられると、1665(寛
          文5)
年代官より移転を仰せつかり、往還筋の三田尻車塚に移転させられて宿坊としての役
        割を任せられる。
         1868(明治元)年当地にあった正定寺が宮市の西念寺へ合併したため、その跡地に移転
        して今日に至る。

        
         ノンカラーだとデザインがよくわからなかったが、「美しい自然」をテーマに右田ヶ岳、
        佐波川を泳ぐ鮎、エヒメアヤメが描かれたマンホール蓋。

                 
        
         参道の両側には明治初期まで東西に9つの社坊があり、これらを総じて酒垂山満福寺と
        称した。1868(明治元)年3月28日に太政官から神仏分離令が布達され、社坊の敷地や
        建物が、いつ、だれに、どんな値段で売り払われたのか処分されたのか定かではないとの
        こと。大鳥居は、1629(寛永6)年萩藩初代藩主・毛利秀就の寄進とされる。

        
         暁天楼(ぎょうてんろう)は宮市の前小路で旅館を営んでいた「藤村屋」の離れで、一階は
        漬物置き場、二階は隠れ座敷になっていた。幕末には志士達の密議の宿となり、坂本龍馬、
        中岡慎太郎、高杉晋作、桂小五郎らがここを訪れている。1915(大正4)年建物は酒垂山
        (天神山)西麓の境内地に移築されたが、老朽化のため解体された。現在は円楽坊跡に復元
        されている。

                
         境内にはほぼ等間隔に並んでクスノキの巨木が3本あり、その中心をなすのがこのクス
        ノキで御神木とされる。(暁天楼の裏側) 

        
         円楽坊が売却された後の経緯はわからないが、現在は菅原道真が茶道に精通していたと
        のことから、1991(平成3)年茶室(芳松庵)が建てられた。

        
         大専坊は満福寺の別当で、神社創建とともに設けられたと伝わる。1895(明治28)
        10月民間に売り払われていた大専坊を天満宮が買い戻し社務所とした。現在は大専坊跡
        として敷地内を見学することができるが、建物内部は見ることができない。

        
         現存する建物の建築年はわからないそうだが、1557(弘治3)年毛利元就が大内義長や
        陶晴賢の残党を攻め、防長両国を制圧するまでの1ヶ月間、ここ大専坊を本陣とした。幕
        末には遊撃隊の屯所にもなった。

        
         防府天満宮は、903(延喜3)年に菅原道真が筑紫の地で没すると、その翌年に土師信貞
        が創建す
る。約300年後の1195(建久6)年国司であった重源上人によって平安風の社
        殿に改修されたが、幾たびの火災に遭遇し、1962(昭和37)年現在の建物が再建された。
         楼門を挟んで神牛(しんぎゅう)と神馬(しんめ)が置かれているが、神牛は菅原道真が丑年丑
        の日に生まれ、丑の日に亡くなった伝承から牛が大事にされ、神馬は神様の乗り物とか。

        
         ご神幸祭は平安期の1004(寛弘元)年、一条天皇が北野天満宮への社参、その際に当地
        にも勅使が遣わされた際に行われた「勅使降祭」を起源とする。菅原道真が勝間の浦で「
        ここに住まいし無実の知らせを待っていたい」とのことから、御霊を勝間の地までお連れ
        し、「無実でした。知らせが届きました」と報告する祭りである。

        
         本殿の東側に周防国24番札所の宮市天神本地観音堂があるが、重源上人が創建したと
        伝える。明治の神仏分離により萬福寺管理が解かれ、霊台寺に属することになり天満宮よ
        り分離された。1920(大正9)年に霊台寺が満願寺となり、現在はその管理となっている。

        
         国分寺と同じ五本筋築地塀が見られる。

        
         春風楼(しゅんぷうろう)は、1822(文政5)年藩主毛利斎熙(なりひろ)が五重塔を発願した
        が、幕末の政情変転が妨げになり未建となり、1873(明治6)年に楼閣様式重層の御籠堂
        (通夜堂)となる。
         棟梁であった喜右衛門は残念に思い、高さ2mの模型を造り尊敬する山口常栄寺の秋田
        諦州和尚に贈った。完成しておれば四面高さ14丈6尺(45m)の塔が聳え立っていたで
        あろうが、和尚はその後、名田島の霊光寺の院主になったので、現在は地蔵院境内に模型
        が残っている。

        
         春風楼からは防府の町並みが一望できる。

        
        
         絵馬などが奉納されている。

        
         五重塔の代わりに
春風楼となったが、床下の土台は欅の木組みがそのまま使われている。

        
         大専坊に宿泊した野村望東尼が、「鈴虫の声が大変美しい」と語ったことで鈴虫坂と呼
        ばれるようになったという。坂の途中にある標柱には“梅香坂”という文字と歌が刻まれ
        ている。

        
         満願密寺(真言宗御室派)は、神亀年間(724-729)安芸国吉田(現安芸高田市)に天台宗阿弥
        陀院として創建される。のち毛利元就の時代に真言宗に改宗して毛利家の祈願所となるが、
        毛利氏が防長二州に減封されて萩に城を構えると、萩城二の丸に移建する。明治維新後は
        城とともに寺は解体され、しばらくは萩の弘法寺に移住していたが、1912(大正元)年に
        末寺であった防府の霊台寺を併せこの地に移転してきた。

        
         2000(平成12)年満願寺の鎮守として防府稲荷が再建された。

        
         満願寺を下った所の三角地に迫戸(せばと)祇園社がある。江戸後期頃この地域で疫病が流
        行した時、疫病退散を願って山口の祇園社(現八坂神社)から勧請したと伝えられるが、建
        立年代は不詳であるという。  
         
                 兄部(こうべ)家は鎌倉期から続く商家で、都濃、佐波、吉敷郡内の合物(塩魚、干物)を手
        広く扱う。1642(寛永19)年に宮市本陣と定められ、西国の大名や幕府の上級役人が利
        用し伊能忠敬も宿泊する。2011(平成23)年7月22日未明の火災で建物は焼失したが
        表門付近が残る。

        
        
         在りし日の宮市本陣(2009年6月撮影)

        
         1929(昭和4)年に建築された伊藤家(元洋品店)は、洋館風の外壁に和瓦の寄棟屋根を
        もつ和洋折衷の木造構造である。 

        
         定念寺前は鉤の手となっていたと思われるが、現在はその面影を見ることはできない。
        正面には酒造業を営んでいた中村家(現在の安村商事)が宮市宿の脇本陣を務めていた。

        
         定念寺(浄土宗)には木喰上人が彫ったとされる木喰仏があり、門前には遊行上人がもた
        らしたといわれる宮市観音堂が建っている。この寺は旅の僧の宿泊所であったと云われて
        いる。

        
         宮市宿にはこのような建物はほとんど残されていない。(旧神田酒場) 
         さらに西下すると四差路となるが、当時は右への道はなく脇本陣の市川家があったが、
        道路開発のため取り壊されて遺構等は残されていない。

        
         成海寺(曹洞宗)の参道と山門。

        
         もとは宝成庵と号したが、その後、火災により古文書などすべて焼失したので創建年や
        寺歴はわからないという。現在の本堂は当寺の20世住職が一握の托鉢米によって建立し
        たという。
         伊藤博文は、1899(明治32)年に同庵で演説を行った際、住職の不撓不屈の精神を称
        え「滴水成海」の四文字と、金襴の袈裟に多額のお金を添えて住職に贈った。今、その扁
        額は本堂中央の仏殿に掲げてあり、寺号を成海寺(じょうかいじ)と改める。
         現存する本堂は、演説が行われた半年前に竣工されたが、山陽道
を往来する軍隊の宿舎
        に使う目的もあったといわれている。

        
         1909(明治42)年10月26日満州ハルピン駅で射殺された伊藤博文の嘆徳碑が本堂
        前にある。

        
         游児(夕仁)川筋は中世頃までは佐波川の旧河道で、宮市へ上がる津(河港)があったと説
        明されている。

        
         佐波ノ津から南下すると旧街道に合わすが、左側が新町、右が今市である。正面に見え
        るのが、1765(明和2)年創業の呉服屋で、1955(昭和30)年の火災で店舗と洋館を焼
        失する。消失を免れた住宅は、1918(大正7)年に建てられた数寄屋造りの佇まいで、国
        登録有形文化財に指定されているが一般公開はされていない。

        
         呉服屋の先にある小橋から「山頭火の小径」に入り、宮市郵便局先の栄町通りを駅方向
        へ向かう。1925(大正14)年に宮市商参会として建てられた
木造2階建ての建物があっ
        た。
         1936(昭和11)年の市制施行を機会に三田尻実業会と合併して、1960(昭和35)
        まで防府商工会(現商工会議所)が置かれていた。残念ながら最近取り壊されたようで、防
        府における近代化遺産がまた1つ消えてしまう。(解体前の建物で現在は駐車場) 


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