この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
行波(ゆかば)は錦川下流域の右岸、雲霞山を背にして、その山麓緩斜面に集落が形成され
ている。
玖珂郡誌に「往古虫明神、小浜へ御着船の砌、大波小波打行シ所也」と地名の由来らし
き記述がある。(歩行約2.5㎞)
錦川鉄道の行波駅は、1971(昭和46)年当時の国鉄が行波仮乗降場として設置する。
単式ホーム1面のみの地上駅で駅前広場を有していない。
ホームから見る集落と錦川。
駅から見える荒玉社には神舞が奉納される。神舞は疫病の流行、災厄に苦悩し、凶作に
困惑した里人達が人事を尽くして然る後に、神明の加護を願ったものとされる。神舞は式
年奉納とされ、7年に1度、全12座の舞が奉納されるが、前回は2019年に行われた。
行波の鎮守社として江戸中期頃には諏訪大明神が祀られていた。1791(寛政3)年旧鎮
守の社地に社殿を造営したうえ、対岸より荒玉社、天疫社を勧請し、諏訪大明神と合祀し
て、社号を「荒神社」とする。1811(文化8)年「荒玉大明神」と改称し、その後、拝殿
新造時に「荒玉社」と称する。
集落内を錦川清流線が走る。
40戸ばかりの小さな集落。
龍雲寺前を走る清流線のひだまり号「桜のピンク」
架道橋を潜ると見上げる位置に龍雲寺山門。
龍雲寺(臨済宗)は室町期の1395(応永2)年創建と伝える。
今度はこもれび号「森林のグリーン」が走り去る。
対岸の下地区とは行波橋で結ばれている。
岩国行きの列車まで時間があったので下地区を歩いてみる。
山がちで耕地が少なく、大半が畑地で紙漉きなどして生計を支えた時代もあった。神舞
は錦川河川敷に神殿(舞台)を設け、高さ約25mの松を立て木の上に祀ってある「三光」
を燃やし、五穀豊穣、民安穏、厄疫退散を祈願する松登りが行われる。
国道187号に出る。
観音寺はもと観音堂と称して臨済宗の寺院であったが、1669(寛文9)年再興されて浄
土宗に改宗される。
ほぼ国道筋に家並みと南側に団地がある。
途中で駅に引き返し、13時12分岩国行きに乗車する。(建物は北河内幼稚園)
この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
角(すみ)は保木川の西岸に位置し、域内の西を錦川が北流する。地名の由来を玖珂郡誌
は、「角五郎右衛門資清居住、故角ト云」とある。
土生(はぶ)は域内中央部を貫流する保木川と近延川、竹安川の支流域に集落がある。地
名の由来を玖珂郡誌は、かって土生伯耆守国広が住んでいたことに因むという。(歩行約
6㎞)
南河内駅は、1960(昭和35)年に国鉄・岩日線の駅として開業する。その後、国鉄分
割民営化により錦川鉄道に移管されて今日に至る。
単式ホーム1面1線でホーム上に屋根付きの待合スペースがあり、駅前広場を有している。
(行波駅からは1区間)
錦川に架かる3つの沈下橋のうち、真ん中にあるのが細利橋。駅から片道約600mの
距離にある。
右手の清流線高架を列車が走り去る。
橋の幅は他の沈下橋に比べて意外と広い。
国道2号に通じているためか交通量は多い。
細利集落側から見る沈下橋。車は離合できないので両岸で状況を見ながらスムーズに走
行されている。
駅と岩国西中学校の三叉路に椎尾(しいのう)八幡宮参道。
174段の石段を上がると正面に神門(楼門)。
平安期の大同年間(806-810)宇佐八幡宮より勧請したと伝え、南北朝期の1340(暦応
3)年に再建される。河内郷24ヶ村の氏神で多くの社坊があったとされ、通称河内の八幡
様と呼ばれている。
菅原社には大草履と烏天狗。
神社の車道を下ると保木川沿いに角集落がある。
川の左岸を上流に向かうが、右岸の道は国道2号。
保木川の支流・竹安川に架かる橋を渡ると、校門と校舎のような建物があったが詳細は
知り得ず。
その先の民家から山に向かう道に入ると、巨木の下
に何かが祀られている。
山裾を辿ると次の集落が見えてくる。
相ノ谷、二鹿に通じる道に出ると左手に国道2号。赤瓦は南河内郵便局。
四叉路の左手に光西神社と光西寺。
国道筋の家々は建て替えられており、白壁に囲まれたO家だけが残る。
徳山~岩国間に路線バスがあるが、1日5便と少なく16時過ぎまで便がないので引き
返し、椎尾八幡宮下の直進道を駅に向かう。
河内椎尾宮祖霊社とされ、明治以降の神仏分離と神葬祭の普及に伴い、氏子のなかで神
葬祭をもってした人々の霊を合祭する社だそうだ。