この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
平生(ひらお)は室津半島の付け根辺りに位置し、域内の北半部は赤子山南麓にあたり、南
半部は低地帯で水田が広がる。
古くは内海で、田布施川をはじめ河川が運ぶ土砂の堆積と、江戸期に開作が行われて低
地帯を形成している。 (歩行約5㎞)
JR柳井駅から防長バス上関行き25分、平生小学校前バス停で下車する。1つ手前の
横土手バス停と距離に差はないが、路地歩きができる道を選ぶ。
バス停から引き返して水越交差点を横断し、次の三叉路を左折する。
左前方の森に野島神社があり、その手前のT字路を右折すると、その先に大野毛利家の
居舘跡がある。(居館跡、野島神社については「大野」に記載)
生野邸に並んで藤井酒場があったようだが現存しない。
大内川に石柱群が立っているが、家屋の礎石のようで平生町の町並み図では川に沿って
家並みが記載されている。
桜町筋はマロニエ通りが横断している。
何の商売をされていたのだろうか2階には袖卯建が残る。
説明によると、堀川南蛮樋は江戸末期からの塩浜廃止により、耕地化されていくなかで
築造された。この地域の防潮と排水機能を維持し、海抜0mに暮らす人々の生産と生活を
守ってきた。公共下水道整備のため、1993(平成5)年堀川公園に移築されたとある。
三界萬霊塔は、世に生を受けたものすべての霊を供養するものとされ、建立される位置
は墓地などに多く見かけるが、旅先で亡くなった方や争いが起こらないように願いを込め
て、町の境に設置されたようだ。
三界萬霊塔横の民家には学校を思わすような門柱があるが、この付近に塩業会所があっ
たとされ、これに関連するものだろうか。
1651(慶安4)年から8年の歳月をかけて、約120町歩の耕地と20町歩の塩浜が完
成する。また、雨水を排水するために大井川、大内川、堀川、熊川などの人工河川も築造
された。これらの河川に設けられた樋門は42ヶ所を数える。
その中で、熊川に設けられた土手町樋門にはオランダ技法が採用され「南蛮樋」と称さ
れた。1987(昭和62)年大内川防潮水門・排水場の竣工により、約300年間の使命を
終える。(熊川の河川改修のため移築復元)
西ノ町入口に旧生永酒場。
酒場の地に平生郵便局があったという。
萬安旅館付近には百十銀行平生支店などがあって平生の中心街であった。
平生町のマンホール蓋。
森本油屋だった建物。
浄土真宗の真覚寺。
寺の横は神社の御旅所。
地元の方にお聞きすると、真言宗の欣成寺という寺があったとのこと。
こちらの三界萬霊地蔵菩薩は座像である。
海の島であった玖珂島は、江戸期に干拓されて陸続きとなり、干拓地は塩田とされた。
玖珂島に祀られている玖珂島神社は、竪ヶ浜の荒木大明神から勧請されたともいうが、由
緒がないため創建年など知り得ず。
右にカーブする地蔵尊の前に「小川今蔵旧家跡」の碑がある。1864(元治元)年今の平
生町曽根の布浦作次郎の6男として生まれ、1888(明治21)年小川家の養子となり、そ
の2年後、久保白船(自由律俳人で種田山頭火の親友)の姉・武免(ムメ)と結婚する。
今蔵は麻里府村役場の書記をしており、国木田独歩と知り合い、独歩は「酒中日記」に
大河今蔵として登場させている。
その後、1905(明治38)年麻里布村長に就任し、1913(大正2)年まで務めるが、村
長を辞して1年後に47歳で他界する。
戎町には居蔵造の民家(旧立山建具店)と奥に法輪寺。
法輪寺(浄土宗)の本堂を探し求めるが見つからず。平生開作築造の折、犠牲になった者
のために玖珂島に1ヶ寺建立されたとされるが、欣成寺なのか当寺かは知り得ず。
熊川(旧水保川)傍にある祠。
堀川南蛮樋は熊川にある土手町南蛮樋を参考に築造された。ロクロの心棒部分と板戸を
縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより、板戸を上下させて海水の防禦を
図る仕組みになっている。干潮時には板戸を巻き上げて上流からの余水を放流し、満潮時
には板戸を降ろして下流側からの海水の進入を防ぐ仕組みで、毎日2回樋守によって樋門
が管理されていた。
この南蛮樋も下流に排水機場が設置され、その役目を終える。その後、公共下水道整備
のため解体されることになったが、1993(平成5)年堀川公園の一角に移設復元される。
南蛮樋の脇に平生開作の設計・施工をした「横道忠右衛門豊行顕彰碑」がある。この忠
右衛門の功績を妬む人物により、1676(延宝4)年12月28日大野字中村において暗殺
される。(享年48歳)
習成小学校は、1872(明治5)年文部省の学制により、翌年1月大野毛利氏の弘道館を
上関部第3小学として横土手に開設される。その後、各地区にあった小学を統合して18
78(明治11)年習成小学と改称された。「習成」という名称は、中国古典の書経にある「
習与性成」からとったとされる。
1914(大正3)年塩田跡地であったこの地に新築移転し、1963(昭和38)年大野・曽
根小学校を統合して平生小学校に改称する。1966(昭和41)年大野南に新校舎が完成し
て移転する。(説明板より)
人間魚雷「回天」2型の胴体部分(実物)で、光市の武田薬品光工場の敷地から発掘され
たものである。
この2型は、1944(昭和19)年12月までに2基がテスト用に準備されたが、深度2
00mまで耐えるように設計されたが、実際には60mが限度であったという。
最終的には設計上の問題点が解決せずに放置されたが、艦体のみは200基が完成した
という。(説明より)
平生歴史民俗資料館内に、神花山(じんがやま)古墳より出土した頭骨の古代女王復顔像が
ある。
赤子山に向かって緩やかな坂道を進み、坂ノ下1号函渠を潜る。
沼八幡宮の創建について、風土注進案は元仁元年(1224)の春、沼の農民・平右衛門の夢
枕に海中に漂う宇佐の神が立ち、「此地に跡を垂むと欲て来る也,吾が祭の事を司どら
しむ者ハ汝なり、汝が姓は水沼なり」と告げた。翌朝、海岸に流れ寄った幣を宇佐の神
として祀ったのが始まりと記す。
秀厳寺(浄土宗)は毛利就頼(旧吉見政春)が、養子先の養父・吉見広頼の菩提を弔うため
阿武郡大井村に創設し、広頼の戒名をとって現寺号とする。その後、玖珂郡通津村に移転
し、1679(延宝7)年現在地に移転する。
境内に入ると左手に案内板があり、その上の段に初代就頼の生母と正室ならびに正室の
生母のお墓がある。(同じような墓が3基あったので撮影するが間違いかも‥)
墓地の一角から見る平生の町並み。
大野毛利家の墓所は、正面の民家前を左折して道なりに進むと案内板がある。
案内によると、ここは海前寺(曹洞宗)の墓地で寺は麓にあったが、1868(明治元)年阿
月の岩休寺へ合併される。ここには2代・就詮(なりあき)ほか10基の墓がある。
下ってくると入口に道標が設置されていた。
国道を横断すると十八割バス停だが、交差点先の十三割バス停は路線が違うようで便数
が多い。