ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市陶は旧山陽道沿いに家並みと陶窯跡 

2021年12月23日 | 山口県山口市

          
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         陶(すえ)は椹野川の左岸に位置し、南側に新開作ができ、名田島村が成立するまでは瀬戸
        内の山口湾に面していた。西部を椹野川、東部を綾木川が南流し、山陽新幹線、山陽本線、
        国道2号線が域内を東西に走る。
         地名の由来は、古代この地で須恵器を製していたことによるといわれている。(歩行約
        8.5㎞)

        
         JR四辻駅は、1920(大正9)年大道駅ー小郡駅間に新設開業し、開業当時のレトロな
        木造駅舎であったが、2021(令和3)年1月に簡易駅舎となる。正面の松の木や植栽は駅
        開業を祝って、地元の人が持ち寄って造ったもので現状のままだった。
         駅名の多くは設置当時の町村名が使用されたようだが、鋳銭司村の小字が用いられたと
        される。 

        
         駅から西へ進むと矢田踏切。

        
         高橋川に架かる高橋橋で旧山陽道に合わす。

        
         川傍に石祠と庚申塚。

        
         橋の先に大村益次郎が医業を始めた地がある。1846(弘化3)年3月に蘭学を学ぶため
        大阪の緒方洪庵の塾に入り、ここで5年余、医学・蘭学を学び、1850(嘉永3)年に
適塾
        を辞して郷里に帰り、25歳で医業を開く。翌年には隣村の農家・高樹半兵衛の娘・コ

        (琴子)を娶る。

        
          
         街道筋も家屋の更新が進んで古民家が少なくなった。

        
         綾木川から先が陶地区。

        
         旧山陽道の設置は古く、豊臣秀吉が文禄・慶長の役により、出兵のために道が整えられ
        たといわれ、後に山陽道となる。
         その道筋に春日神社の参道があり、その入口に立(建)石があるが、東西南北を表現した
        石とも伝えられており、東西の方向に立てられている。石には刻まれた文字はなく、いつ
        頃、誰が、何のために立てたか不明だそうだが、この付近の地名(立石)になったといわれ、
        山陽道を行き交う人の道標にもなっていた。

        
         参道に入ると立石自治会館があり、会館左手の国道2号立石地下道を潜る。

        
         春日神社の由緒によると、飛鳥期の708年藤原不比等が創建したとも、奈良期の78
        5年奈良の春日大社から勧請したとも伝える。
         古くは本殿が4棟横に並んでいて、春日大社と同じ様式であったが、江戸中期頃に大風
        で棟が破れたため、現在の本殿になった。

        
         拝殿に掲げてある「鋳銭司古図」の絵馬には、古い時代の鋳銭司が描かれているが、陶
        村は鋳銭司村の枝郷であった。1870(明治3)年綾木川を境として、東を鋳銭司村、西を
        陶村として行政的にも区分されて独立した。

        
         八坂社の由来によると、もとはこの南の岩砂山にあり、祇園社と称していたが、明治政
        府の神社合祀政策により現在地に移転したという。
         社は南北朝期の明徳年間(1390-1393)疫病が発生した時に大内義弘が建立したと伝える。
        その後、ウンカ発生による被害際にも祈願、藩政時代には小郡勘場の代官も参拝し管内の
        平穏を願ったという。

        
         神社前の参道を引き返し、右折道に入り団地内を抜けると旧山陽道に合わす。

        
         右手に浄土真宗の円覚寺があり、古くは法古坊といい大内家の祈願所であったという。
        大内家没落後に寺は荒廃したが、江戸初期に八木主膳なるものが再興して真宗の道場とし、
        1664(寛文4)年寺号を受けたという。
         道は寺の西側で大きく北に曲がり、さらに西に折れると陶上市である。

        
         道の左側に上市えびすの小祠があり、丹塗りの社殿に恵比寿像が祀られている。小祠と
        並んで石の庚申塔があり、正面に猿田彦太神、反対側の面に庚申と刻まれているが、一石
        に猿田彦と庚申が刻まれているのは珍しいとされる。

        
         市自治会館の敷地に宝篋印塔と石地蔵が並んで立っているが、近くにあった観音堂が廃
        絶したとき、この地に移したという。
         宝篋印塔は1776(安永5)年、石地蔵は1721(享保6)年の建立で、それぞれ日本廻
        国の行者が願主になって造立したという。 

        
         秋穂から山口に通じる秋穂街道は、陶付近は山口湾が迫っていたこともあって岩砂山東
        山麓を通って旧山陽道に合わしていたようだ。

        
         橋の西側袂に下市えびす社(左側)と地蔵堂があるが、百谷川で上市と下市に分かれてい
        た。  

        
         地域交流センター敷地の角に石柱2本。左側は「サイレン寄贈者吉野伊作氏」と刻まれ、
        右は「大正15年5月29日御手播□□」とある。昭和天皇が皇太子時代に山口を行啓され
        た石碑のようだ。

        
        
         藁葺屋根の上にトタンを被せた家が散見できる。

        
         陶小学校西側から山手に向かうと左側に西円寺(真宗)がある。由来によると、創建は南
        北朝期の明応年間(1492-1501)山口にあった善福寺の末寺で、当初は西陶にあったが、領主
        であった益田氏から土地を貰って移転。大内家滅亡後に家臣の八木主税が得度して、16
        17(元和3)年建立したとされる。

        
         陶峠に向かうと右手に八雲神社があり、土地の人は荒神様と呼んでいる。社伝によると、
        推古天皇13年(605)に月見山の頂上に創建されたが、後に現在地に遷座したという。
         ここの神事「腰輪踊」は、馬の病難除けと五穀豊穣を祈願して始められたもので、室町
        後期の1558年から続く古い神事である。

        
         神社裏手の百谷川沿いに石風呂がある。いつの時代かは定かではないそうで、使用時期
        も収穫期の終わる秋から冬にかけて主として老人が使用していたという。大正期中頃まで
        使用され現在は風呂のみが現存する。

        
         陶峠への道に戻って台地上にある寺家集落へ向かう。

        
         右折する角に大歳大明神、地蔵尊、首無し石像などが並ぶ。 

        
         左前方に正護寺(しょうごじ)が見えるが、寺前の台地には周防国鋳銭司の庁舎があったと
        いわれる。司家(じけ)之跡の碑は、この道の途中から右折して民家前を右折すると案内板が
        ある。

        
         これまで長門国に置かれていた鋳銭司が、平安期の825(天長2)年周防国に移され、
        「富寿神宝」や「承和昌宝」を鋳造した。
         司家は移転から約20年間この地に置かれていたが、847(承和14)年に東方の潟上山
        に移された。 

        
         正護寺(臨済宗)の寺伝によると、南北朝期の延文年中(1356-1361)2代陶弘政によって建
        立された。弘政の父・弘賢が、この地を領し陶氏の祖となるが、居城を構えた頃に祈願所
        として寺を建立したとされる。
         室町期の1569(永禄12)年大内輝弘の乱で兵火にかかり寺を焼失する。しばらくは再
        建されなかったが、江戸期に陶氏の居城跡に移転する。
         1869(明治2)年の脱退騒動では、一時多くの脱退兵が駐留し、本堂の柱には銃弾跡が
        残されているとあるが、施錠されて見ることができず。

        
         本堂前の門は小郡勘場の正門が移設されたという。

        
         1821(文政4)年陶村に生まれた富永有隣は、9歳で明倫館で学び、自他ともに許す国
        学者といわれたが、理由のない罪により野山獄に囚われた獄中で吉田松陰と巡り合う。
         幕長戦争では鋭武隊を引いて前線で戦うが、1970(明治2)年山口藩は収入減を理由に
        兵制改革を断行し、商農兵士が職を失うという事態が起こる。この兵制改革に反対して陣
        頭指揮を執ったことで捕えられたが、のちに許されて田布施で塾を開く。国木田独歩の小
        説「富岡先生」は、当時の有隣をモデルにしたものである。

        
         正護寺は富永家の菩提寺である。

        
         参道に並ぶのは歴代住職の墓であるが、宝篋印塔は陶晴賢の分骨塔とされる。 

        
         参道から道路を横断して草道に入る。

        
         途中には猪の耕作跡や日吉神社傍の溜池、六地蔵を過ごすと正面に老人ホーム日吉台が
        見えてくる。
         この道は正護寺参詣と墓参に利用していたそうだが、クルマ社会になって使わなくなっ
        たという。

        
         駐車地に陶窯跡案内図があり、徒歩は問題ないようだが車の場合は施設に連絡するよう
        案内されている。

        
         標高約80mの丘陵の傾斜地につくられた須恵器制作の窯跡で、ほぼ完全な窯体を残す。
        須恵器造りの技術は朝鮮半島から伝わるが、ここ陶窯は窯の形態と発見された須恵器の破
        片から推して、奈良期から平安中期頃の窯跡とされる。

        
         
         前庭部と燃焼部が破損し埋没しているため、全体の構造と形状はつかめないが、半地下
        式の登り窯である。

        
         日吉神社は防長風土注進案によると、室町期の1504(永正元)年大内義興の時に造建さ
        れ、この地の領主であった陶弘政が滋賀県の日枝神社から勧請したと付け加えられている。
        古くは山王大権現または山王社と称していたが、1871(明治4)年に現社号になった。

        
         日吉神社前から長い参道を歩くと旧山陽道に出る。

        
        
         右手に陶中央公園(トイレ付き)を過ごすと、左手の高い所に艫綱(ともづな)の森と呼ばれ
        る一角があり、鳥居や石祠、石碑などがある。
         これらは200mほど南の国道にあったもので、1971(昭和46)年国道新設により移
        れた。推古天皇19年(611)大内氏の祖といわれる琳聖太子が、この地に着岸され、土器
        の製法を教えられたのに始まるという伝説があるが、石碑はそれにより江戸期に建てられ
        たものという。

        
         山陽本線と路線バスが並行しているため便数は少ないが、陶小学校前バス停15時8分
        の防長バス防府駅行きに乗車して四辻駅入口で下車する。


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