ぶらっと散歩

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出石は但馬の小京都 (兵庫県豊岡市)

2018年07月17日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         出石(いずし)は周辺部を低い山地・丘陵に囲まれた盆地の中にあり、円山川の支流である
        出石川右岸に位置する。水害の少なかった出石が但馬地区の中心をなしていたが、鉄道の
        敷設や治水の成果などで中心地は豊岡へ移る。(歩行約3.8㎞)

           
         江戸時代の一国一城令で但馬唯一の城となった出石城は、1604(慶長9)年に小出吉英
        (こいでよしふさ)が、有子山山頂から麓に移して築城したものである。
         以来、小出氏8代の居城となり、松平(藤井)氏を経て、1706(宝永3)年に仙石政明が

        入封し、明治に至るまで仙石氏7代が居城した。

           
         かつて埋門があった場所で、江戸期にはここに谷山川はなかったので登城橋もなかった
        が、1884(平成6)年に登城橋が復元された。

           
         登城門から二の丸、本丸、稲荷曲輪へと雛壇状になっている。 

            
                      出石城縄張図

           
         二の丸北西隅部の石垣と本丸西隅に建つ西隅櫓。

           
         本丸石垣上の西隅櫓は復元されたものだが、野面積みの石垣が今も残されている。

           
         二の丸から見る東隅櫓。
        
           
         お城坂(稲荷参道)は江戸時代、最上段の有子山稲荷社への参道であった。明治期に15
        7段と37基の鳥居が整備された。

           
         天守は築かれず、櫓が本丸に一基、二の丸に一基、東門脇に一基、下の曲輪東門脇に一
        基と4カ所に築かれていた。

               
         感応殿は仙石正明が出石に移封されて7代まで続いたが、明治になって旧家臣らによっ
        て建立された。 

           
         稲荷曲輪側から見た本丸西側石垣と西隅櫓。前方の曲輪は二の丸曲輪と石垣。

           
           
         旧京街道を東進する。

           
         武家の表門を思わせる経王寺の山門。

           
         経王寺は出石城の東北麓、京街道の丹波口にあたるため、石垣の構えで挟間を有する高
        櫓形式の鐘楼が設けられている。これらの構造から戦時の際の役割
を担っていたと考えら
        れている。


           
         もとは真言宗であったが、江戸初期に日蓮宗に改宗して経王寺となった。松平、仙石氏
        の菩提寺であり、現在の堂宇は天保年間(1830-1843)の火災後に再建
されたものである。

           
         伏見稲荷より分霊を受け、出石稲荷神社(有子山稲荷神社)を城内に建立したが、町民は
        年に一度、初午祭の時にしか参拝できなかったので岩鼻地区に稲荷
神社を建立し、いつで
        も参拝できるようにしたとされる。


           
         1892(明治25)年に旧出石郡役所として建設された木造の疑洋風館。正面玄関にはペ
        ディメント(三角形の部分)や装飾的な柱頭などが用いられている。


           
         正面玄関のある木造2階建ての背部に平屋建てを連結した構造である。

           
         明治館からの道。

           
           
         出石酒造さんの「楽々鶴」は出石藩主・仙石公の別荘「楽々園」に由来するそうだが、
        「ささづる」とはなかなか読めない。


           
         1708(宝永5)年創業の老舗蔵元裏にある赤い土壁の酒蔵は、土壁独特の味わいを見せ
        る。


           
         日蓮宗・本高寺脇から直線的に上ってゆく。 

           
         願成寺(臨済宗)は出石藩の下級藩士であった川崎家の菩提寺で、NHK大河ドラマ「八
        重の桜」のモデルとなった山本八重(会津藩)の夫であった川崎尚之
助の墓がある。後に八
        重は新島襄(同志社大学創設者)と再婚する。
山門には木彫りの達磨大師が鎮座する。

           
         臨済宗・宗鏡(すきょう)寺山門。

           
         たくあん漬けの考案者ともいわれる沢庵和尚が、400年前に再興した寺と伝えられて
        いる。沢庵和尚もまた出石の人であった。 


           
         沢庵和尚作で池の形を鶴に見立て、亀島を配した「鶴亀の庭」がある。

           
         庭を見下ろすひときわ高い所に沢庵和尚の墓がある。

               
         沢庵和尚が植えたといわれるワビスケ。名の由来は多くあるが、文禄・慶長の役の際、
        志野侘助という人物が朝鮮半島から持ち帰ったからという説が有力
である。ツバキの一品
        種で花は一重で小さく、半開状に咲き、茶人に好まれる。


           
         出石史料館の建物は、生糸を商う豪商・福富家の本邸であった。1876(明治9)年の大
        火で出石城下町の80
%以上を焼失したが、大火直後に建てられた建物である。(火曜日は
        休館日)

 
           
         伝統的町家景観通り。

                  
         宵田通り。
  
           
         1864(元治元)年7月の禁門の変で敗れた長州藩は朝敵となり、桂小五郎も追われる身
        となる。出石の町人甚助・直蔵兄弟の義侠により京都を脱出して
町内各所にかくまわれた。
        当地は荒物屋を営んでいた跡で、愛人の幾松(後の木
戸松子)も訪れている。潜居9ヶ月、
        九死に一生を得た桂小五郎にとって、出石
は再生の地であった。

           
         沢庵寺口に出る。

           
         見性寺通りにある出石手打皿そば「およろい」前。

           
           
         出石藩の藩士は800名ほどいたとされるが、その半数は足軽・中間であった。侍屋敷
        は城を要に城下町をぐるりと取り囲むように配置されていた。現在
は1軒のみで出石歴史
        文化交流館(足軽長屋)となっている。


                
         江戸期、交通運輸に利用された旧出石川の大橋東詰めにあった船着き場の燈籠で、現在
        は常夜灯として使用されている。おりゅう燈籠と呼ばれているが「
おりゅう」という名の
        由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公にちなんだとされ
る。

           
         枡形通り。

           
         内堀通り。

           
         出石城内にあった江戸後期の出石家老屋敷。

           
           
         辰鼓楼(しんころう)は、1871(明治4)年に旧三の丸大手門脇の櫓台に建設された鼓楼で
        ある。当時は1時間ごとに太鼓で時(辰)を告げていたが、1881(明
治14)年に大時計が
        寄付されてからは、時計台として親しまれている。   
   


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