ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

浴衣に下駄履きが似合う城崎温泉 (兵庫県豊岡市)

2018年07月16日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号
)
         城崎は但馬地方の北部に位置し、城崎温泉の東側を日本海に注ぐ円山川が北流し、その
        支流の大谿川(おおたにがわ)に沿って市街地が形成されている。

         奈良期の717年から720年、道智上人が千日の修行を行った末に湧出したことが城
        崎温泉の始まりとされ、古くから温泉町として知られている。(歩行
約2.5㎞)

           
         約1400年前に2羽のコウノトリが足の傷を癒したと伝わる鴻の湯。7つの「外湯」
        の中で最も古い歴史がある。


           
         大谿川に沿って市街地へ向かう。

           
         温泉寺まで歩くには至難でありロープウェイを利用する。

           
         温泉寺奥の院。

           
           
         「かわらけ投げ」とは、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土
        器の酒杯や皿を投げる遊びのこと。京都市の神護寺が発祥の地とさ
れ、以後、日本各地の
        高台にある花見の名所などで、酒席の座興として広まっ
たとされる。

           
         途中に駅がある珍しいロープウェイ。

           
         温泉寺駅を下りると本坊がある。

           
         温泉寺は道智上人が、奈良期の738(天平10)年に開創された古刹で、以後、城崎温泉
        の社会的中心となる。本堂は5間4面の南北朝時代を代表する建築で、和様・唐様・天竺
        様が融合した折衷様式である。


           
         温泉寺山門の奥に薬師堂がある。


           
         温泉街を東進する。


           
         お寺の堂を模したまんだら湯は、道智上人が難病の人たちを救うため、1千
日修法をし
        た所に湯が沸き出たとされる。


           
         木屋町通りは静かな散歩道となっている。(桂小五郎が潜伏したとされる三木屋付近)

           
         1925(大正14)年5月の北但馬地震では、城崎温泉は壊滅的な打撃を受ける。震災復
        興の1927(昭和2)年、三木屋は敷地内で温泉を掘り当てて内湯を設け
たため、城崎温泉
        内湯訴訟事件まで発展して20年以上の紛争となった。
         内湯の設置を認めるが規模の制限し、すべての泉源を財産区が管理することとし、現在
        はすべての宿に内湯が存在する。


           
           
         さくら橋を渡る。

           
         北但馬地震で町は全焼するが、現在の和風木造3階建ては震災復興時の建物と思われる。

           
         城崎文芸館通りを直進すれは駅通り。

           
         志賀直哉の「城崎にて」は、1913(大正2)年事故に遭い、当地で療養した折の経験を
        素材にしている。


           
         駅通りは一変してにぎやかである。

           
         城崎温泉駅は、1909(明治42)年に豊岡駅~城崎駅間が開通して終着駅となったが、
        その後、山陰本線の延伸により中間駅となる。2005(平成17)
年に豊岡市と合併する際、
        城崎駅から城崎温泉駅へ駅名変更する。


           
         下駄奉納板には城崎温泉旅館の「下駄」が並ぶが、毎年、お焚き上げの供養祭が行われ
        る
とか。

           
         「さとの湯」は城崎温泉駅の隣にあり、日本最大の駅舎温泉でもある。

           
         駅通りを北へ向かうと、お土産屋、お食事処が建ち並ぶ。

           
         正面に地蔵湯が見えてくる。

           
         江戸時代から里人の湯として親しまれていた地蔵湯は、この湯の泉源から地蔵尊が出た
        のでこの名がある。外観は和風燈籠、六角形の広い窓は玄武洞をイ
メージしている。

           
         大谿川の護岸は玄武洞から玄武岩を運び、ウロコのように積み上げたものとなっている。

           
         大谿川にかかる弓形の橋(愛宕橋、柳湯橋、桃島橋、弁天橋)、しだれ柳とウロコ護岸と
        いう古くからの温泉町旅情が引き継がれている。


           
         柳の揺れる川沿いは下駄の音が似合う。

           
         「柳湯」の名は、中国の名勝西湖より移植した柳の木の下から湧き出たことによる

           
         岩手県盛岡市生まれの詩人・富田砕花が、城崎を訪れた際に詠んだ歌「城崎の いでゆ
        のまちの 秋まひる 青くして散る 柳はらはら」


           
         「一の湯」は江戸中期、温泉医学の創始者・後藤艮山の高弟香川修徳が、その著「薬選」
        の中で、当時、新湯といったこの湯を、天下一と推賞したことから名づ
けられた。桃山方
        式の歌舞伎座を思わせる建物で、町の中央に位し、名実共に城崎温泉
の象徴ともいえる。

          
         湯の里通りには下駄の音が響く。

           
         四所神社は、平安前期の798(延暦17)年に日生下権守が神託をうけ、四柱(四所)の明
        神を奉祀し
たことに始まったとされる。四柱の神は温泉守護神の湯山主神と水の守護神で
        ある宗像三女神である。


           
         「御所の湯」は南北朝時代の歴史物語「増鏡」に、鎌倉期の1267(文永4)年、後白
        天皇の御姉・安嘉門院が入湯されたとある。

         江戸時代、西隣に陣屋がおかれ「殿の湯」または「鍵の湯」と呼ばれた湯であった。明
        治になって御所の湯とされたが、京都御所を彷彿させる建物である。  


           
         蓮成寺(浄土真宗)の開創は不詳であるが、1933(昭和8)年建立の大本教但州別院鶴鳴
        殿を移築し、向拝と下屋を付した。西側に一列室を設けたため、
向拝が中心よりずれ、西
        端に花頭窓を穿ち特徴ある外観を形作る。          


竹田は天空の城と城下町 (兵庫県朝来市)

2018年07月16日 | その他県外

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである、(承認番号 平29情複 第467号)
         竹田は西に古城山と東を円山川が北流する地に位置し、播但道に沿って町を形成する。
        山裾をJR播但線が走り、寺町と街筋を分断しているが、国道が川の反対側にあるため静
        かな佇まいを見せる。(歩行約2.5㎞)

          
         播但線のJR竹田駅は、1906(明治39)年に山陽鉄道新井駅ー和田山間の延伸時に開
        業する。一時普通列車のみの停車であったが、観光客の増加により特急が停車するように
        なった。

          
         7月の豪雨災害で山城の郷へ通じる道路が通行止め。このため天空バスが利用できず、
        タクシー利用でスタッフ駐車場まで上がる。

          
         ここから0.7㎞の舗装路歩き。 

          
         関所(料金収受棟)を通らなければ登城できない。

          
         料金所からは石段。

          
         石段の先に石垣が見えてくる。

          
         城に関しては不明な点が多いが、室町期の1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱が勃発すると、
        但馬国守護の山名氏と播磨国守護の赤松氏との間で軍事衝突が起き、竹田城は山名氏の最
        前線基地として築城された。

          
         北千畳郭から三の丸。

          
         北千畳郭。

          
         北千畳郭から本丸。

          
         北千畳郭から三の丸への大手門跡。

          
         三の丸から竹田の町並み。

          
         二の丸への登城口(弐之門跡)

          
         二の丸より天守跡。その下の平地は平櫓跡。

          
         二の丸より南千畳郭。

          
         天守台

          
         天守台から二の丸方向。

          
         天守台から南千畳郭。

          
         二の丸から本丸跡を見ながら花屋敷跡へ向かう。

          
         築城した当時は石垣がさほどなくて、土塁で構築された砦であったようだ。1580(天
        正8)年に秀吉の命令を受けた羽柴小一郎長秀(のちの羽柴秀長)によって攻め落とされる。
        1585(天正13)年に赤松広秀が城主となり、現在に残る豪壮な石垣を完成させたが、
西
        軍に加わり廃城となる。(本丸跡の石垣) 

          
         平櫓跡・天守跡の石垣は、400年を経過した今も健在である。(南千畳郭から見る本丸
        跡) 

          
         南千畳から散策ルートを下ると登ってきた道と合わす。

          
         たけだ城下町交流館は、旧造り酒屋をリノベーションしたもので、観光案内所やレスト
        ラン、ホテルなどがある。

          
         城普請で集まった職人が住みついたことから城下町へと発展する。江戸初期に廃城され
        たが、播但道・山陰道の接点にあり、交通の要衝として宿場町に変化する。

          
         旧木村酒造場の主屋は、1902(明治35)年~03年頃に建て直されたもので、通りに
        面した外観は、うだつや虫籠窓などの意匠を施している。 
       
          
          
         酒は主屋から続く土間で造られ、酒米を蒸すためのカマドや酒造りに使用された井戸が
        残る。

          
         木村家は信州の飯尾家を祖とすると伝えられ、1625(寛永2)年頃に竹田に移り住み酒
        の醸造を行った。日本酒の需要が減少すると、1979(昭和54)年に約350年続いた酒
        造の歴史に幕を下ろした。

          
         古民家の御土産屋さん。

          
         虫籠窓のあるお好み焼き屋さん。

          
         明治時代の町家は古民家の宿「寺小屋はな亭」 

          
         1日2組限定で、名前を天(てん)と宙(そら)という。

          
         駅前を過ごすと鉤の手通り。

          
         警察派出所前を左折すると寺町。

          
         線路に沿って寺町筋。

          
         
通りには水路も沿う。

          
         浄土宗知恩寺派の法樹寺は、1578(天正6)年に川原町に創建されたが、竹田城最後の
        城主赤松広秀の居住地に、生野代官所の寄進を受けて移転する。


          
          
         水路や石橋など城下町の面影を色濃く残している。

          
         勝賢寺(浄土真宗)は、1664(寛文4)年頃にこの地にあった平位善右衛門屋敷跡へ移転
        する。


          
         常光寺(真宗)は。1610(慶長15)年の大火災で焼失後にこの地へ移転する。淡い黄
        い壁には門跡寺院を示す白の五条引き(貴族や天皇の血族で僧籍のあった者
が務めた寺院)
        がある。


          
         各寺の門前には江戸時代の石橋が架かっている。常光寺の石橋は、1707(宝永4)年と
        古く、但馬最古の石橋とされる。


          
         表米神社の相撲桟敷を拝見したかったが、この猛暑ではこれ以上歩くことは困難で、城
        下町交流館裏で散歩を終える。


          
         雲海に浮かぶ「天空の城」の展望スポットとされる立雲峡に立ち寄る。

          
         猛暑のため第3展望所からの眺めとなる。