この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
福知山は16世紀に織田信長の家臣・明智光秀が、この地方を支配していた有力豪族で
ある塩見信房を倒し、その居城であった横山城を大修築して福知山城と改めた。(歩行約
5.5㎞)
JR福知山駅は、2009(平成21)年に高架化及び駅改修事業が完了する。
1808(文化5)年に始まった藩校「惇明館」は、のちに惇明小学校となる。1937(昭
和12)年に丸窓を配した直線構造の本館棟が建設されるが、戦前最後の鉄骨建築であると
のこと。
お城通りの市役所付近から見る福知山城。
福知山城公園から法川(旧堀)に架かる昇龍橋。
福知山城は丹波平定を行った明智光秀が、当時の城郭建築の粋を集めて改築した。
登城路。
昇龍橋の傍には郭を模した美術館がある。
転用石が積まれた石垣。
福知山城二の丸の銅門脇(市役所の東)にあった番所で、大正時代に天守台へ移され、さ
らに天守閣の再建に伴い、この場所に移された
福知山城の石垣には自然石に混じって五輪塔、宝篋印塔などの転用石が大量に使用され
ている。
築城時に明智光秀が近隣から石塔を集めたという伝承があるが、石垣に使用する石が近
辺なかったこと、築城に時間的余裕がなかったことが起因しているとされる。
城は明治の廃城令によって取り壊されて石垣だけとなっていたが、1986(昭和61)年
に望楼型という初期の姿で復元される。
天守の入口前にある「豊磐の井(とよいわのい)」は、直径25mで深さ50mもあるとい
う。城郭内湛水井としては日本一の深さで、今も清らかな水をたたえている。
築城時になかった門が再建時に新設された。
豊磐の井の先が天守への入口。左から大天守、続櫓、小天守となっている。(東面)
大天守から小天守越しに北方向を望む。城下町通りと由良川に架かる音無瀬橋。
山陰本線から城を見ることができる。(綾部方面)
旧松村邸は、㈱松村組の創始者松村勇吉の社屋兼住宅として、1912(大正元)年に洋館、
1917(大正6)年に御殿が建築された。
市内唯一の本格的な洋風建築で、バランスの取れた良質な木造建物である。現在、これ
ら建物群は洋菓子販売の(株)足立音衛門が、本店・店舗として活用されており、外観のみ
を見ることができる。
法川の土手を歩くと、由良川との合流地点にある草むら部分に「明智藪」がある。
また、京へ出入り口である京口門があった場所でもある。
明覚寺裏が「上船渡」で、この辺りに「下船渡し」があったとのこと。
高良厄除神社(鋳物師の厄神さん)は、由良川の水害に悩んだ当地の人々が、安心立命の
ために創建した。山陰道の道筋で城下町北口の要路にあたる場所にある。
神社入口左側の道標は、1808(文化5)年に丹波口門付近に立てられた道しるべで、
「右 京・大坂道」と刻まれている。
寺が並ぶ道筋。
金毘羅神社(丹波口)は、丹後街道から城下町への入口付近に、水運の神として祀られて
いる。玉垣には京都や大坂の事業者の名前が刻まれており、由良川水運の要所として、日
本海を介した丹後地域と都市部との商取引が盛んに行われていた。
久昌寺は最も長く福知山藩を治めた朽木家の菩提寺。
法鷲寺の山門(浄土宗)は、福知山城の城門の1つと伝えられている高麗門で、数少ない
福知山城の遺構とされる。
寺町を過ごすと古い町家。
治水記念館は、水害に対応した特徴的な構造を持つ町家である。1880(明治13)年築
で、建物そのものが歴史的な資料となっている。
ベンガラ塗りの格子に虫籠窓を持つ町家。