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ぶら~と散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

国宝の姫路城周辺をぶらっと散歩 (姫路市)

2018年07月15日 | その他県外

          
         JR姫路駅北口から姫路城が見え、大手門通りを15分程度(約1㎞)歩くと姫路城前に
        出る。

          
         桜門橋から登城する。

          
         内堀にかかる桜門橋は、2007(平成19)年に復元された。

          
         桜門(大手門)は高麗門という形式であるが、江戸時代のものではなく、1938(昭和1
        3)年に建てられたもので、江戸時代のものとは位置や大きさが異なるようだ。

          
         入城口手前からの天守。

          
         菱(ひし)の門手前から「り」の一渡櫓。

          
         菱の門は、三の丸から二の丸へと通じる大手口を固める櫓門。両柱上部の冠木に木彫り
        の菱の紋があることに由来するとか。

          
         三国堀(さんごくほり)は、菱の門から入ってすぐのところにある四角い堀。二の丸につな
        がる本道と間道の要所をおさえる重要な位置にある。
         名前の由来は、江戸時代に姫路城を築いた池田輝政が播磨・淡路・備前の三ヵ国から人
        夫を集めて築いたことによる。

          
         西の丸南門への坂。

          
          
         本多忠刻(ただとき)と千姫の居館は、西の丸内に本館の中書丸、桐の門内に下屋敷として
        武蔵御殿をそれぞれ築き住んだ。
         これらの建物は、豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取り壊した用材を移して建てたもので、
        桃山様式の書院造り建物であったとされる。

          
         西の丸は本丸の西の方角にあたり、左手一帯には隅櫓、渡り櫓、長局(ながつぼね)、多聞
        櫓と呼ばれる建物が300mにわたって連なっている。連続した建物の内部は,小さな部
        屋に仕切られて土塀と倉庫を兼ねており、城郭建築としては珍しい構えである。

          
         西の丸長局(百間廊下)には千姫に仕えた侍女たちが居たところである。

          
         千姫は天満天神を信仰し、姫路へ来てからは西方の丘・男山にこれを祀り、毎朝西の丸
        の長局の廊下から参拝した。このとき、休息所として化粧櫓を利用したとされる。

          
         千姫は徳川2代将軍秀忠の長女として、1592(慶長2)年に生まれ、政略によって豊臣
        秀頼に嫁いだが、大阪落城の際に救い出され、後に本多忠政の子・忠刻に再嫁した。(千姫
        20歳) 
         1617(元和3)年忠政が伊勢桑名から姫路15万石の城主となったとき、忠刻も千姫の
        化粧料として、部屋住みのまま十万石を与えられて姫路に移り住んだ。

          
         姫路に来てから勝姫(のち池田光政室)、幸千代の2児をもうけ平和な日々を送ったが、
        長続きせず、幸千代は3才で早逝、忠刻も31才で世を去った。千姫は天樹院と号し、姫
        路を発って徳川家に戻る。

         
         南北朝期の1346年に赤松貞範による
築城とされ、室町時代は赤松氏、戦国時代には
        小寺氏が在城する。豊臣秀吉が中国地方の毛利氏を攻める拠点として、1580(天正8)
        頃に3層の天守閣を築いたが1600(慶長5)年に城主となった池田輝政が現在の規模にす
        る。

           
         「は」の門付近は迷路で、石垣と土塀に囲まれて道幅も狭くなっている。

          
         「に」の門は天井が低く右側に屈折という難解の構造で、2階の床板をめくって下を通
        る敵兵を攻撃できるようになっている。

          
                
          「ほ」の門は鉄板張りで低く狭いため、多くの敵兵を一度に通すことができ
         ないような仕組みとなっている。

          
         腰の曲輪、塩櫓、水一門から天守へ入る。

          
         大天守の1階は、天守台の石垣の上に構えている部分で、俗に「千畳敷」といわれ55
        4㎡の広さがある。

          
         武者走りとは陣の外側をとりまく廊下ことで、戦闘時に武士が行き交い、敵兵を射撃す
        る鉄砲狭間も窓下に設けられている。

          
         内陣は武具庫で火縄銃や小道具をかける武具掛けとなっている。

          
         武者走りの壁上部には、竹で作られた用具掛けが並んでいる。

          
         木製の釘隠しは天守内に600個以上あるとのこと。

          
         火縄銃や槍が武具掛けにかけられた形で展示されていたが、平成の修復以降は西の丸へ
        移動したとのこと。

          
         階を上がるごとに傾斜が増してくる。(2階から3階への階段)

          
         東大柱は樅木で継ぎ手無しの通し柱であったが、昭和の大修理のとき、根元54mを台
        湾檜で根継ぎされている。

          
         
西の大柱は当初から二本継ぎで、上部が栂、下部が樅であったが、昭和の大修理の際に
        通し柱とする予定で、新たに木曽檜を切り出したが運搬中に折れてしまう。修理では当初
        の3階床上で二本継ぎの柱となったとのこと。

          
         破風の間は破風の屋根裏で、鉄砲が使える攻撃の陣地である。

          
         守り手にとって外敵が見えないのは弱点で、これを補うために窓際には「石打棚(いしう
           ちだな)
」が置かれている。3階は南北、4~5階は四面に設けられている。
また、4~5
        階は内陣、武者走りの区別がなくなっている。


          
         6階が大天守の最上階で、これまでの階と違って天井があり、廻縁は室内に取り入れら
        れている。大天守の高さは石垣を含めて約46m、姫山の高さを加え
ると海抜92mにも
        なる。


          
         西側の正面に西の丸、右手に男山、左手前には三国堀と菱の門。

          
         破風の上にある鯱(小)は高さ90cmもあり、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、
        背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物を模し
ている。

          
         南側は姫路駅方面で、中央下に備前丸と「リ」の一渡櫓、その向こうは三の丸広場で、
        その先に大手前通りがのびている。


          
         東面下に「と」の一門。

          
         腰曲輪の渡櫓と右側に櫓が続く。

          
         大天守南の広場には池田輝政の別館があったが、1882(明治15)年に焼失する。

          
         本丸御殿の東側入口に設けられた廻櫓と備前門で、西側は大天守の石垣に接している。

          
         備前門の2階部分は折廻櫓の続き櫓となっている。

          
         備前門右手には縦石として石棺が配置されているが、人目につきやすい石垣の出隅部を
        見栄えよくするためといわれている。


          
          
         播州皿屋敷のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたといわれるお菊井戸。もとは釣
        瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれ、直径3m、深さ20mの井戸である。


          
         「ぬ」の門は門櫓で唯一の三層の櫓門。二層目の櫓には隠し石落しがあり、門に入る者
        を監視し射撃できるようになっている。(上が出口、左が入口側)


          
         「ぬ」の門前の石垣は、扇を開いたような勾配を持たせることで、より高く積み、強度
        を高めるとともに、攻め手が登るのを防ぐ効果がある。


          
         「い」の門の左は西の丸。ちょうど化粧櫓の前である。

          
         内堀の傍を通ると好古園。

          
         姫路城西屋敷跡庭園「好古園」は、1618(元和4)年に本多忠政が造営した西御屋敷や
        武家屋敷・通路跡等の遺構が確認され、酒井家(姫路城最後の城
主)の絵図と合致したとの
        こと。これに基づいて市政100周年を記念して、19
92(平成4)年に建造される。

          
         屋敷の庭への門。

          
         渡り廊下は「唐傘割工法」とされる中央に曲線を描き、歩くと太鼓に似た音の余韻を味
        わうことができる。


          
         潮音斎(ちょうおんさい)は中秋の名月を愛でる方向に建てられている。

          
         藩主の下屋敷にあったこの庭は、姫山原生林を借景とした池泉回遊式庭園である。

          
         武家屋敷の築地塀も趣がある。

          
         茶室「双樹庵」を中心に、飛び石、燈籠などが配置された茶庭である。

          
         1945(昭和20)年6月20日の姫路大空襲により、姫路城は焼失を免れたが市街地は
        焼失したため、建物はそれ以降に建設されたものである。


          
         レトロ調ボンネット型の「姫路城周辺観光ループバス」に乗車して駅に戻る。(ワンコ
        インの100円)


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