ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市嘉川の旧山陽道界隈と嘉川市

2023年07月23日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         嘉川は山口市の西南部、椹野川河口部に位置し、南は山口湾に面する。地名の由来
は不
        詳であるが、この一帯は「和名抄」にある賀宝(のちに賀保)郷であったといわれ、地名は
        これから出たのではないかという。(歩行約4.5㎞、🚻駅のみ)

        

         域内を東北から西南に旧山陽道が通っていたので、このルートを歩いてみる。JR新山
        口駅から宇部市営バス宇部新川駅行き約13分、免地バス停で下車する。

        
         バス停から引き返すと右手に免地集落への道があり、山陽本線と宇部線の線路を横断す
        ると雨乞山の麓に出る。

        
         免地集落辺りは大内時代には、大内義隆の伯母・妙智尼(みょうちに)の領として諸役免除
        の地であった。そのため後世に免地といわれるようなったとか。
         妙智尼は大内氏の重臣・内藤弘矩の娘で、夫の内藤興盛死後に内藤家は娘の嫁ぎ先の毛
        利氏派と、孫娘の嫁ぎ先の陶氏派に分裂することになり、妻の座を退き尼僧になってこの
        地に籠り寂しく亡くなったという。(進入路及び墓地のある山林は私有地)

        
         蔵のある所まで戻って左折すると旧山陽道筋に出る。この付近は荒神垰(たお)と呼ばれ、
        林の中に荒神の小社があったことに因むという。峠のお地蔵さんについて詳細を知り得な
        い
が一礼して先に進む。

        
         1925(大正14)年宇部軽便鉄道開設のとき、掘り下げられた上に橋が架けられたため、
        街道は付け替えられて屈折した形となった。(宇部線は1943年国有化)

        
         宇部線の跨線橋入口にある真田四郎の墓への案内は草に埋もれている。

        
         墓は上嘉川墓地の片隅にあり、「土藩真田四郎源幸利神霊 慶応乙丑(1865)六月十二日
        卒 享年33歳」とある。
         本名は窪田真吾といい、土佐藩を脱藩して長州に来て真田姓に改名し、嘉川浪士隊に入
        隊して嘉川の明正寺に駐屯していた。回天軍と俗論派との内訌に巻き込まれ、俗論派に与
        したとの嫌疑がかけられ同寺で切腹する。

        
        
         七搦邸の向かい側に地蔵堂と「嘉川一里塚跡 嘉川市頭」と記された標柱がある。宇部
        鉄道が敷設された時、この一帯の道路がやや西側に移動したので、確実にここだという位
        置はわからないという。

        
         緩やかな坂を下って行くと左手に古民家がある。荒神垰から山陽線が交差するまでの町
        並みは「新市」と呼ばれていた。

        
         山陽本線を渡ると嘉川市。

        
         1925(大正14)年開業のJR上嘉川駅。阿知須方面に向かって右側に単式ホーム1面
        1線と屋根付き待合所がある。

        
         踏切を過ごすと左手の大きな古民家は、嘉川市を象徴する建物である。 

        
         街道はやや左に折れるが、カーブする付近に造酒屋があったとされる、妻入り部分に杉
        玉をかざすような構造が見られる。(通過後に撮影)

        
         市の中央にある恵比須社の創祀年代は不明とのことだが、嘉川市が商業の中心であった
        のでこの地に祀られたとされる。

        
         門前には本間源三郎(1846-1908)の頌徳碑。当地の福岡で生まれ、19歳で嘉川の庄屋と
        なり、幕末には農兵隊のリーダーとして活躍する。のち嘉川村長・県会議員・衆議院議員
        などを歴任し、地方自治に貢献した功績を称え建てられた。

               
         周防大橋を稲穂で囲むようにデザインされた農業集落排水用マンホール蓋。 

        
        
         近世山陽道の宿駅としての嘉川市は、本宿の小郡・山中の間にあって半宿として宿馬1
        0疋が常備され、天下御物送り、大名や公用の役人の荷物搬送を担っていた。
         幕末頃には70余軒があり、市の民政をつかさどる年寄と、宿駅の人馬繰り出しなどを
        任務とする目代(もくだい)が取り仕切っていた。今ではほとんどの家屋が更新、あるいは解
        体されるなどして往時の面影を見ることはできない。

        
         旧国道を横断する。

        
        
         福岡集落も厨子(つし)二階の建物が数軒見られる程度である。

        
         再び旧国道を横断すると旧平川医院の建物は際立つ。1932(昭和7)年築の木造2階建
        ては洒落た造りである。

        
         中野集落も家々の建て替えや新築によって街道の雰囲気は感じられない。

        
         陸軍軍人だった秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902-1953)が、この付近で休息されたので記念
        碑が建立されたそうだが、これか否かはわからない。

        
         長州藩では山陽道の道幅を2間(約4m)と定めていたので、現況からすると
当時のまま
        と思われる。

        
         嘉川地域交流センターの敷地内には、中野三仏、嘉川八十八ヶ所札所、百万一心の碑、
        道標、五輪塔が集約されている。

        
         嘉川八十八ヶ所札所傍に石仏3体が並んでいる。大の石仏は像高1.4m、3段1mの台
        座に実誉快山、正徳三葵巳(1713)五月と刻む。中の石仏には奉納大乗妙典日本廻国供養、
        寛政八(1796)丙辰二月、小の石仏は南無大師、天明九己酉(1789)と刻まれている。
         三体は「中野三仏」といわれ、左より弘法大師像、観音像、地蔵尊で大切に祀られてい
        る。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、嘉川・江崎・深溝村の地域をもって嘉川村と
        なる。1944(昭和19)年山口市に合併するまで、この地に嘉川村役場があったとされ、
        「百万一心」の石碑が残されている。(裏には御大典記念 昭和3年11月とあり)

        
         正確に読み取ることができないが、「左 厚狭郡山中・船木、左 吉敷郡阿知須・床波」
        裏面には明治40年(1907)2月とある。

        
         五輪塔は嘉川駅から旧山陽道に至る中間地点にあったものと思われる。由来は不明との
        ことだが、妙智尼の墓などに類似しており、大内氏ゆかりのものではと考えられている。

        
         嘉川駅から旧山陽道の間には、かって長周銀行嘉川支店、嘉川農協組合、旅館、タクシ
        ー、日本通運嘉川店などが並んでいたという。今ではそれらの建物は消滅し、空地の目立
        つ駅通りである。

        
        
         下中野も昭和初期頃には店が並んでいたとされるが、今は住宅地となって店構えする民
        家は見られない。

        
         幸之江(こうのえ)川が大字嘉川と江崎の境界である。

        
         幸(こう)の江橋の袂に道標があり、「あしす とこなみ 中のむら」と刻む。佐山・阿知
        須・床波を経て宇部方面への分岐点であった。標柱の白松道とは、阿知須・岐波辺りを「
        白松庄」といった時代の幹線道である。

        
         幸の江橋を渡ると100m足らずで県道335号線と230号線が重なる。この付近の
        街道が消滅しており、交差点を利用して南に80mぐらい進むと右手に街道が見えてくる。

        
        
         熊野神社の地には鎌倉時代までは嘉川八幡宮があったとされ、1875(明治8)年以前か
        らこの地区にあった祇園社と山口大神宮にあった熊野神社、日吉社をこの地に移して合祀
        したという。
         1906(明治39)年の神社合祀政策により、旧村内の神社の多くは嘉川八幡宮へ合祀さ
        れたが、この神社は基本金を集めて法人格を持ったため免れたという。
         また、境内には明治中期まで江崎・深溝の戸長役場があった。 

        
         この先、街道は高根、原条を通って、国境の碑で現宇部市へと続く。バス便がないため
        復路を考え熊野神社からJR嘉川駅に戻ることにする。 


この記事についてブログを書く
« 山口市江崎は城の山一帯から... | トップ | 柳井市平郡島の西集落は石垣... »