この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
平郡島(へいぐんとう)は柳井市に属し、熊毛半島の南東約4㎞先の瀬戸内海に浮かぶ島で
ある。島の多くは「1島1集落」という集落形態であるが、周囲28㎞余の島は東西に長
く2つの集落を形成しており、東部に東浦集落、西部に西浦集落がある。西浦集落を歩い
てみることにするが、蛇の池までは往復約6.5㎞のアップダウン道である。(西浦集落内
は3.5㎞、🚻渡船場待合所)
JR柳井港駅前から海側へ向かうと、国道の信号待ちが長く概ね5分を要する。切符売
り場で乗船券(@1,570-)を購入してフェリー「へぐり」に乗船する。
約1時間の船旅を楽しむと西港へ到着する。
工事関係者や保健業務に携わる人々が下船した後、フェリーは東浦へ向けて出港する。
頑強な石垣は新しい護岸ができるまで家を守ってくれた遺構である。一定の間隔にベン
チがあって海を眺められるようになっている。
海へ通じる路地が数軒毎に設けてある。
集落の西端から県道155号線を上がって行くと平郡西港が見えてくる。(この付近は長
い上り坂)
海抜51.2mの峠に上がり、次の三差路は左の道を進む。赤石神社までは2㎞、蛇の池
までは2.5㎞と案内されている。
下り道に入ると屋代島が横たわる。
この先、分岐には案内があるので迷うことはないが、アップダウンな道は海岸線に出る
まで海を見ることができない。
海岸線に出ると前方に赤石神社。
赤石神社後方にある赤くて大きな石が御神体で、腰から下の病なら岩に患部をこすり付
けると回復するとの伝承がある。
島の人からは赤石様と親しまれており、大国主命、事代主命、少名彦命が祀られている
という。(フェリーからも赤い社が見える)
蛇の池は島の西端にあって、海とは幅10m程の堤防で仕切られている。海の傍にある
にもかかわらず淡水という不思議な池である。島の方に神社の詳細をお聞きしても、蛇の
池の神社ということのみだった。(港から約1時間)
「平郡三景」の1つとされる蛇の池には蛇の池伝説があるという。それによると、昔、
漁師が美しい女性から「私を平郡に渡してください。お礼に一度だけ船一杯の魚を獲らせ
てあげましょう」と頼み込まれた。女性を平郡に渡したのち、網を入れると大漁となった。
しかし、女性の言葉を反故にして2度目の網を入れると、魚はたちまち大蛇になったと
いう伝説から、女性が姿を消したこの池を「蛇の池」と呼び、池の水は神水として崇めら
れ、池に金物を入れると祟りがあるといわれている。
上関町の長島、祝島を眺めて集落に戻るが、海岸線はゴミの山で木材は仕方ないにして
もペットボトルなどプラ類が散乱し、すでに劣化し粒子状になったものも見受けられる。
いつの日か大波で海に流れ出てしまうだろうが嘆かわしい問題である。
集落まで戻ってNTT鉄塔が見える道に入る。
見かけない屋根構造のため近所の方にお聞きすると、葉タバコ乾燥小屋だという。この
ような建物が多くあったが、廃業後は元の平家に戻されたので、今では2~3軒残すのみ
となったと話してくれる。
1931(昭和6)年頃葉タバコの耕作が強く打ち出され、瀬戸内海沿岸を中心に漸次拡大
していった。太平洋戦争の頃から食料増産のため減反されたが、戦後には再び葉タバコの
栽培が推進された。その後は減少傾向に転じ、1982(昭和57)年には平郡地区で4戸の
みとなる。(いつ頃に廃業されたかは不明)
建物の構造は土地に制限があったためか、一般的な木造平家の中に4坪建ての乾燥室を
設置し、排気用の天窓が設けてある。
集落排水は存在しなかったが、金魚が口から放水している消火栓蓋を見かける。
NTTの平郡電話交換所と無線中継所。
無住と居住の区別ができる家並み。
疫病を防ぐ疫病神が祀られている。
中の道には懐かしい町並みが残る。
漁村集落のイメージがしないのは空家が多いためだろうか。
屋敷の片隅に丸い自然石が並べられているのが地主様で、その土地や屋敷を守護する神
とされる。
NTTの塔がある通りに西平郡簡易郵便局と原田商店がある。郵便局は2016(平成2
8)年に一時閉鎖されたままのようだ。
店の看板はなく一見商店とは思えないが、島の方が利用するだけなので看板は不要との
こと。(飲み物をゲットするため立ち寄る)
1994(平成6)年柳井中学校へ統合された平郡西中学校は、校舎や校門などが完全な形
で残されている。
平郡西小学校は休校中とのことで、周囲は柵で囲まれて玄関などを拝見することができ
ない。
平見山登山口と案内されているが、山頂には平見山城跡があるとされる。鎌倉期の12
80(弘安3)年に伊予国の河野氏一族の浅海通頼が、蒙古襲来に際して見張台を設け、13
40(暦応3)年浅海政能が南北朝の戦乱に対応して本格的な城郭を築いたとされる。
浅海氏は代々ここに住んでいたものと思われ、大内義長に属し、陶晴賢を助けたとされ
るが、その後、来島道康に降(くだ)ったとされる。
平郡漁港西は、1951(昭和26)年10月14日のルース台風の被害後、1953年か
ら高潮対策として160mの護岸工事が施行された。
さらに1964(昭和39)年より4年をかけて第3次漁港整備事業として、本格的な防波
堤のかさ上げ、岸壁の築造、埋立て工事が行われて現状の状態になったという。
鶴甫の大師堂。
大師堂脇にある石風呂は戦前まで使用されたといい、傍には「負上之石」刻まれた力石
がある。
円寿寺(浄土宗)は、1871(明治4)年寺院整理により、円福寺と寿現寺が合併してでき
た寺という。
寺境内には、1772(明和9)年漁師たちが建立した魚類供養塔「江海魚鱗離苦得楽」が
ある。
江戸末期に築造された防波堤が残されている。
重道八幡宮の社伝によれば、宇佐神宮からの勧請と伝えるが年代などは不詳とのこと。
山口県の最南端とされる上関町の八島が海上に浮かぶ。
海を眺めながら最上部の生活道を南端へ向かう。
弧を描く海岸線と青い海。
平郡の集落は家屋が密集しており、火事が発生すると大惨事になりかねない。昔から火
除け地蔵に願掛けしてきたと思われる。
漆喰で塗り固められ白く見える屋根が多い中にあって、模様入りの赤瓦はひと際目立つ。
1877(明治10)年の西南戦争の際、東京警視本署(現警視庁)は士族(旧武士)を中心とし
た警視隊を組織する。平郡島の長井熊造は三等巡査としてこの隊に所属し、鹿児島での戦
闘で殉職する。(享年23歳)
集落を囲むように設けられた石垣は、今では無用の構築物となったが集落の象徴で、ベ
ンチもあって中々の風情である。
デッキから浮かぶ島々、上関大橋や大島大橋、室津半島の集落、行き交う船などを見飽
けない風景を堪能して柳井港へ戻る。(大きな島が平郡島)