ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊北町の田耕は中山忠光暗殺地と田上菊舎生誕地

2020年08月05日 | 山口県下関市

                 
                         この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         田耕(たすき)は域内の中央を粟野川が北西流し、全域が山嶺に囲まれた地域である。集落
        は粟野川流域平野と支流の谷に点在する。
         地名の由来は、田を鋤く。つまり耕地された土地の意とされる。(青:クルマ、赤:徒歩)

        
         JR滝部駅から西市へのバスがあるものの、四恩寺までの距離を考えるとクルマを選択
        せざるを得ない。
         国道435号の五千原バス停先に杣地への道があり、左折すると遠くに田耕(たすき)神社
        の鳥居が見えてくる。(入口に白滝山登山口を示す看板あり)

        
         田耕神社は粟野川を西南に見下ろす台地上にあり、前方に耕地が開け背後に白滝山がそ
        びえる。長い参道には3つの鳥居が設けてある。

        
         1908(明治41)年に菅原神社(松崎天神)と八幡宮を合祀して田耕神社と改称し、19
        55(昭和30)年には町村合併の際付近の厳島神社を合祀する。
         7年に1度の「浜出祭」は当社から出発し、延々14㎞の道を豊北町神田上の土井ヶ浜
        まで神幸される。

        
         中山忠光卿隠棲(いんせい)の地とされる大田新右衛門旧宅である。1864(元治元)年8月
        下旬に豊浦町の室津観音院から密かに大田宅に移る。表の間と中の間で一行6名の生活が
        始まり、10月中旬まで滞在して大林家に移るが、11月5日の夕方、庄屋・山田幸八の
        忠告により再び大田家に移された。

        
         説明板が樹木に隠れて場所がわかりづらいが、中山神社手前の左手にある赤いトタン屋
        根が大田宅である。

               
         中山忠光卿(1845-1864)は、姉・慶子(よしこ)が孝明天皇との間に懐妊した祐宮(後の明治
        天皇)を実家の中山家で生む。祐宮は5歳まで中山家で忠光らと共に過ごすが、家禄わずか
        200石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金をしたという。宮廷も貧
        しく質素な生活が忠光の王政復古を掲げた攘夷論に火をつけ、父と親交のあった武市半平
        太や久坂玄瑞などに交わる。

         1863(文久3)年2月官位を捨てて長州に下向し、久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首と
        なり下関攘夷戦争に参加する。京都に帰り、8月天誅組首領として大和国で討幕の兵を挙
        げるも、8月18日の政変で孤立し、幕府軍に追われ大坂の長州藩邸から海路長州に逃れ
        る。

           
         長州に逃れた後、長府藩と清末藩領に匿われたが、長州藩内で俗論派が台頭し探索が始
        められると、転々と居を移した。田耕(たすき)村に滞在していたが11月8日の夜、身に危
        険が迫っていることを知らされ、四恩寺に向かう途中、長瀬の地で長府藩士に暗殺される。

           
         1963(昭和38)年忠光卿百年祭を記念して、当時の豊北町が同地に中山神社を建立す
        る。

           
                辞世の句「思いきや 野田の案山子の梓弓
                      引きも 放たで 朽ち果つるとは」
         下関赤間の商人・恩地与兵衛の娘トミを側女とし、翌1865(慶応元)年5月トミは女児
        を出産する。この遺児・仲子は長州藩主・毛利元徳の養女となり、のち母子は中山家へ引
        き取られる。仲子は長じて嵯峨侯爵夫人となり、その孫娘・浩は満州国皇帝の弟である愛
        新覚羅溥傑と結婚する。

           
           
         忠光卿の遺骸は綾羅木に葬られ、公式には11月15日病死とされた。のち長府藩は墓
        所に社を建て、綾羅木中山神社とする。
         また、この神社には溥傑の生前からの希望により、日中双方に分骨され、浩と娘の慧生
        の遺骨とともに、摂社愛新覚羅社に納められている。

           
         白滝山への道は途中で分岐するが右へ進む。(神社から徒歩)

           
         最奥民家まで車で行けそうだったが、地理不慣れなものは歩きがベストである。

           
         民家から5分で寺跡だが、途中には廃屋民家もある。

           
         四恩寺(黄檗宗)は、1874(明治7)年寺院整理で萩・通心寺へ合寺され、土地と堂宇は
        杣地58戸の共有物として買収された。堂宇は解体されたが、寺跡には老杉の中に苔生した
        石段や宝篋印塔などに昔日を偲ぶことができる。

           
         堂宇の踏み石には「四恩寺古蹟」碑があり、中山卿の事が記述されているようだが読む
        ことができない。

           
         田耕神社まで引き返し中河内へ向かうと、近世女流文人・田上菊舎(本名は道)の生誕地
        がある。
1753(宝暦3)年長府藩士田上由永の長女として生まれ、16歳の時に結婚した
        が夫が病没、子供がいなかったため実家に復籍し、俳諧文芸を生涯の道とすることを選ぶ。
        俳諧修行に出た菊舎は、女性としては江戸期随一の旅行者でもあった。

           
           
         粟野川に架かる広瀬橋近くに明寿酒造。

           
         1873(明治6)年開校の田耕小学校は、2015(平成27)年に滝部小学校へ統合されて
        141年の歴史に幕を閉じる。

           
                   故郷や 名もおもひ出す 草の花
         1824(文政7)年菊舎が今生の暇乞いに、長府からふるさと田耕を訪ねた際、秋風に吹
        かれる野花を見て、幼い頃を懐かしんで詠んだとされる。(小学校校内)
 

           
         1964(昭和39)年に廃校となった田耕中学校があった地とされ、碑は県選奨受賞を記
        念して、受賞対象となった村訓を記して校庭中庭に建立されたものとのこと。(長老より)

           
         田上菊舎は美濃の宗匠朝暮園傘狂へ入門し、“一字庵”の号を授けられたとされ、碑に
        は「一字庵菊舎碑」とある。

           
         肥中街道筋ではあるが街道を思わせるようなものは存在しない。

           
         この地の要の1つであったJA田耕支所も統合されてしまったようだ。

           
         街道筋は約500mで国道に合流する。

           
         扁額に「芳魂」とあるが詳細は知り得なかった。

           
         五千原バス停から街道筋に上がって行くと、建設会社がある付近に村役場があったとさ
        れ、新道ができるまでは村役場で行き止まりであった。
         1889(明治22)年町村制施行により、近世以来の村が単独で自治体を形成して村役場
        を広瀬に開設する。1893(明治26)年この地へ移転するが、昭和の大合併で豊北町とな
        り、村役場の役目を終える。

           
         中山忠光卿の遺骸を一時この夜討峠に埋めたが、適当でなかろうと掘り起こし、血に染
        められた衣類を埋めたとされる。絞殺であったとされるが何らかの血がついたと推測され
        ている。
         道標に沿うと突き当りに個人宅があり、庭と野生獣被害防止柵を越えなくてならず、許
        可を得るため訪れたが留守のため残念する。(ここで散策を終える) 


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