ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井の伝統的建造物群保存地区と「いぬいとみこ」

2023年10月26日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         柳井津の古市・金屋(かなや)町は南東に流れる柳井川河口近くの左岸に位置する。古市は
        早くから市が立ち、金屋町は鋳物師が多く、町通りは約200m、東西にやや湾曲した両
        側に妻入り・切妻造り、壁軒裏を塗り込めた商家が立ち並ぶ。(歩行約2.8㎞)

        
         1897(明治30)年に開業したJR柳井駅は、当初、柳井津駅と呼ばれていたが、19
        29(昭和4)年に柳井駅と改称する。
  

        
         JR柳井駅前から伝統的建造物群保存地区に向かってまっすぐに延びる170mほどの
        通りは、通称「麗都路通り」とされている。


        
         柳井川に架かる本橋から見る柳井川左岸には、掛け出し家屋が見られたが河川改修が行
        われたようだ。


        
         1905(明治38)年柳井津町、柳井村、古開作村が合併して柳井町になったことを記念
        して本橋が建設された。はじめは幅2間(約3.6m)ほどの木橋であったが、大正期と昭和
        期に鉄筋橋と拡幅工事が行われた。
         現在の橋は、2003(平成15)年に架けられた4代目で、歩道と車道との間には以前の
        橋の欄干が使われている。


        
        
         1897(明治30)年日本商業銀行柳井支店として開業した。その後、安田銀行柳井支店、
        1948(昭和23)年富士銀行となったが、1969(昭和44)年に閉店して建物は解体され
        た。上は銀行があった場所で、銀行の姿図は麗都路通りの陶板に見ることができる。


        
         久保町は誓光寺前を柳井湾の入江がくさび状にあったため、くぼんだ町並みであったこ
        とによる地名である。現在でも往還道の西側は土地が低くなっているという。

        
         1912(大正元)年に住友銀行柳井支店が開業するが、1969(昭和44)年閉店して建物
        は解体されたが、レンガ造りの壁がわずかに現存する。

        
         1898(明治31)年築の福田家住宅は、2軒分の宅地上に1軒を建築したため、家の中
        央に水路がある。

        
        
         誓光寺(浄土真宗)は、応仁の頃(1467-1469)に開基したとされ、江戸期には柳井坊主職の
        地位にあり、大島郡、熊毛・玖珂郡に33余の末寺・庵を抱えていたとされる。

        
        
         湘江庵(しょうこうあん)は曹洞宗のお寺で、1666(寛文6)年開山と伝える。現在の本堂
        は、1728(享保13)年の火災後に再建された。

        
         大畠瀬戸で遭難した般若姫一行がこの地に立ち寄り、井戸の清水で乾いた喉を潤した。
        お礼に井戸の傍らにさした楊枝が、一夜にして芽をふき、やがて柳の巨木になったという
        伝説がある。
         「柳」と「井戸」から柳井の地名が生まれたという。現在の柳は2005(平成17)年に
        植えられた5代目とされる。

        
           「春が来たやら湘江庵の井戸の柳の芽が伸びる」 (野口雨情の詩碑)
           「丸雪(あられ)ふる 今朝の嵐の吹落て 柳井の底に くだく玉水」の歌碑。
         下段の歌碑は、1689(元禄2)年井原西鶴が全国名勝旧跡を詠んだ歌を集めて出版した
        「一目玉鉾」の中に記載されている。その他、国森家の前身、守田家の4代目旁道(国学者)
        が寄進した「柳井山の碑」もある。

        
         街道に戻ると金屋町に「きじや」がある。かって柳井の代表的な木綿問屋「木地屋」(貞
        末家)がこの地にあり、幅1mほどの狭い路地が木地屋小路として残されている。

        
         建築時期は大正期と推定される柳井日日新聞社の社屋。当初は3戸続きであったようだ
        が、左端の1戸は解体され、現在は2戸分を1棟として使用されている。

        
         1688(元禄元)年創業の小田家は油商(商号はむろや)を営み、東は大坂、西は九州まで
        を商圏とし、最盛期には50隻もの船を抱えていた。奥行き115mの細長い敷地に、1
        701(元禄14)年築の建物が11棟並ぶ。

        
         1871(明治4)年郵便事業創設当時に使用されていた型と同じものを、1989(平成元)
        年に白壁の町並みの景観にあわせて、当時の金屋町郵便局前に設置された。(この通りが小
        瀬上関往還道)

        
         1907(明治40)年周防銀行本店として建てられたもので、木造モルタル2階建ての西
        洋古典主義的な外観を見せる。1914(大正3)年に県下各地で起こった取付けの余波を受
        けて倒産し、その後は百十銀行、山口銀行柳井支店として使用された。
         現在は町並み資料館、2階は「マロニエの木陰」などで知られる柳井市日積出身の歌手
        ・松島詩子記念館となっている。

        
         1984(昭和59)年伝統的建造物保存地区に選定された古市金屋地区。室町時代の町割
        りがそのまま残され、江戸期から明治中期頃までの建てられた白漆喰で塗り込めた土蔵造
        りの町家が200mほど連なる。

        
         木阪賞文堂さんの看板は目立つが、店内には創業当時の看板が保存されているとのこと。

        

        
        
         柳井の金魚ちょうちんは、江戸期から明治にかけてロウソク屋を営んでいた熊谷林三郎
        (さかい屋)が、青森の金魚ねぶたにヒントを得て、柳井縞の染料を使って創始したと伝わ
        る。

        
         国森家はその前身を守田家「室家」といい、現在の古市筋南側にあった鍛冶屋町で手船
        商を営んでいたが、二代目のとき「布木綿」など反物商を営んで財をなした。
         1768(明和5)年鍛冶屋町から柳井津古市の商家を買いとって移ったのが現在の国森家
        である。18世紀後半(江戸後期)の建物とされ、間口8.5m奥行き16.4mの2階建て
        妻入り入母屋造りは国指定重要文化財である。(館内見学は事前に観光協会に予約された方
        のみとあり)

        
         佐川醤油蔵前を流れる溝は、1689(元禄2)年に落合と新市を結ぶ灌漑用水路として築
        造された。

        
         佐川醤油蔵は、1904(明治37)年遠崎の秋元酒場から甘露醤油の製造拡大のため、建
        物と桶を移してきたものとされる。(内部は見学自由) 

        
         天明年間(1781-1789)頃当地の醸造家高田伝兵衛が、苦心の末、独特の醸造法に成功する。
        岩国領主吉川経倫(つねとも)が「甘露、甘露」と歓声をあげたという柳井名産・甘露醤油の
        老舗醤油元の1つである。

        
         杉の6尺桶を使った醤油製造の一端に触れることができる。

        
         やない西蔵は大正時代末期に建築され、1980(昭和55)年頃まで醤油蔵として使われ
        ていた。老朽化のため解体の危機にあったが、所有者からの寄贈により改修工事後、20
        01(平成13)年に体験工房及びギャラリーに生まれ変わった。

        
         佐川醤油蔵裏にある大神宮社(伊勢堂)には民地を通らないと行けない。もとは湘江庵の
        東側にあったが江戸後期に焼けたため、柳井小学校へ続く坂道の位置に遷座し、明治の終
        わり頃に再遷座して現在に至る。
         1859(安政6)年築の桧皮葺の社殿が残っているが、忘れられた存在になっている。

        
         佐川醤油蔵とやない西蔵。

        
         白壁の町並みがデザインされたマンホール蓋。

        
        
         佐川醤油店は、1766(明和3)年佐賀屋重五郎が創業。屋号は「佐賀重」で、1856
        (安政3)年この家を建てて甘露醤油の製造を始める。ブルーのラインのある建物は、佐川家
        の離れ屋敷で明治初年頃に洋風に改造されたという。犬矢来もあって風情のある場所でも
        ある。

        
         掛屋小路は、街筋に掛屋という金融業を営んだ商家の屋号をとって名付けられた。柳井
        川に架かる緑橋の雁木で荷揚げした商品を運んだ道とのこと。

        
         甘露醤油製造は2軒のみで、その1軒の重枝醤油醸造場は親戚筋にあたる甘露醤油の高
        田伝兵衛からの直伝製法を受け継ぐという。

        
         柳井の金魚ちょうちんの制作は、熊谷林三郎から親子三代へと引き継がれたが、孫は小
        間物屋を営んだため、長和定二が二代目から作り方を学び世界大戦頃まで作ったが途絶え
        てしまう。1962(昭和37)年に周防大島の上領氏が復活させる。 

        
         佐川家住宅から西が古市町で、金屋町に比べて平入りの建物が多い。

        
         白壁通りの西端に位置する皿田家の初代千蔵は、1812(文化9)年木綿商を営み、18
        37(天保8)年酒造業(銘柄は旭寿)を始める。
         1908(明治41)年築の建物は、松本清張の小説「果実のない森」に登場する。右側の
        不浄門は、当主が亡くなったときに遺体を運び出す以外に開かれることがないとのこと。 

        
         栄輪商会の建物は洋風で、大正末期~昭和初期に建てられたとされる。金魚ちょうちん
        を考案した熊谷林三郎がロウソク屋を営んだ地である。
         手前の辻家は大正年間の建築で、伝統的建造物群保存地区内では最も大きな屋根を持つ
        とされる。

        
         しらかべ学遊館は本郷家の建物を改修して、2004(平成16)年に開館する。 

        
         伝統的建造物群保存地区の西端で、ここで小瀬上関往還道は宝来橋へ向かう。

        
         児童文学作家のいぬいとみこ(乾富子・1924-2002)は、父が富士紡績柳井化学工業の工場
        長に就任したため、1944(昭和19)年から1947年まで在住し、この地にあった柳井
        高等女学校併設の戦時保育園「ほまれ園」の保母をする。
         戦後、教会付属の保育園に勤務し、児童文学雑誌に投稿を始め、1954(昭和29)年「
        ツグミ」で児童文学者協会新人賞を受賞する。1987(昭和62)年「光の消えた日(1978年
        作)」などの業績により山本有三記念路傍の石文学賞を受賞する。

        
         江戸中期には4度も大火に見舞われ、土蔵造りにして防火に備えるが信仰にも頼った。
        この地蔵尊は宝暦年中(1751-1764)に古市・金屋の人たちが建てたとされる。

        
         古開作が干拓されて最初に架けられた橋で古市橋と呼ばれていた。1882(明治15)
        「商品は宝物で、その荷が来ることにより町が富む」ということで宝来橋になる。

        
         柳井川に沿うこの一帯は船着き場で、石階段を使って荷揚げされていた。この石段を「
        雁木」と呼び、段々の石段が雁の群れが空を飛ぶ様に似ていることから名付けられる。

        
         小瀬上関往還道は宝来橋と緑橋の間から南下して伊保庄へ向かう。この付近には「昭和
        三年(1928)」と刻まれた緑橋の親柱、1938(昭和13)年建立の新堤新築記念碑や、17
        41(元文6)年建立の火伏地蔵が鎮座する。


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