いわき生涯学習プラザに飾られていました生け花です。
春が待ち遠しいですね。
夏井先生の講義風景。
鳥居家時代と内藤家時代を比較して
丹後沢の人柱の秘密に迫った!!
神林復所が書いた「磐城騒動記」から鳥居時代の人柱の記事から。
3月1日に
丹後沢の人柱の講座が開かれます。
講師は夏井先生。
3月20日には演劇にても丹後沢の人柱が登場します。
新島襄がいわきに来た頃の
安藤家の石高です。
本当に財政的に厳しいことに。
実質3万石に。
2017年1月31日から6月6日(火)まで
ラトブのいわき総合図書館5Fの企画展示コーナーにて
新島襄が見た「いわき」その1
が開催されています。
ご覧いただけますと
戊辰戦争(新島襄のいわきを見た4年後)前後の状況も
感じられると思います。
その企画展を記念して
2月9日と2月14日の
2回にわたる夏井芳徳館長の講演会が
図書館内で開催され
昨日は最終講座、
約30名の方々が、
新島襄か書いた
「函楯紀行」2回目を解読しながら楽しみました。
先週の1回目では
3月28日(現在のゴールデンウイークあたり)に中之作に碇を下ろしました。
そのころの中之作は百軒に満たなかったが
石炭発見から7年後で
石炭を江戸へ持っていく為活気あふれていた様子が書かれています。
中之作は平藩(安藤家)・・・片寄平蔵は笠間藩、石炭は湯長屋藩と。
翌29日には
閼伽井嶽に登ろうとしましたが、
烈風風雨のごとくの状況で引き返し
平の城下で宿を取ったと(十一屋さん)
・・・現在の常陽銀行平店のはす向かいになるようです。
その宿の清蔵さんから
いろいろ聞いたことが書かれており
岩城四郡・・・菊田郡・磐前郡・岩城郡・楢葉郡を聞いたと。
その中で
現在の丹後沢にまつわる話が書かれていまして、
現在、私たちが知っているお話とは少し違う記事が
書かれていることを
夏井先生は注目しまして解説していただきました。
また、
なぜ新島襄が閼伽井嶽に登る動機
についても解説していただきました。
そもそも新島襄はなぜ函楯に行こうとしたのでしょうか。
函楯からアメリカへ密航を企てていたのです。
その為
品川からまで函楯まで、
各港の測量をするのが目的の船が快風丸でした。
興津、中之作、宮古(岩手)では測量した。
中之作港の絵図は残っています。
下風呂・函楯は測量しなかった。
新島襄はその後
函楯→米船・ベルリン号で上海→アメリカボストンへ(翌1865年)
八重と結婚したのは
1876年(明治9年)、帰国は1874年(明治7年)
またなぜ
閼伽井嶽に登ろうとしたのか?
その当時の「龍燈」を見るためだったのではないかと。
長久保赤水・赤松宗旦(笏記)・鍋田三善の著書の
「龍燈」を紹介しながら、
新島襄は
それらの著書を読んで地理が得意ですので
ぜひ「龍燈」を見たかったのではないかと。
休みがあれば登れたのではないかと。
休みが取れず平の城下では1泊泊まりで
中之作へ帰宅し、
結局、閼伽井嶽には登れなかった。
2回目・昨夜は
丹後沢の人柱の続編から始まり
私たちが知っています
鳥居家時代の人柱の通説があり
今回の新島襄の人柱については
通説とは違う話が
内藤家時代の人柱として書かれていることに
違和感を持っていますが
夏井先生は
両方あったのではと
解説されました。
その後
新島襄が書いた
磐城の城下町の財政的に窮乏していた状況、
磐城の物産・・・石炭・染藍・岩城紙・魚のことなどを
解説していただきました。
新島襄は
28日に中之作へ来て、
4月7日には中之作から出航しまして
岩手県の宮古港へ11日に到着しました。
夏井先生
面白いお話ありがとうございました。
今日は早朝から
ブロックチェーン革命を読んで
それ以降
「お金」についての読書の旅をしていたのですが、
なかなかいい本は少ないですが、
結局は「地域通貨」に落ち着き
本・ネット等にていろいろ調べ読み、
地域通貨を創りました
シルビオ・ゲゼルの
自然的経済秩序
p350日本訳は自由に使えますのでコピーしていました。
この大著を近日中に読みたいですね。
本当に
ゲゼルは忘れられてきた巨人です。
学びがいのある巨人に出会えました。
日めくりカレンダーより
☆草を抜かざれば木も茂らず