戊辰戦争・安藤信正の書状
講師は
いわき市地域学会代表幹事の
夏井芳徳先生でした。
☆安藤信正の書状(家老・上坂助太夫宛)
・逃げるな
・早めに戦いをいどめと→実際には実行されなかった?
☆末続の戦い(慶四年=一八六八年七月二二日)
図面を書いて詳しく説明されながら
玄関近くの隼人瓜!!
緑の壁が
今の時期には陽が欲しいが・・・
鉢植えにしました唐辛子(鷹の爪)です。
鉢植えでもなりましたね。
いわき地域学會 第369回
松井秀簡
~非戦を貫いた泉藩士~
講師は中山雅弘先生でした。
昨年の8月21日予定でしたが、
その後何回か予定されましたが、
今回実現した企画です。
16歳で書かれた七言律詩の漢詩です。
すごいですね。
貧しい暮らしをしていても
志を曲げない人物を書いています。
松井秀簡の碑・・・諏訪・八幡神社境内
泉公民館文学教室(松井秀簡の碑)より
いわゆる戊辰戦争において、
泉藩は
奥羽越列藩同盟として戦われましたが、
松井秀簡は官軍に抗せずとして、
戦いのまっただ中の6月22日
泉城の西方鹿島神社宮司家の隠居にて自決しました。
慶応三年泉藩分限帳・・・いわき市史五巻近世資料より
黄色が松井秀簡。
令和2年11月21日~令和3年1月19日
いわき市勿来関文学歴史館にて
松井秀簡
~非戦を貫いた泉藩士~
が開かれ時のパンフレットです。
ペリー来航に伴う合衆国大統領国書和訳(松井秀簡筆写)
世界状況が
東北の小藩の一武士が理解していたのに驚いた。
その企画展で観られた
史料です。
有名は酒井抱一の絵もありました。
最近、NHK日曜美術館でも取り上げられた
画家です。
和算を学んだ佐久間庸軒・・・三春藩
については
福島民報2020年(令和2年6月から7月)に5回にわたり紹介されています。
漢詩や和算に優れた武士の松井秀簡が
幕末の動乱の中で
泉藩は越列藩同盟と新政府軍のはざまで
苦しみ、最後に選んだ道が、自決でした。
当時の状況の知識があったので、
戦争ではなく非戦に論戦を張りましたが、
藩の態度にはならなかった!!
企画展でいただいた和算の資料です。
令和2年12月13日
勿来関文学歴史館にて
泉藩の戊辰戦争
講師は
上妻又四郎先生のレジメから
勤王の立場から説明を。
藩情勢の転換
教順派(勤王派)と主戦派
教順派は
松井兵馬、桑原精一、平野蓮助、北郷保貞、滝川稲水など(磐城戊辰史)
6月22日
松井秀簡が鹿嶋神社で白刃自刃!!
磐城三藩の戊辰戦争・改訂増補版
上妻又四郎著
P186
松井秀簡自刃の真相は
諫死であったと。
すなわち
純義隊の軍資金強要に対し
泉藩当局が領民に対し
課そうとしたのに反対し
群奉行の松井秀簡が死をもって
撤回させようとしたのが真相のようである!!
いわきの戊辰戦争にも
非戦論者がいたと聞いていたので
令和2年の展示会を見に行きました。
知られてほしい史実ですね。
明治になり、
泉では
明治元年の神仏分離令や修験道廃止例も出て
廃仏毀釈が徹底され
お寺がなくなったといわれますが、
それらは
非戦論の影響なのでしょうか?
学びたいですね。
以前
なるほど歴史塾で半年ほどかけ
松ヶ丘公園下にあります
愚庵邸の愚庵が書き残した順礼(巡礼)日記に
廃仏毀釈の残した爪痕が読み取れました。
一昨日、
いわき地域学會市民講座第357回は
草野心平と粟津則雄~ゴーギャンの赤をめぐって~
講師は
草野心平記念文学館で専門員を約20年されていました
渡邊芳一先生でした。
詳しく、
草野さんと粟津さんの約20年来の交友と
粟津さんが草野心平記念文学館の館長から
現在は名誉館長をされているエピソードまで
楽しい時間となりました。
草野心平さんと
亡きお兄さんとの初めての詩集で
ガリ版刷りで作られ
現在何冊も残されていないそうです。
100冊を超える
草野心平さんの日記だそうです。
日記が面白いと。
残っていない日記もあると。
粟津さんとの交流では
300か所以上が日記に粟津さんのことが書かれていると・・・・・
昨年、
草野心平記念文学館で企画展をされた時のパンフレット。
「粟津君。
ゴーギャンの赤あれ、
悲しみの色だね。
僕、そう思ったんだよ」と、電話にて・・・・・
上記の草野さんお電話に対して
「僕もそう思います」と粟津さんが答えたと。
今回のレジメです。
今回のレジメです。
こんど草野さんの日記を読んでみたいと思いますね。
詩集は何回も読んでいるのですが・・・
高校時代には
図書館に
色紙が飾られていたと記憶しているのですが。
あれが草野心平かと。
昨日の庭の花から。
庭中にたくさん咲き始める。
「死霊解脱物語聞書」のレジメから
1,690年(元禄3年)
先月のいわき地域学會
347回市民講座は
夏井芳徳先生の
裕天上人の法力でした。
なかなか載せられないでいましたが、
今夜、
「ぢゃんがら」講座ありますので載せてみました。
地味な内容ですが、
多くの方が参加され、
いわき出身の裕天上人が1690年(元禄三年)に書かれた
「死霊解脱物語聞書」を
レジメのはじめで
あらすじを話された後
☆はじめに
☆累殺害事件とその後
☆累の死霊、菊に取り憑く
にそって
本を読み解きながら、
娘に取りついた死霊を成仏された話を
わかりやすく話されました。
死霊と
信頼を築く(?)中で成仏させた!!
「神仏分離令と放生会」
~飯野八幡宮に見る神仏混淆~
講師は
山名隆弘先生
いわき地域学會・市民講座より
文化文政時代の飯野八幡宮の全図。
左は現在の飯野八幡宮。
右はお寺でしたが、
150年前の明治元年・神仏分離によりなくなり
現在は駐車場に。
この1枚の図面で
神仏分離令とはどのようなものだたかがわかる!!
飯野八幡宮の放生会とはどのようなものだったのか、
飯野家文書や
長谷川安道さんの寛政十一年農家年中行事(なるほど歴史塾で現代訳しました)
から説明されました。
キヤコン(口琴)も行われていました。
大須賀筠軒著・・・磐城誌料 歳時民俗記(夏井芳徳氏校訂)から。
キヤコン(口琴)が書かれていました。
お寺にありました
毀釈により失われた鐘のことが書かれています。
飯野八幡宮で毎日鳴らしていた鐘は
今どこに!!
神仏分離令した近代日本が見失ってしまったものとして
神司馬遼太郎さんが書かれた文章を紹介しています。
「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」
の3つの提言に
鎌倉武士の信心が息づいているのではと。
先週の土曜日
「神仏分離令と放生会」
~飯野八幡宮に見る神仏混淆~
講師は
山名隆弘先生
いわき地域学會・市民講座より
に参加してきました。
市民講座では、考えられない
110名を超える大人気の講座になりました。
数年前、
タリバンの仏像破壊が報道されましたが、
150年前の明治政府は神仏分離令として
同じことをしていました。
いわきでは、
泉地区にはお寺さんがないことに気が付くでしょう。
破壊され
お寺がなくなったのです。
全国各地に見られました。
今回
山名先生のお話は
このような150年前(明治元年)・・・戊辰戦争の時期
☆神仏分離令はどのように断行されたのか
☆いわき地方の例として飯野八幡宮を挙げ
・放生会はどのような行事であったのか
・なぜ流鏑馬だけ残ったのか
・鷹狩の鷹もキヤコン(口琴)も
神仏習合の姿であったことを
熱弁されました。
貴重なお話に感謝いたします。
鷹のお話は
次回のようでしたが。
日本経済新聞で2月2日に紹介された
(本郷和人さん)
戸田光則(松本藩」7万石の最後の城主)
が
菩提寺の全久院を解体し
徹底的に廃仏をおこなったことが書かれています。
本郷さんは
1868年(明治元年)に神と仏の分離を命じ
「神仏分離令」を出しましたと。
古代から江戸時代に至るまで
日本では神と仏が共存していました。
この「神仏混淆」を国家が正式に否定したのが
「神仏分離令」!!
これを機に
仏教を徹底的に破壊する「廃仏毀釈」の嵐が
日本中に吹き荒れたと。