講師は夏井芳徳館長でした。
次回2月14日も楽しみです。
約30名の方々が今回の講座を楽しみました。
新島襄か書いた「函楯紀行」の原稿です。
同志社社史資料センタ所蔵。
「函楯紀行」の1864年3月28.29日の現代語訳です。

長久保赤水(最初に日本地図を創られた水戸藩士です。)
明治29年(1896年)東京 浅草・精行社発行
「岩城閼伽井嶽常福寺全図」と「閼伽井嶽龍燈」です。
1792年寛政4年に龍燈が書かれてから
約100年たってからの発行なのですね。
龍燈は続いていたのでしょうね。
新島襄が函楯まで乗船したといわれる快風丸画像です。
東京大学図書館所蔵資料
2017年1月31日から6月6日(火)まで
ラトブのいわき総合図書館5Fの企画展示コーナーにて
新島襄が見た「いわき」その1
が開催されています。
ご覧いただけますと
戊辰戦争(新島襄のいわきを見た4年後)前後の状況も
感じられると思います。
その企画展を記念して
2月9日と2月14日の
2回にわたる夏井芳徳館長の講演会が
図書館内で開催され
1回目の昨日は
約30名の方々が、
新島襄か書いた「函楯紀行」を解読しながら楽しみました。
3月28日(現在のゴールデンウイークあたり)に中之作に碇を下ろしました。
そのころの中之作は百軒に満たなかったが
石炭発見から7年後で
石炭を江戸へ持っていく為活気あふれていた様子が書かれています。
中之作は平藩(安藤家)・・・片寄平蔵は笠間藩、石炭は湯長屋藩と。
翌29日には
閼伽井嶽に登ろうとしましたが、
烈風風雨のごとくの状況で引き返し
平の城下で宿を取ったと(十一屋さん)
・・・現在の常陽銀行平店のはす向かいになるようです。
その宿の清蔵さんから
いろいろ聞いたことが書かれており
岩城四郡・・・菊田郡・磐前郡・岩城郡・楢葉郡を聞いたと。
その中で
現在の丹後沢にまつわる話が書かれていまして、
現在、私たちが知っているお話とは少し違う記事が
書かれていることを
夏井先生は注目しまして解説していただきました。
また、
なぜ新島襄が閼伽井嶽に登る動機
についても解説していただきました。
そもそも新島襄はなぜ函楯に行こうとしたのでしょうか。
函楯からアメリカへ密航を企てていたのです。
その為
品川からまで函楯まで、
各港の測量をするのが目的の船が快風丸でした。
興津、中之作、宮古(岩手)では測量した。
中之作港の絵図は残っています。
下風呂・函楯は測量しなかった。
新島襄はその後
函楯→米船・ベルリン号で上海→アメリカボストンへ(翌1865年)
八重と結婚したのは
1876年(明治9年)、帰国は1874年(明治7年)
またなぜ
閼伽井嶽に登ろうとしたのか?
その当時の「龍燈」を見るためだったのではないかと。
長久保赤水・赤松宗旦(笏記)・鍋田三善の著書の
「龍燈」を紹介しながら、
新島襄は
それらの著書を読んで地理が得意ですので
ぜひ「龍燈」を見たかったのではないかと。
休みがあれば登れたのではないかと。
休みが取れず平の城下では1泊泊まりで
中之作へ帰宅し、
結局、閼伽井嶽には登れなかった。
次回が楽しみです。
ちなみに
平成27年度企画展示では
吉田松陰が来た「いわき」が紹介されました。
いのししも
2013年9月にはいわきヒューマンカレッジにて
小野一雄先生が
磐城を訪れた旅人たちの記録と題し
長久保赤水・・・東奥紀行
伊能忠敬・・・・奥州紀行
古川古松軒・・・東遊雑記
伊能忠敬・・・・沿海日記
雷電・・・・・・諸国相撲控帳
成田鶴斎・・・・南僑記游
小宮山楓軒・・・浴陸奥温泉記
大原幽学・・・・諸君子句集・陸奥つれづれ草
牟田文之助・・・諸国廻暦日記
小笠原貞道・・・磐城温泉日記
新島襄・・・・・函楯紀行
輪王寺宮公現法新親王
・・・1868年5月28日平潟港に上陸→平城下の飯野家屋敷に到着。
長谷川伯成・・・奥州日記
など
いわきを訪れ、書き残していることを学びましたので
これから読んでいきたいです。