今度は私の読みが当たった。政局の話である。
昨夜(23日)民主党の野田代表が輿石氏と首相官邸で約1時間会談し、野田氏のたっての要請にこたえる形を演出したうえで、輿石氏が幹事長を続投することになった。私に言わせれば、あまりすんなり輿石幹事長再任を発表してしまうと、党の内外から「やっぱり」といった半ば批判的な声が飛び交いかねないからであった。
案の定、自公は「民主党はまた解散を先送りしようとしている」といった反発を早くも示している。幹事長は政府を代表する内閣人事と違い、政党内部の人事に過ぎず、他党が口をはさむ話ではない。現に党人事に先立つ代表選に自公が口を出したことはないし、今5人の立候補者が熾烈な戦いを行っている自民の総裁選に民主が口を挟んだこともない。
そういう意味では、あえてタブーである他党の人事に反発したのは、これから述べるように消費税増税法案の成立で自公が輿石幹事長に手玉に取られたという悔しさがつい表面化したのであろう。そして輿石氏が事実上民主の最高権力者であることが、再び白日の下に明らかになったことを、この人事は意味している。そのことを私は8月28日に投稿したブログで示唆しており、この人事は見事に私の読みを裏付けたものだった。
8月9日に投稿したブログ記事『明日にも成立する一体改革法案に国民は納得できるか?』で、私はお盆明けの20日か、少なくとも翌21日には野田総理が衆議院を解散するだろう、との読みを書いた。その理由をかいつまんで書く。
実はその前日午後8時半過ぎにオリンピック放送を中断してNHKが臨時ニュースを報じた。社会保障と税の一体改革について3党合意が成立したという話だった。
3党合意に至るまでの与野党の駆け引きは熾烈を極めた。衆院では3党合意が比較的容易に成立し、シャン、シャン、シャンで法案が通過した。が、法案が参院に送られた途端、自民が衆院での3党合意を反故にしてしまった。自民が衆院では法案に賛成しながら、参院では態度を一転したのは、石原幹事長を筆頭とする自民の強硬派が、解散時期について民主が明確にしない限り法案成立に協力すべきでないと谷垣総裁に注文を付けたからだ。
よく知られているように、国会はねじれ状態にあり、重要法案がなかなか成立しない。衆院では民主が過半数を占めているため自民が抵抗しても法案通過を阻むことができない。下手に抵抗すると「反対のための反対」を繰り返したかつての社会党と変わらないではないかというマスコミの集中砲火を浴びかねない。そこで衆院ではそこそこの批判で矛を収め、法案を通過させてきたが、参院では与野党の勢力図が逆転し、今度は民主が野党側に歩み寄らない限り法案を通さないという姿勢をとってきたせいだ。
で、「社会保障と税の一体改革」法案が衆院を通過して参院に送られた途端、自民は「民主が解散時期を明確にしない限り協力できない」と態度を一転したのだ。これに対し民主は「解散は総理の専権事項であり、法案成立との引き換えに解散することなどあり得ない」と反発。こうした民主の対応に、自民は石原幹事長を筆頭とする党内強硬派が「野田総理に対する参院での不信任決議、衆院では問責決議を行う」と揺さぶりをかけ始めた。
こうして与野党の対立は完全に膠着状態になり、にっちもさっちも行かなくなったのである。そして決定的な瞬間が来た。8月6日から7日にかけて民・自両党の動きが一気に加速しだした。読売新聞の記事の大見出しが、この間のあわただしい政局の動きを物語っている。
①「自民、不信任・問責案提出へ 解散確約ない限り」(7日朝刊1面トップ)
②「首相手詰まり 輿石氏、党首会談認めず」(同日スキャナー)
③「不信任・問責、谷垣氏一任」(同日夕刊1面)
④「一体改革に危機 自民きょう不信任・問責案」(8日朝刊1面トップ)
⑤「自民『強硬』一点張り 党内『主戦論』抑えられず」(同日スキャナー)
⑥「解散時期『近い将来』 民主、3党首会談を打診」(同日夕刊1面トップ)
この2日間の状況から見て取れることは、自民が攻勢の手を緩めず、民主が窮地に追い込まれていく状況がうかがえる。そして民主では肝心の野田総理がまったくリーダーシップを発揮できず、②の見出しにあるように輿石幹事長が総理の意向を無視して「党首会談認めず」といった、事実上民主の実権は自分が握っているかのごとき発言をしている。こうした事実から野田総理が輿石幹事長の操り人形に過ぎない存在であることがうかがえる。
幹事長という党の役職は、党首に次ぐナンバー2の存在である、というのが一応政界では常識になっている。しかし過去にも例外がなかったわけではない。1991年には直前まで自民党幹事長の地位にあった小沢一郎が、海部総理の辞任を受けて次期総裁に名乗りを上げた宮沢・渡辺・三塚の3氏を自らの個人事務所に呼びつけ(いわゆる小沢面接)、3氏の政治理念を聞きただしたうえで宮沢氏を後継総裁に指名するという思い上がった行動をとったケースもあった。小泉氏を除いて、長期政権の座を維持してきた実力者総裁が、身を引くに際し後継総裁を指名することは自民のいわば慣行だった。が、総裁になったことさえない小沢氏が海部内閣の後継総裁を選ぶといった例は過去の自民党史にはない。
野田総理が輿石氏を幹事長に抜擢したのは党内融和を最優先したためとされている。輿石氏はもともとは小沢氏に近いとみられていた人物で、党内最大派閥を誇っていた小沢グループを政権運営に協力させるため、あえて小沢氏に近いとみられていた輿石氏を幹事長という要職に抜擢したというわけだ。
が、結局小沢氏がマニフェストにうたっていなかった消費税増税に反対して離党した時、当然のことながら輿石氏の去就が注目された。これは「たられば」の話になってしまうが、もし小沢チルドレンの大半が小沢氏と行動を共にしていたら、輿石氏も小沢氏の新党結成に参加していたのではないかと私は思っている。が、小沢氏と行動を共にした小沢チルドレンは予想を裏切る少数でしかなかった。それも当然で、小沢氏の主張はただマニフェストにうたっていなかったというだけで、増税なき社会保障制度確立の構想など小沢氏にはまったくなかったからで、結局小沢氏は政界遊泳のテクニックにたけているだけで、何の政治理念も持っていないということが白日の下にさらけ出してしまったからだ。とはいえ小沢氏とたもとを分かったチルドレンたちは大半が1年生議員で、選挙区での地盤づくりはこれからという致命的なハンディキャップを抱えていた。その彼らにとって、もともと小沢氏に近く、また現在は党のナンバー2であり、選挙活動の差配を一手に握る幹事長の要職についていた輿石氏を頼るしかなかったのである。かくして小沢氏の遺産ともいえる小沢チルドレンをタダで相続した輿石氏が、事実上党の最高実力者になってしまったのだ。まさに「棚から牡丹餅」で得た権力であった。
こうして自民の攻勢で土壇場まで追い詰められながら、輿石氏が野田総理の意向も確かめず「党首会談を認めない」などという思い上がった発言ができたのも、こうした経緯があったからである。
しかし、さすがにここまで追い詰められて、やっと輿石氏の呪縛から脱しようと決意した野田総理が、8日になって自ら谷垣総裁に直談判で党首会談を申し入れ、自民の谷垣総裁も「振り上げたこぶしの引っ込め時」と判断し、二人の話し合いで合意に達した時は、公明の山口代表を会談に加え同意を取り付ける、という条件で会談に応じることにした。それが3党合意を回復するためには待ったなしだった8日夜のことである。
3党合意を回復するためにこの日の会談で申し合わせが成立したのは、①早急に参院で法案の採決を行い、自公は政府案に賛成する、②「近いうち」に国民の信を問う(解散・総選挙を意味する)、③自民は不信任・問責を問わない、の3点だった。
党内基盤が脆弱で、石原幹事長を筆頭にする強硬派を抑えきれなかった谷垣総裁としては、ようやく解散時期についての具体的な言質を取り付けたという安どの気持ちを持ったのは疑いを入れない。会談直後の「近いうちという約束は重い言葉だ」、と今国会中の解散が暗黙の了解事項になったことを匂わせる発言をしている。これで党内強硬派を抑えられるという思いが記者団に囲まれた谷垣総裁の顔ににじみ出ていた。
野田総理が「党首会談は認めない」と公言した輿石の頭越しに自民の谷垣総裁と直談判でかろうじて「社会保障と税の一体改革」法案を成立させたことは、輿石氏にとって当然面白くない。法案成立が事実上決定した直後、記者団から「近いうちの解散は今国会中か」と聞かれ、「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改正など重要法案がまだ残っている」とうそぶいた。
ここまでは事実を書いてきただけだが、ここで私は大きな読み誤りをした。8月9日に投稿したブログ記事で私はこう書いた。
「ここまで来たら輿石幹事長がいかに抵抗しようとも、もはや野田首相から党のリーダーシップを再び奪い返すことはだれの目にも不可能としか見えまい。現在の政治状況を、そう解釈するのが、最も論理的整合性を満たした政治ジャーナリストのあるべきスタンスだろう」と。
ところが、輿石氏失脚のシナリオは見事に外れてしまった。輿石氏の猛烈な巻き返しが始まり、小沢チルドレンの残党という民主党の最大勢力を輿石氏が完全に掌握していたとまでは推察できなかったのだ。むしろ輿石氏の「了解」を得ることなく、3党合意を復活させた野田総理のリーダーシップにチルドレンは期待を寄せるようになるのではないかと私は考えたからである。
8月28日に投稿したブログ記事『私はなぜ政局を読み誤ったのか? 反省に代えて』の中で、私は率直にその事実を認めた。一切報道の誤りや主張の非論理性を読者から指摘されても、そのことを紙面では絶対に認めない大新聞社とは、ジャーナリストとしてのスタンスがまるで違うをこの際はっきり言っておく。
。
決定的なケースを一つだけ述べておく。読売新聞も朝日新聞も「あの戦争」(これは私の定義。読売新聞は「昭和戦争」と定義し、朝日新聞は「アジア太平洋戦争」と定義している)について、ともに「軍の圧力に屈し、軍に協力してきた」と、いかにも「反省」しているかのごとき言い方で、実は「軍の圧力」に責任転嫁していることでは共通しているが、実際には国民の軍国主義思想をあおりにあおり、軍の独裁政権を作り上げてきた張本人が読売新聞や朝日新聞などの大新聞社だった。
そのことの証明は簡単である。明治維新によって近代国家建設に着手した明治政府は、欧米先進国から近代軍事技術や最新の兵器を導入して軍事力で欧米先進国に追い付こうという戦略と、やはり近代産業技術や最新の製造装置導入によって産業力も強化しようという戦略を国造りの2本柱にしてきた。いわゆる「富国・強兵」の旗印がそのスローガンである。
そしてイギリスとのアヘン戦争で大敗しながら、日本のように軍事力と産業力の近代化を目指そうとしなかった中国(清国)にまず侵略戦争を仕掛けて大勝利を収め、先進国の仲間入りを果たした日本は、次に朝鮮を濡れ手に粟同然で併合し、さらには南下政策を進めていたロシアと、無謀としか言いようのない戦火を交え、これまた奇跡としか言いようがない大勝利を収めた。この時期、読売新聞や朝日新聞はどういう報道スタンスをとっていたか。
欧米先進国はこの日露戦争で、まさか日本が勝利を収めるとは全く予測していなかった。だから日本が勝利した瞬間、欧米先進国にとっては、当時世界最強と言われていたロシアのバルチック艦隊を撃破した日本の軍事力が、一挙に脅威の対象になったのである。そこで欧米列強が、勝利によって得た日本の戦果の多くを放棄するよう日本に圧力をかけることにした。そしてこの圧力に日本政府は屈した。勝つことは勝ったが、膨大な軍事費と乃木将軍の無理に無理を重ねた突撃作戦で失った膨大な人命によって、日本の軍事力は疲弊しきっていた。日本政府はこの干渉を受け入れざるを得なかったのだ。
この時の日本政府に対し、「弱腰外交」と猛烈な怒りの声を上げたのが、当時の一般国民であり、そうした国民の怒りをあおりにあおったのが日本の大新聞だった。連日国会を取り巻いた激しいデモ活動に対し、大新聞社は英雄扱いする記事を連日流し続けた。
読売新聞の読者センターや朝日新聞のお客様センターの方に、この事実を伝え、「読売新聞も朝日新聞も歴史認識が全く間違っている。日本の軍国主義化に大新聞社がいつから、どのように手を貸し、また率先して国民に軍国主義思想を植え付けてきたかをきちんと検証することが一番大切な歴史認識の視点ですよ」と言うと、誰一人として反論しない。しない、というより「できるわけがない」のである。さらに「私もそう思います」と同意する方が大半であった。しかし、そういう視点からの再検証は読売新聞も朝日新聞もいまだしていない。「あの戦争」の時のように「軍の圧力」に責任転嫁する対象がないからである。
私はそういう卑劣極まりない大新聞社の仮面をかぶったジャーナリストではない。数百人の読者しかいないブログでも、書いた結果に対しては責任をとる。
で、本題に戻るが、なぜ私が8月9日に投稿したブログで「解散はお盆明けの20日か21日」と予測した根拠について8月28日に投稿したブログではこう書いている。
「私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したことによる)、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き、谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命をかけている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点から、おそらく野田総理がお盆明け早々の解散をそれとなく(谷垣総裁に)示唆したか、あるいは密約したかのどちらかだと今でも思っている」
「(輿石氏が)絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と考えられる)。
昨夜(23日)夕方からの野田代表と輿石氏の会談で、輿石氏が野田代表の要請を受け入れて幹事長続投を決めたというのは、8月28日投稿のブログで分析した輿石氏の作戦通りの読み筋だったことがご理解いただけたと思う。
この民主党人事に自民は反発しているようだが、反発して民主との対立を激化させればさせるほど、自民は輿石氏の手のひらで踊る結果になる。当然民主は特例公債発行や選挙制度改革法案が成立しない限り、重要法案を積み残したままで解散するわけにはいかない、というのが輿石作戦のポイントだからだ。
そうした輿石作戦に乗らないためには自民が子供じみた反発をせず、むしろ積極的に法案審議に協力し、早期に民主が主張している「重要法案」を成立させてしまうことだ(政府案を丸呑みしろと言っているわけではない。自公も対案を出し、一致できる点は争うことなく同意し、一致できない問題は審議を尽くして妥協点を見つける。そういうスタンスをとるべきだ、と私は言っているのだ)。
自公がそういう作戦に出れば、民主としては解散を先延ばしする理由がなくなってしまう。そもそも前の国会で審議や採決をボイコットしたりせず、さっさと成立させてしまっていれば、民主は会期末に解散せざるを得なくなっていたのだ。
私は別に民主の肩を持つつもりもなければ、自民の肩を持つつもりもない。はっきり言って私は積極的無党派層の一人である。その意味は、選挙当日、白紙票を投じるために選挙会場に行っているくらいなのだから。特例として記入投票することがないわけではないが、それは所属する政党のいかんを問わず、こういう人にこそ日本の将来を担ってもらいたいと思えたケースだけである。ジャーナリストである以上、その程度の信条は持っていただきたい。
昨夜(23日)民主党の野田代表が輿石氏と首相官邸で約1時間会談し、野田氏のたっての要請にこたえる形を演出したうえで、輿石氏が幹事長を続投することになった。私に言わせれば、あまりすんなり輿石幹事長再任を発表してしまうと、党の内外から「やっぱり」といった半ば批判的な声が飛び交いかねないからであった。
案の定、自公は「民主党はまた解散を先送りしようとしている」といった反発を早くも示している。幹事長は政府を代表する内閣人事と違い、政党内部の人事に過ぎず、他党が口をはさむ話ではない。現に党人事に先立つ代表選に自公が口を出したことはないし、今5人の立候補者が熾烈な戦いを行っている自民の総裁選に民主が口を挟んだこともない。
そういう意味では、あえてタブーである他党の人事に反発したのは、これから述べるように消費税増税法案の成立で自公が輿石幹事長に手玉に取られたという悔しさがつい表面化したのであろう。そして輿石氏が事実上民主の最高権力者であることが、再び白日の下に明らかになったことを、この人事は意味している。そのことを私は8月28日に投稿したブログで示唆しており、この人事は見事に私の読みを裏付けたものだった。
8月9日に投稿したブログ記事『明日にも成立する一体改革法案に国民は納得できるか?』で、私はお盆明けの20日か、少なくとも翌21日には野田総理が衆議院を解散するだろう、との読みを書いた。その理由をかいつまんで書く。
実はその前日午後8時半過ぎにオリンピック放送を中断してNHKが臨時ニュースを報じた。社会保障と税の一体改革について3党合意が成立したという話だった。
3党合意に至るまでの与野党の駆け引きは熾烈を極めた。衆院では3党合意が比較的容易に成立し、シャン、シャン、シャンで法案が通過した。が、法案が参院に送られた途端、自民が衆院での3党合意を反故にしてしまった。自民が衆院では法案に賛成しながら、参院では態度を一転したのは、石原幹事長を筆頭とする自民の強硬派が、解散時期について民主が明確にしない限り法案成立に協力すべきでないと谷垣総裁に注文を付けたからだ。
よく知られているように、国会はねじれ状態にあり、重要法案がなかなか成立しない。衆院では民主が過半数を占めているため自民が抵抗しても法案通過を阻むことができない。下手に抵抗すると「反対のための反対」を繰り返したかつての社会党と変わらないではないかというマスコミの集中砲火を浴びかねない。そこで衆院ではそこそこの批判で矛を収め、法案を通過させてきたが、参院では与野党の勢力図が逆転し、今度は民主が野党側に歩み寄らない限り法案を通さないという姿勢をとってきたせいだ。
で、「社会保障と税の一体改革」法案が衆院を通過して参院に送られた途端、自民は「民主が解散時期を明確にしない限り協力できない」と態度を一転したのだ。これに対し民主は「解散は総理の専権事項であり、法案成立との引き換えに解散することなどあり得ない」と反発。こうした民主の対応に、自民は石原幹事長を筆頭とする党内強硬派が「野田総理に対する参院での不信任決議、衆院では問責決議を行う」と揺さぶりをかけ始めた。
こうして与野党の対立は完全に膠着状態になり、にっちもさっちも行かなくなったのである。そして決定的な瞬間が来た。8月6日から7日にかけて民・自両党の動きが一気に加速しだした。読売新聞の記事の大見出しが、この間のあわただしい政局の動きを物語っている。
①「自民、不信任・問責案提出へ 解散確約ない限り」(7日朝刊1面トップ)
②「首相手詰まり 輿石氏、党首会談認めず」(同日スキャナー)
③「不信任・問責、谷垣氏一任」(同日夕刊1面)
④「一体改革に危機 自民きょう不信任・問責案」(8日朝刊1面トップ)
⑤「自民『強硬』一点張り 党内『主戦論』抑えられず」(同日スキャナー)
⑥「解散時期『近い将来』 民主、3党首会談を打診」(同日夕刊1面トップ)
この2日間の状況から見て取れることは、自民が攻勢の手を緩めず、民主が窮地に追い込まれていく状況がうかがえる。そして民主では肝心の野田総理がまったくリーダーシップを発揮できず、②の見出しにあるように輿石幹事長が総理の意向を無視して「党首会談認めず」といった、事実上民主の実権は自分が握っているかのごとき発言をしている。こうした事実から野田総理が輿石幹事長の操り人形に過ぎない存在であることがうかがえる。
幹事長という党の役職は、党首に次ぐナンバー2の存在である、というのが一応政界では常識になっている。しかし過去にも例外がなかったわけではない。1991年には直前まで自民党幹事長の地位にあった小沢一郎が、海部総理の辞任を受けて次期総裁に名乗りを上げた宮沢・渡辺・三塚の3氏を自らの個人事務所に呼びつけ(いわゆる小沢面接)、3氏の政治理念を聞きただしたうえで宮沢氏を後継総裁に指名するという思い上がった行動をとったケースもあった。小泉氏を除いて、長期政権の座を維持してきた実力者総裁が、身を引くに際し後継総裁を指名することは自民のいわば慣行だった。が、総裁になったことさえない小沢氏が海部内閣の後継総裁を選ぶといった例は過去の自民党史にはない。
野田総理が輿石氏を幹事長に抜擢したのは党内融和を最優先したためとされている。輿石氏はもともとは小沢氏に近いとみられていた人物で、党内最大派閥を誇っていた小沢グループを政権運営に協力させるため、あえて小沢氏に近いとみられていた輿石氏を幹事長という要職に抜擢したというわけだ。
が、結局小沢氏がマニフェストにうたっていなかった消費税増税に反対して離党した時、当然のことながら輿石氏の去就が注目された。これは「たられば」の話になってしまうが、もし小沢チルドレンの大半が小沢氏と行動を共にしていたら、輿石氏も小沢氏の新党結成に参加していたのではないかと私は思っている。が、小沢氏と行動を共にした小沢チルドレンは予想を裏切る少数でしかなかった。それも当然で、小沢氏の主張はただマニフェストにうたっていなかったというだけで、増税なき社会保障制度確立の構想など小沢氏にはまったくなかったからで、結局小沢氏は政界遊泳のテクニックにたけているだけで、何の政治理念も持っていないということが白日の下にさらけ出してしまったからだ。とはいえ小沢氏とたもとを分かったチルドレンたちは大半が1年生議員で、選挙区での地盤づくりはこれからという致命的なハンディキャップを抱えていた。その彼らにとって、もともと小沢氏に近く、また現在は党のナンバー2であり、選挙活動の差配を一手に握る幹事長の要職についていた輿石氏を頼るしかなかったのである。かくして小沢氏の遺産ともいえる小沢チルドレンをタダで相続した輿石氏が、事実上党の最高実力者になってしまったのだ。まさに「棚から牡丹餅」で得た権力であった。
こうして自民の攻勢で土壇場まで追い詰められながら、輿石氏が野田総理の意向も確かめず「党首会談を認めない」などという思い上がった発言ができたのも、こうした経緯があったからである。
しかし、さすがにここまで追い詰められて、やっと輿石氏の呪縛から脱しようと決意した野田総理が、8日になって自ら谷垣総裁に直談判で党首会談を申し入れ、自民の谷垣総裁も「振り上げたこぶしの引っ込め時」と判断し、二人の話し合いで合意に達した時は、公明の山口代表を会談に加え同意を取り付ける、という条件で会談に応じることにした。それが3党合意を回復するためには待ったなしだった8日夜のことである。
3党合意を回復するためにこの日の会談で申し合わせが成立したのは、①早急に参院で法案の採決を行い、自公は政府案に賛成する、②「近いうち」に国民の信を問う(解散・総選挙を意味する)、③自民は不信任・問責を問わない、の3点だった。
党内基盤が脆弱で、石原幹事長を筆頭にする強硬派を抑えきれなかった谷垣総裁としては、ようやく解散時期についての具体的な言質を取り付けたという安どの気持ちを持ったのは疑いを入れない。会談直後の「近いうちという約束は重い言葉だ」、と今国会中の解散が暗黙の了解事項になったことを匂わせる発言をしている。これで党内強硬派を抑えられるという思いが記者団に囲まれた谷垣総裁の顔ににじみ出ていた。
野田総理が「党首会談は認めない」と公言した輿石の頭越しに自民の谷垣総裁と直談判でかろうじて「社会保障と税の一体改革」法案を成立させたことは、輿石氏にとって当然面白くない。法案成立が事実上決定した直後、記者団から「近いうちの解散は今国会中か」と聞かれ、「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改正など重要法案がまだ残っている」とうそぶいた。
ここまでは事実を書いてきただけだが、ここで私は大きな読み誤りをした。8月9日に投稿したブログ記事で私はこう書いた。
「ここまで来たら輿石幹事長がいかに抵抗しようとも、もはや野田首相から党のリーダーシップを再び奪い返すことはだれの目にも不可能としか見えまい。現在の政治状況を、そう解釈するのが、最も論理的整合性を満たした政治ジャーナリストのあるべきスタンスだろう」と。
ところが、輿石氏失脚のシナリオは見事に外れてしまった。輿石氏の猛烈な巻き返しが始まり、小沢チルドレンの残党という民主党の最大勢力を輿石氏が完全に掌握していたとまでは推察できなかったのだ。むしろ輿石氏の「了解」を得ることなく、3党合意を復活させた野田総理のリーダーシップにチルドレンは期待を寄せるようになるのではないかと私は考えたからである。
8月28日に投稿したブログ記事『私はなぜ政局を読み誤ったのか? 反省に代えて』の中で、私は率直にその事実を認めた。一切報道の誤りや主張の非論理性を読者から指摘されても、そのことを紙面では絶対に認めない大新聞社とは、ジャーナリストとしてのスタンスがまるで違うをこの際はっきり言っておく。
。
決定的なケースを一つだけ述べておく。読売新聞も朝日新聞も「あの戦争」(これは私の定義。読売新聞は「昭和戦争」と定義し、朝日新聞は「アジア太平洋戦争」と定義している)について、ともに「軍の圧力に屈し、軍に協力してきた」と、いかにも「反省」しているかのごとき言い方で、実は「軍の圧力」に責任転嫁していることでは共通しているが、実際には国民の軍国主義思想をあおりにあおり、軍の独裁政権を作り上げてきた張本人が読売新聞や朝日新聞などの大新聞社だった。
そのことの証明は簡単である。明治維新によって近代国家建設に着手した明治政府は、欧米先進国から近代軍事技術や最新の兵器を導入して軍事力で欧米先進国に追い付こうという戦略と、やはり近代産業技術や最新の製造装置導入によって産業力も強化しようという戦略を国造りの2本柱にしてきた。いわゆる「富国・強兵」の旗印がそのスローガンである。
そしてイギリスとのアヘン戦争で大敗しながら、日本のように軍事力と産業力の近代化を目指そうとしなかった中国(清国)にまず侵略戦争を仕掛けて大勝利を収め、先進国の仲間入りを果たした日本は、次に朝鮮を濡れ手に粟同然で併合し、さらには南下政策を進めていたロシアと、無謀としか言いようのない戦火を交え、これまた奇跡としか言いようがない大勝利を収めた。この時期、読売新聞や朝日新聞はどういう報道スタンスをとっていたか。
欧米先進国はこの日露戦争で、まさか日本が勝利を収めるとは全く予測していなかった。だから日本が勝利した瞬間、欧米先進国にとっては、当時世界最強と言われていたロシアのバルチック艦隊を撃破した日本の軍事力が、一挙に脅威の対象になったのである。そこで欧米列強が、勝利によって得た日本の戦果の多くを放棄するよう日本に圧力をかけることにした。そしてこの圧力に日本政府は屈した。勝つことは勝ったが、膨大な軍事費と乃木将軍の無理に無理を重ねた突撃作戦で失った膨大な人命によって、日本の軍事力は疲弊しきっていた。日本政府はこの干渉を受け入れざるを得なかったのだ。
この時の日本政府に対し、「弱腰外交」と猛烈な怒りの声を上げたのが、当時の一般国民であり、そうした国民の怒りをあおりにあおったのが日本の大新聞だった。連日国会を取り巻いた激しいデモ活動に対し、大新聞社は英雄扱いする記事を連日流し続けた。
読売新聞の読者センターや朝日新聞のお客様センターの方に、この事実を伝え、「読売新聞も朝日新聞も歴史認識が全く間違っている。日本の軍国主義化に大新聞社がいつから、どのように手を貸し、また率先して国民に軍国主義思想を植え付けてきたかをきちんと検証することが一番大切な歴史認識の視点ですよ」と言うと、誰一人として反論しない。しない、というより「できるわけがない」のである。さらに「私もそう思います」と同意する方が大半であった。しかし、そういう視点からの再検証は読売新聞も朝日新聞もいまだしていない。「あの戦争」の時のように「軍の圧力」に責任転嫁する対象がないからである。
私はそういう卑劣極まりない大新聞社の仮面をかぶったジャーナリストではない。数百人の読者しかいないブログでも、書いた結果に対しては責任をとる。
で、本題に戻るが、なぜ私が8月9日に投稿したブログで「解散はお盆明けの20日か21日」と予測した根拠について8月28日に投稿したブログではこう書いている。
「私は状況にもよるが、自民党内の強硬派(石原幹事長を筆頭とする)を説得できるだけの根拠を谷垣氏が確信したこと(「近いうちとは重い言葉だ」との発言を再三繰り返したことによる)、さらに民主・輿石幹事長が参院採決の合意ができた当日に記者から「近いうちとは今国会中か」との質問に対して「そんなことはないだろう。特例公債発行や選挙制度改革などの重要法案がまだ残っている」と発言したことを聞き、谷垣総裁が「こんな幹事長が与党にいるなんて信じられない」と激怒したこと、また肝心の野田総理が「私は社会保障と税の一体改革に自らの政治生命をかけている」と耳にタコができるほど聞かされてきたことの3点から、おそらく野田総理がお盆明け早々の解散をそれとなく(谷垣総裁に)示唆したか、あるいは密約したかのどちらかだと今でも思っている」
「(輿石氏が)絶対に参院で否決されて廃案になることを百も承知で今国会に特例公債発行や選挙制度改革法案を衆院に提出して自公ボイコットの中で単独強行採決に踏み切ったということは、解散時期を引っ張れるだけ引っ張って、うまくいけば衆議院議員の任期満了まで政権を維持しようという作戦に出たと解釈するのが妥当だろう(その間に選挙基盤がまだ弱い元小沢チルドレンに地元に確固たる基盤づくりをする時間的余裕を与えるのが目的と考えられる)。
昨夜(23日)夕方からの野田代表と輿石氏の会談で、輿石氏が野田代表の要請を受け入れて幹事長続投を決めたというのは、8月28日投稿のブログで分析した輿石氏の作戦通りの読み筋だったことがご理解いただけたと思う。
この民主党人事に自民は反発しているようだが、反発して民主との対立を激化させればさせるほど、自民は輿石氏の手のひらで踊る結果になる。当然民主は特例公債発行や選挙制度改革法案が成立しない限り、重要法案を積み残したままで解散するわけにはいかない、というのが輿石作戦のポイントだからだ。
そうした輿石作戦に乗らないためには自民が子供じみた反発をせず、むしろ積極的に法案審議に協力し、早期に民主が主張している「重要法案」を成立させてしまうことだ(政府案を丸呑みしろと言っているわけではない。自公も対案を出し、一致できる点は争うことなく同意し、一致できない問題は審議を尽くして妥協点を見つける。そういうスタンスをとるべきだ、と私は言っているのだ)。
自公がそういう作戦に出れば、民主としては解散を先延ばしする理由がなくなってしまう。そもそも前の国会で審議や採決をボイコットしたりせず、さっさと成立させてしまっていれば、民主は会期末に解散せざるを得なくなっていたのだ。
私は別に民主の肩を持つつもりもなければ、自民の肩を持つつもりもない。はっきり言って私は積極的無党派層の一人である。その意味は、選挙当日、白紙票を投じるために選挙会場に行っているくらいなのだから。特例として記入投票することがないわけではないが、それは所属する政党のいかんを問わず、こういう人にこそ日本の将来を担ってもらいたいと思えたケースだけである。ジャーナリストである以上、その程度の信条は持っていただきたい。
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