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第552回 蜂須賀家の困ったご先祖様

2023-12-01 | エッセイ
 歴史上高名なご先祖を持つことは、誇らしいであろうと十分想像できます。でも、良からぬ所業などの伝説が付いて回るご先祖様だと、子孫の方々には、なかなか辛いものがあるようです。蜂須賀家の場合を、司馬遼太郎のエッセイ(「司馬遼太郎が考えたこと 5」(新潮文庫)所収)で読んで、いろいろ考えさせられました。エッセンスをお届けします。

 その始祖とされる蜂須賀小六(はちすか・ころく のち正勝)が有名になったのは、江戸時代の「真書太閤記」や「絵本太閤記」などの読み本で、のちの秀吉との出会い、そして、ともに盗賊として働いたことなどが面白おかしく語り伝えられたのが大きく寄与しています。
 その語り伝えです。岡崎(現・愛知県下)の矢作(やはぎ)橋で流浪の少年であったのちの秀吉が寝ていると、そこを盗賊の親分である小六が一味とともに通りかかり、秀吉の足を踏んでしまいました。無礼を堂々と咎(とが)める秀吉の態度に感服した小六は、彼を一味に加えます。そして、その夜、富家に押し込んだ時に、秀吉は内から門を開いて小六一味を引き入れ、財宝を奪うのに貢献した、というのです。そういえば、私も小さい頃、絵本か何かで読んだような覚えがあります。小六のこんな画像が残っています。

 当時、矢作橋というのはありませんでしたから、司馬はこれは史実ではないとしています。小六に盗賊の自覚があったかどうかも、本人に聞いてみないとわからないとも。 
 ともあれ、小六と徒党を組みつつ秀吉は、天性の要領の良さと智略で、織田家の下級将校として自前の兵を10人ほど持つ身分になりました。一方、小六は500~1000人の野伏(のぶし=山野で陰武者狩りなどを行う武装した民衆の集団)を率いていました。部下の人数からいえば小六が上位ですが、秀吉には織田家家臣というブランドがあります。小六は秀吉のサポート役に徹することに自らの存在意義を見い出し、彼の信頼を勝ち取ったようです。

 事実、織田家から命じられた美濃(現・岐阜県)攻めには野伏集団を率いて参加し、その攻略に貢献しています。また、一夜城として有名な墨俣(すのまた)城の守備も任されました。なかなかリーダーシップに富んだ人物だったようです。「さらに小六のおもしろさは、秀吉が織田家の軍団長になってから、野戦攻城よりもむしろ、敵の城主を懐柔したり、新領地の土豪たちを安心させたりする仕事に大いに器量を発揮することである。」(同エッセイから)とあります。政治力にも富んだ人物像が浮かび上がってきます。
 その後の蜂須賀家は、関ヶ原の戦い、大阪城落城の激動を乗り切りました。代々、人物を得たこともあり、徳川幕府にそつなく仕え、幕末には阿波の国(現・徳島県)27万7千石の国主でした。

 さて、維新の世となって、蜂須賀家は、侯爵に列せられました。しかしながら、小六というご先祖様の汚名をそそぐのは大変だったようです。同エッセイがこんなエピソードを紹介しています。
 明治帝が、蜂須賀侯爵と対談中に中座しました。卓上にあったタバコを1本取り、ついでに数本をポケットに入れました。席に戻って、そのことに気づいた明治帝は、「いかにもおかしげに、「蜂須賀、先祖は争えんのう」といわれた。」(同)
 明治帝のユーモアに感心しつつ、ちょっぴり侯爵に同情します。

 蜂須賀家も「俗説」を正すべく、昭和のはじめ、いろいろ手を打ちました。
 まず、小六に、従(じゅ)三位を追贈するよう政府に働きかけ、実現させました。
 さらには、渡辺世祐(よすけ)博士なる人物に家蔵の文書を挙げて提供し「蜂須賀小六正勝」(昭和4年 雄山閣)なる伝記を出版しています。その内容です。「渡辺博士はその伝記にもあるように、「才識高邁であって調和性に富み、穏当なる人物」として、小六を描いた。なにぶん資料が乏しいため、ずいぶん苦しい伝記になっている」(同)と司馬は、辛口に評しています。1冊の伝記で、江戸時代から続く「俗説」を正すのは、やはり無理があったようですね。

 有名人などいませんが、代々のご先祖様のおかげで、私は、この世に生を受けています。まずはそのことに感謝しなければ、と司馬のエッセイを読みながら思ったことでした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。