落語の「時そば」(関西では「時うどん」)はご存知ですよね。海外で、それを地でいくような体験をした人がいます。ネタ元は、時々利用させていただいている上前淳一郎さんの「読むクスリ」シリース(1984-2002年まで、週刊文春に連載したコラムで、文春文庫版は全37巻)です。
落語の勘所をごく簡単にご案内した上で、その体験談を第20巻所収の「南半球の時そば」からご紹介します。落語と同様、金額はわずかですので、ご安心の上、最後までお付き合いください。
まずは、落語のストーリーです(ご存知の方は、読み飛ばしていただいて結構です)。

夜更けに、天秤棒を担いだ流しのそば屋に声をかけた男。オヤジと調子よくしゃべりながら、食い終わって値段を訊くと十六文だという。ふところから一文銭を取り出し、ひとつ、ふたつ、みっつ・・・と声に出して数えながら、そば屋の手に乗せていく。「やっつ」まで来た時、不意に「今、何刻(なんどき)だい?」と時刻を尋ねます。「へえ、九刻(ここのつ)で(現代の午前零時頃)」との返事に男は、「とお、十一、十二・・・」と続けて、一文をごまかしてしまうのです。落語では、それを見ていた与太郎が、手口を見抜き、翌晩、実行するのです。が、うんと早い四刻(よっつ)に、同じ手口でやったため、多めに払うハメになった、というのがオチです。
それでは、本題の海外版「時そば」にまいりましょう。
主人公は、特許事務所を主宰する弁理士の飯田伸行さんです。国際会議でニュージーランドを訪れました。帰りは、オーストラリアのゴールドコーストに2、3日間滞在し、ブリスベーンから帰国便の利用です。「これが直行便ではなく、途中ケアンズに寄るんです。私はブリスベーンで乗ってすぐアルコールを飲みはじめ、いい気分でしたが、残っているオーストラリア・ドルを使い切ろうと思って,機外へ出ました」(同書から)と飯田さん。
免税店へ入ると、ケアンズは観光地ですから、残った小銭で買い物をする日本人がたくさんいます。どの顔もニコニコ、のんびりしています。
飯田さんもすっかりリラックスした気分で、ポケットの金を出してみると、20ドル札が1枚と、コインが2、3ドル分残っています。
何を買おうかと酒の棚を見ていると、しゃれたラベルのラム酒が目に止まりました。値段は、14ドル50セントです。うん、これにしよう、と決めてレジに向かいました。
レジカウンターには50歳くらいで、ベテラン風の女性がいます。後ろに客はいないので、ちょっぴり会話を楽しもうと「ハロー」と話しかけ、ラム酒の産地を訊くと、地元で作ってるとの返事。20ドルを受け取って、レジを打ちながら、彼女は笑顔でたずね返してきました。
そのやりとりです。(同前)
「この酒を持って、もう日本に帰るんだね。こっちには何日いたの?」
「えっと、ニュージーランドを合わせて八日間かな」
「面白かった?はい、これレシート」
「ありがとう。日本は冬だけど、こっちは夏で、泳げてよかったよ」
「そう。これから日本へ、飛行機で何時間?」
「七時間半ですよ。ひと眠りしてるうちに着いちゃう」
「じゃ、気をつけてね。ボトルはこの袋の中だから、忘れないで」
一旦、店を出て、残った小銭でチョコでも買おうと店内に戻った飯田さん。ポケットを探ると、2、3ドル分の小銭とレシートしかありません。お釣りをもらい忘れたことに気がつきました。騒ぎ立てるほどの金額でもなく(当時のレートで1ドルが70円見当)、水掛け論になるだけと諦めて、日本に向かいました。
釣りを確かめなかったのが悪い、と諦めかけた飯田さん。でも、飛行機がオーストラリアを遠ざかるにつれ、そして、あの場のやり取りを思い出すにつけ、一杯食わされたのではないか、と悔しさが募ってきました。
何日いたか、とか、日本まで何時間か、とか、数字にまつわる話題を彼女は振ってきました。釣り銭への意識をそらそうと企んでいたのでは、というわけです。「だとすると、見事な「時そば」ですなあ。日本人が旅の緊張感をなくしている空港、という点を狙った鮮やかな手際ですよ」と、半分悔しさを滲ませつつの飯田さんのコメントに、ちょっぴり頬が緩みました。
いかがでしたか?数字がらみの話題に加え、さっとレシートを渡し、ボトルの入った袋にも注意を向けさせる手際。やっぱり「時そば」でしょうね。私だったら、いい旅の土産話ができた、と喜ぶはずです。それでは次回をお楽しみに。