大阪と京都を結ぶ鉄道は、JR、阪急、京阪の3本です。いずれも1時間足らずで着いてしまう近い都市同士ですが、気風はだいぶ異なります。商売の街・大阪に対して、千年の都の誇りを大事にしている京都、というのが、(あくまでひとつの)対比になるでしょうか。京都にまつわるこんな都市伝説があります。
京都人が言います。「ウチの家も、この前の戦争で焼けてしもうて・・・・」「えっ、京都に空襲はなかったはずですが」と問う相手に、「いや~、ウチらが戦争ゆうたら、「応仁の乱」のことどすわ」と返ってきたというもの。伝説とはいえ、スケールがデカいです。
司馬遼太郎のエッセイ「京の亡霊」(「街道をゆく 夜話」(朝日文庫)所収)では、著者の京都への思い、興味深い体験が語られています。
昭和二十年代、若い司馬は、大阪から京都へ通っていました。大阪の新聞社の京都支局に記者として勤めていたためです。担当は「宗教」です。新聞各社が社寺担当を置いているのは、唯一京都だけだといいます。「「寺マワリ」と呼ばれていて「サツマワリ」(警察担当)などとくらべると、あまり威勢のいい仕事ではない。」(同エッセイから)と自嘲気味に書いています。京都というちょっと異質な都市で、「宗教」を担当するのには、複雑な思いもあったようです。
さて、各社の担当記者のための記者クラブが、西本願寺(浄土真宗本願寺派)の社務所の一室を借りて置かれていました。こちらです。

教学部、渉外部、庶務部、文書部などの組織に、約300人のお坊さんの役人がいる宗門の中軸組織です。
そこへ「昼ごろになるとさまざまな御用商人が出入りする。そのなかで、いかにも明るくて気さくそうな青年が、いつも、「お菓子のご用はおへんか(ありませんか)とききまわっていた」(同前)とあります。
「こんなお寺相手の商売ではもうからんのと違うか」「まあ、ぼちぼち、どすな」(同前)などの他愛ないやりとりを通じて親しくなってわかったのは、昨日今日(きのうきょう)の出入りではない、ということでした。父親、祖父、曽祖父の代から「お菓子のご用はおへんか」の付き合いだった、というのです。さらに訊いてみると、なんと「三百数十年前の天正(てんしょう)年間から連綿と「お菓子のご用」を聞いてきたというのです。
その頃、石山本願寺(西本願寺のルーツ)は、現在の大阪城の位置に城廓同然の大きな寺を構え、ほぼ大阪市に当たる地域を宗教都市化し、門徒を支配していました。
一方、当時、織田信長が、天才的な外交手腕と鉄砲戦術によって、着々と天下統一を進めていました。その信長に対して、敢然と戦端を開いたのが、石山本願寺です。「戦国四百年のあいだ、諸国に大小の群雄が割拠してたがいにあらそったが、この織田と本願寺の決戦が、戦国最後の選手権試合というべきものだった」(同前)
本願寺方には、中国の毛利、播州の別所、近江の浅井、北陸の朝倉などが加担し、さすがの信長も手を焼く激戦、難戦となりました。世に言う「石山合戦」です。
その合戦で、本願寺側の兵糧方(食糧調達担当)だったのが、先ほどの青年の先祖だというのです。この菓子屋さんには「松風」という名菓があって、合戦のときの携帯食だったのが、本願寺とつながる縁になりました。
天正8年、信長は、正親町(おおぎまち)天皇を動かして、和睦となり、合戦は終戦しました。本願寺のリーダーは、顕如(けんにょ)上人で、本願寺は紀州にしりぞきました。
秀吉の時代になって、地を京都の現在地にもらって移転し、この菓子屋さんとの付き合いが今も続いている、というわけです。
「お菓子のご用はおへんか」と気楽に聞いて回っている裏には、こんな苦難を共有した歴史があったんですね。司馬の「京都という町は、これほどおそろしい町なのだ」(同前)との言葉に大いに共感を覚えました。
いかがでしたか?京の商いの奥深さの一端を感じていただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。