<旧サイトから>の第9弾になります。先の大戦で、日本が使っていた暗号が皮肉な結果をもたらしたエピソードがメインです。その前書きで触れていたドイツの暗号システムも興味深いものですので、少し書き加えました。最後までお付き合いください。
★ ★以下、本文です★ ★
時々お店でご一緒するSGさんが、ネット上のエッセイで、ドイツの「エニグマ」暗号のことを取り上げておられました。「絶対解読不可能」とナチス・ドイツが豪語した暗号で、私も関心がある分野でしたので、大いに話が盛り上がりました。まずは、そのエピソードです。
戦争終盤、イギリスは、科学者、数学者などを動員して、この暗号の解読に全力で取り組みます。1台の暗号機が入手でき、作業が本格化しました。タイプライター機能を持ったこのような装置です。
とはいえ、人手で文字の組み合わせを試行錯誤して解読するには限界があります。それを機械にやらせるため、世界最初のコンピュータ「コロッサス」を開発し、現代に通じるコンピュータ理論を確立したのがイギリスの天才数学者アラン・チューリングです。見事に解読に成功し、その事実は、同盟国にも厳秘としたものの、戦況の好転に大きく貢献しました。戦後の一時期、イギリスは植民地の出先機関との連絡用に使っていたといいますから、ちゃっかりしています。
なお、「暗号解読」(サイモン・シン 新潮文庫(上・下))という本があります。暗号の歴史からエニグマの解読まで、詳しく、分かりすく書かれています。興味のある方にはオススメです。
さて、本題である日本の暗号を巡るエピソードです。ネタ元は、「二十世紀と格闘した先人たち」(寺島実郎 新潮文庫)で、主人公は、先の大戦中、駐独大使を務めた「大島浩」です。
彼は陸軍の軍人です。父親が、ドイツに留学し、プロシア陸軍に学んだ影響で、幼少時から、ドイツの歴史、風土、文化に親しみ、ドイツ語の能力も、抜きん出ていました。生まれた時から、バリバリの親独派というわけです。
1934年に駐在武官として、ベルリンに赴任、一旦帰国し、日独伊三国同盟締結のための政界工作に奔走するなど、政治力も持ち合わせていました。そして、1940年12月に、駐独大使として赴任し、「終戦」まで、日独関係の中心人物であり続けました。
筋金入りのドイツ信奉者にして、ナチスの共感者でもあり、ヒットラーを含めた幹部と親交を深めていました。特に、親交を深めていたのが、ナチスの外交部長とも言われたリッペントロップです。ヒットラーの側近中の側近と言われた人物ですから、彼を通じて、大島は、ヒットラーの心の内、戦争計画を存分に知ることができました。
そのコネクションで得た情報を、生真面目な大島は、せっせと日本の外務省に打電します。その時使った暗号は、外務省が1938年から導入していた最新の暗号で、米軍が「パープル暗号」と呼ぶことになるものでした。(米軍では、日本の暗号の解読が進んでおり、日本が開発した順に色の名前を付けていました。この暗号が、日本で、俗に「紫暗号」と呼ばれるのは、「パープル」というコードネームに由来します)
この暗号の解読には、米軍もだいぶ手こずったようですが、実は、40年の秋に、暗号機の複製に成功していたのです。
赴任の3ヶ月前に、暗号が解読されていたのが不運といえば不運。そんなこととは露しらぬ大島がせっせと送った電報で、ドイツ側の情報が、筒抜けになっていたわけです。前書きでご紹介の通り「エニグマ暗号」の解読には、連合国側もほとほと手を焼いていましたから、どれほど有難かったことでしょう。
米国は、大島が打電した電報を「マジック電報」と名付け、特別に管理します。その数は、米国側の記録で、41年に75通、42年に100通、43年が400通、44年が600通、45年の5ヶ月で300通とされています。
ヒットラーのソ連侵攻、フランスに展開したドイツ軍の装備に関する情報などヨーロッパ戦線に関する情報が、とりわけ重視され、連合国側の戦況判断、作戦展開に極めて有利に働くことになりました。
日本の勝利を信じ、日本のため、ひたすらドイツ側の情報収集に奔走した大島。しかし、暗号が解読されていたため、とんだ「ピエロ」役を演じる結果になったのは、歴史の皮肉としか言いようがありません。大島は、東京裁判の被告として、1948年に終身禁錮の判決を受け、55年に保釈、75年に89歳で亡くなっています。どんな思いで、日本の戦後を見つめていたのでしょうか。
いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。