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第426回 「アトス」という異界

2021-06-18 | エッセイ

 世界には、国情、アクセス、治安などいろんな条件で、訪問・入国が困難な国や地域がいろいろあります。そんな中で、極めて平穏でありながら入国のハードルが突出して高い国としてギリシャの「アトス国」が最有力候補だというのを最近知りました。

 きっかけは、立花隆の「エーゲ 永遠回帰の海」(ちくま文庫)を読んだことです。著者が42歳の時に、カメラマン同行で40日をかけてギリシャ、トルコを巡った旅と思索の記録で、アトス国の訪問に割かれた章が強く印象に残りました。同書によりながら、そのユニークさ、異界ぶりをご紹介します。

 どこにあるかといいますと、ギリシャのだいぶ北方に位置します。幅は8~12km、長さは40kmほどのエーゲ海に突き出た半島のほぼ全域です(文末に地図を載せています)。

 このエリアは、約600年にわたる歴史的な経緯から、世界で唯一の「修道院自治共和国」で、完全自治がギリシャ憲法で保証されています。20の修道院(ギリシャ正教19、ロシア正教1)が点在し、かつては4万人の修道士がいました。現在は1000人を少し超えるほどとのことです。
 日常の行政事務は各修道院から1名ずつ派遣された修道士(任期1年)が、中央政庁で行います。ギリシャ政府の代表部事務所があり、係官は外務省からの派遣です。
 まさに「ギリシャであって、ギリシャでない」(同書から)という不思議な「国」です。
 こちらは、孤高な佇まいのシモノス・ペトラ修道院です(同書から)。

 そんなアトスへのアクセスがまずは大変です。ギリシャ北部の中核都市テサロニケから半島の付け根のウラノポリスまでバスで4時間半。そして、そこからは1日2便の小さな船(定員30~40人程度)しか交通手段はありません。海岸ベリにある修道院の船着き場に寄りながら、半島の中ほどにある港まで、2時間の船旅です。
 港から唯一の交通手段であるオンボロバスで、これまた唯一の町であるカリエまで約1時間。そこで「入国手続き」をしなければなりません。人口は300人で、中央政庁とギリシャ代表部のほかは、数軒の雑貨屋が広場を囲んでいるこんなところです(同書から)。

 とまあ、アプローチだけでもハードルが高いです。でも、もっと高いハードルがあります。国全体が修行の聖地であり、完全自治が認められていますから、観光気分でふらりと立ち寄ることはできません。
 異教徒で外国人の場合、まず、自国の大使館から、この人物はアトスに「入国」するにふさわしい人物である旨の推薦状を得る必要があります。その上で、ギリシャの外務省で入国滞在許可証を取得します(約1ヶ月かかります)。
 これでとりあえず「入国」まではできます。その上で、さきほどのカリエで中央政庁へ出頭して、入国滞在許可証をもらわなければ「移動」はできません。

 手続きだけでもこんな具合なのに加えて、アトス独自のきまりがいろいろあります。まず、女人禁制です。メスの動物も一切禁止です。ただし、猫だけはOKなんだそう。厳しい修行に励む修道士の皆さんの無聊を慰めるペットとして、黙認されているらしいのです。
 訪問者は歌ったり、踊ったり、水に潜ったりしてはいけません。肉食も禁止です。相手の許可なしに修道士の写真を撮ることもダメです。

 そんなハードルを乗り越え、一連の手続きも終え、禁止ルールも頭に入れて、著者とカメラマンに許された3泊4日の「巡礼」が始りました。

 宿泊施設は、修道院しかなく、移動手段は徒歩しかありません。食事も宿泊も無料です。ただし、ひとつの修道院に滞在出来るのは24時間までです。そして、修道院の門は日の出とともに開かれ、日没とともに閉じられます。日没までにたどり着けなければ、野宿するしかありません。

 それで思い出しました。村上春樹も若い頃、アトスを訪問した時のことを紀行エッセイ「雨天炎天」(新潮社のち新潮文庫)に書いていたのです。毎日が日没との戦いで、ドキドキ、ヒヤヒヤ、(そしてワクワク)しながら読んだのを覚えています。

 今はガイドブックがあって、修道院の所在地、相互の距離などが分かるようになっています。初日の手続きを終えて、昼食を終えた二人は、「最初の目的地は、1~2時間で行けるところにするのが無難だろうと思って(中略)とりあえず、7.5kmばかり離れた、北東の海岸にあるパントクラトルス修道院を最初の目的地に選んで歩き出した」(同書から)とあるのが、いかにも、です。
 日々の詳しい行程の記述はありませんが、聖地の効果でしょうか、のんびり、ゆったりと「巡礼」を楽しみ、野宿もせずに済んだようです。

 さて、最後に、どうしても当地を訪れたい人のための耳寄りな情報を同書からお伝えします。
 海上からアトスを見学出来る観光船があるんですね。ただし、修道士さんたちの心を乱してはいけませんから、海岸からだいぶ離れたところを航行します。その上で、女性は、手足や肩の肌を大きく露出するような服装は許されません(修道院からは見えないはずなんですけど)。厳格なルールを決めてではありますが、聖地と観光を両立させるギリシャ政府もなかなかの商売人ですね。

 上部の赤く塗られた小さな半島部分がアトス国です。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。