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第361回 こんな「あの世」観

2020-03-13 | エッセイ

 亡くなった人の「冥福」を祈るって、「冥(あの世)」での「福(幸せ)」を願うということで間違いはありません。
 でも、この言葉の裏には、単なる死生観を越えて、世界観にまでつながるほどの奥深い世界があるというのを「お言葉ですが・・・別巻1」(高島俊男 連合出版)の中の「「冥福」ってなあに?」の項で知りました。

 著者は中国語、中国文学の専門家です。漢字に限らず言葉全般について、深い学識に裏打ちされた軽妙なエッセイを数多く世に出しています。中でも、この「お言葉ですが」シリーズは十数巻の既刊を重ね、私もファンの一人です。

 さて、同書によれば、古代中国人は、死ねばあの世(「冥」)へ行くと信じていました。宗教的信仰ではなく、民族全体の考え方、つまり、風習のようなものです。な~んだ、と思わないでください。「あの世」のイメージがなかなかユニークなのです。

「「あの世」とはどんなようすかというに、この世と大差はない。この世で死んだ時とおなじ顔かたちをしており、飯も食うしカネも要る。もちろん貴賤貧富も大いにある。」(同書から)

 そんな「あの世」で、食うに困らず、大きな家に住み、召使いをたくさん使って(この辺りが古代中国的ですが)暮らすのが、共通認識としての幸せ(「福」)なのですが、そのためには。「この世」からの応援が是非とも必要だというのです。

 ですから、さしあたり必要なもの、庶民のレベルなら、おカネが大事ですから、紙銭と呼ばれる作り物の紙幣をお墓の前で燃やします。こちらは、現代中国の紙銭です。結構ハデですね。

 また、お墓や仏壇に供えるというような形で、食べ物もずっと送り続けるなければなりません。
 日本でも、ご先祖様のために花や食べ物をごく当たり前のように供えますが、本来、仏教に先祖を祀る、まして、花や食べ物を供えるという考えはありません。
 中国的「あの世」観と仏教がゴッチャになって、日本に入って来たから、という著者の説明に、なるほどと納得します。

 「あの世」のために、とてつもないものを準備させた代表選手が、秦の始皇帝です。何千体もの兵馬俑が発掘されていますが、全容は解明されていません。また、未発掘の陵墓には壮大な地下宮殿があるともされています。あの世でも、豪華な宮殿に住み、軍勢を駆って、中国全土(当時の全世界)を支配し続ける・・・始皇帝にとっては夢でも何でもなく、ごく現実的で必要なことだったのでしょう。

 さて、このような「あの世」観から出てくるのが、ご先祖様への「孝」を重視する思想です。食べ物などを送り続ける「孝行」を怠ると、ご先祖様が餓えて、餓鬼(あの世へ行った人間は呼び名が「鬼(き)」に変わります)になってしまいますので。

 で、子孫から見た時、ご先祖様をどの範囲までとするか、という問題(?)があります。
 自分自身の一番近い先祖(というのも変ですが)は、両親です。その両親にもそれぞれ両親がいるわけで、どんどん枝分かれして行きます。10代前の先祖は、その代だけで1024人、9代前までの先祖を加えると2000人以上になります。

 とてもそこまでは面倒見切れない、ということなのでしょう。実に中国的に割り切るのです。
 先祖を、自分の父、その父、そのまた父という具合に、上への男子一直線だけを先祖にすることにしました。ですから女性は立つ瀬がありません。「あの世」へ行っても、子孫たちは「孝」を尽くしてくれませんから。男尊女卑の極みのような思想、仕組みです。

 日本でも、その影響と言えるのかどうか、例えば、家を継ぐのは男子が基本などという男性優位の風潮はまだまだ根強いですし、女性天皇の是非など皇位継承問題にもいろんな形で影を落としています。

 でも、幸いなことに、日本では「孝」の対象がもっぱら「この世」の両親、祖父母、そして今時は、曾祖父母(結婚している場合はそれぞれ両家の)というのが定着しています。尽くしかたに程度の差はあれ、これだけは、中国直輸入でなくて良かったです。子や孫からの「孝」を期待する年齢、立場になって、その有り難さが身にしみます。

 中国的「あの世」観からスタートした「孝」の思想とその対象、そしてそれが、今の日本人の根っこに残している影と、日本的に変容して良かった部分・・・「冥福」という言葉を手がかりに、いろんなことを考えさせられる含蓄に富んだ一文との出会いでした。

 いかがでしたか?それでは次回をお楽しみに。