A PIECE OF FUTURE

美術・展覧会紹介、雑感などなど。未来のカケラを忘れないために書き記します。

付箋3

2005-11-08 22:33:24 | 美術
 三島由紀夫の『金閣寺』を最近読んだ。
この本は青春小説でもなく、まして犯罪小説でもなく、美をめぐるモノローグとして読むことができる希有な小説なのだ。
その中の一節より。

僧の主人公が金閣寺の庫裡の裏の畑で作業中、小輪の黄いろい夏菊の花を見つけるのだ。
その花に蜂が舞っている。この菊の花は金閣のように美しく完全だが、
決して金閣に変わることなく、
夏菊の花の一輪にとどまっている、と主人公は思う。

「そうだ、それは確乎たる菊、一個の菊、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、こうして対象としての形態に身をひそめて息づいていることは、何という神秘だろう!

形態は徐々に稀薄になり、破られそうになり、おののき震えている。それもその筈、菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたものであり、その美しさ自体が、予感に向かって花ひらいたものなのだから、今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。」(三島由紀夫『金閣寺』、新潮社(新潮文庫)、1956年、pp.200-201)

最後の下りは菊と蜂をめぐる「描写」というより、芸術論としても読めるのだ。
ここで、例えば菊が「彫刻」だとしたら。
菊でなくとも、「かたち」あるものが「生」の鋳型であり、生きとし生きる生物の「生」が形態の鋳型だとしたら。
予感を秘めた「かたち」。
生とかたちは互いに求めあう。