相川の水金町。金山華やかなりし頃は遊郭として賑わった町である。かつては入り口に吉原風に大門が建ち、十軒ほどの遊女屋が並んでいた。半円形の石橋が往時の面影を偲ばせる。
この水金町の、かつての遊女屋「玉屋」跡に、その名も「たまや」という民宿があった。佐渡観光の絶頂期の平成2年に開業した。縛られるのが嫌な店主は民宿連盟に加入せず、料金はやや高めながらも、料理などで独自性を打ち出していた。
旅行業者に頼らず、口こみや知人らの紹介を中心に営業活動を展開し、他の旅館が苦戦するなか、お客がお客を呼ぶ形で、人気を集めてきた。
筆者は、10数年前に、この民宿に宿泊した思い出がある。客を大事にする店主であった。毎年年賀状などを頂いていたが、いつの頃からか、ぱたっと年賀状が来なくなった。先月のとある日、久しぶりに相川の海岸沿いをドライブしていたら、左手に、当時そのままの黄色い「たまや」の看板を発見した。懐かしさのあまり、「たまや」さんを訪ねてみた。白っぽい外壁に立派な「たまや」の看板が往時を偲ばせるものの、営業はしていない様子でした。中には自転車などが置かれ、どこかのお宅の物置のような感じでした。
たまたま通りがかった老婆に、「たまやさんは営業していますか?」と問いかけると。「あんた、どこから来たのんやあー」。「横浜です」、「そおかあー、今は何もやっとらん、民宿もやっとらん、皆な死んでしもて」と寂しげに答えた。
栄枯盛衰、佐渡観光の歴史そのものを見る思いがしました。
この水金町の、かつての遊女屋「玉屋」跡に、その名も「たまや」という民宿があった。佐渡観光の絶頂期の平成2年に開業した。縛られるのが嫌な店主は民宿連盟に加入せず、料金はやや高めながらも、料理などで独自性を打ち出していた。
旅行業者に頼らず、口こみや知人らの紹介を中心に営業活動を展開し、他の旅館が苦戦するなか、お客がお客を呼ぶ形で、人気を集めてきた。
筆者は、10数年前に、この民宿に宿泊した思い出がある。客を大事にする店主であった。毎年年賀状などを頂いていたが、いつの頃からか、ぱたっと年賀状が来なくなった。先月のとある日、久しぶりに相川の海岸沿いをドライブしていたら、左手に、当時そのままの黄色い「たまや」の看板を発見した。懐かしさのあまり、「たまや」さんを訪ねてみた。白っぽい外壁に立派な「たまや」の看板が往時を偲ばせるものの、営業はしていない様子でした。中には自転車などが置かれ、どこかのお宅の物置のような感じでした。
たまたま通りがかった老婆に、「たまやさんは営業していますか?」と問いかけると。「あんた、どこから来たのんやあー」。「横浜です」、「そおかあー、今は何もやっとらん、民宿もやっとらん、皆な死んでしもて」と寂しげに答えた。
栄枯盛衰、佐渡観光の歴史そのものを見る思いがしました。
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