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オセンタルカの太陽帝国

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蛭ヶ小島について。

2006年10月20日 22時50分08秒 |   源頼朝

 
この地図、見づらいのでまた大きく描き直したい。「蛭島通り」はもっと南を走っていてもいいな。

最近、暇を見つけて図書館に通うのが日課になってしまいました。
一日おきぐらいに図書館に行っています。市町村合併のおかげでわが伊豆の国市には3つの図書館が揃うことになりまして、そのそれぞれが微妙に異なる蔵書を持っている事が嬉しい。しかし同時に悩ましい。
これまでわたくしは、非常な「図書館嫌い」でした。なぜかというと、「欲しいと思った物は全て自分の物にしないと満足できない性格」だからです。そして「借りた物を返すのが嫌い」(オイオイ)です。さらに、「物に溢れた生活」を身上とするため、私の部屋には読み切れないほどの本でいっぱいなのです。とうてい図書館などには余力を回し切れなかったのでした。
ところが、そんな私の生活は「図書館の楽しみ」を知る事によってやっぱり変わってしまった。まったく罪作りな存在です、図書館ってヤツは。

3つの図書館が近隣に揃ったとはいえ、この付近で一番充実しているのは修善寺図書館。私の住む伊豆の国市と修善寺町を擁する伊豆市が(名前もまぎらわしいですしね)この際合併してはくれないかと、密かに願っているところです。

ということで、伊豆の歴史と伝説についてもかなり詳しくなってしまいました。このブログに書く伊豆ネタにはあと3年は困らないというほどの勢いでございます。分かってはいましたが、伊豆とはなんと小さな驚きに満ち溢れた土地であるのでございましょう! もっともそれらはここに見て明らかなように、ほんとにささいなことがらばかりなのですが、伊豆ではそういうことこそ楽しい。で、このブログを書き始めてはや半年になりますが、ネタは大量にあるのに生来の怠け癖のせいか、書きたい事を書き尽くしているという気がちっともしないのです。早めに登場してしかるべき歴史上の人々が、まだちっとも登場する機会を得ていない。ちょっと列挙してみましょう。聖徳太子、役小角、行基、弘法大師、円仁、伴善男、エロい仁寛、鎮西八郎為朝、北条時政、北条泰時、北条時頼、田代冠者信綱、天野藤内遠景、伊東祐親、狩野茂光、曾我兄弟、六代、源範頼、源頼家、源実朝、日蓮、足利直義、上杉憲実、上杉禅定、太田道灌、鈴木さん、清水康英、お万の方、ウィリアム・アダムズ、大久保長安、江川太郎左衛門、高野長英、ジョン万次郎、川路聖謨、ペリー、プチャーチン、ハリス、ヒュースケン、唐人お吉、吉田松陰、伊豆の長八、下田の勝平、小沢雅楽助、橘耕斎、猛犬赤、愛親覚羅慧生、大井上康、などなどなど。このそれぞれの人について、最近の図書館通いのおかけで今すぐ3万文字くらいは書けそうなぐらいの資料は揃っています。(しないけどね)。伊豆初心者の方々にもわかりやすいように、伊豆人名索引・わかりやすいイラスト入りの小解説の一覧を目立つ所に作って飾ろうかとも思いましたけど、、、、 別に私は歴史ガイドブックを作りたいわけじゃないので、やめた。(あくまでこの日記の目的は、単なる私の備忘録です)

さて、そろそろ本題に入ろう。
前に、頼朝の流された「蛭ヶ小島」について、伊豆が「流され人の土地」ということを考えて、この「蛭」とは黒いヌメヌメした「ヒル」でも美味しい野草の「野蒜」でもなく、古事記で骨が無かったために海に流された「ヒルコ(蛭児)」のことじゃないかと述べました。頼朝が深く信仰した三島大社の祭神である三島大明神の正体がエビスさまでして、そのエビスさまのさらなる正体はアマテラスオオミカミ&スサノオの兄弟であるヒルコだという説があるからです。三島のうなぎも伊豆の大蛇もみんなその長いヒルコの化身なのに違いない。その考えは私がふと適当に思いついた物で、われながら「いいアイデアじゃん」とひとりで悦に入っていたのですが、図書館で色々本を読んでいるうちに、ほぼ同じ事を大昔に言っていた人がすでにあることを知りました。そりゃそうだよねぇ、私みたいな人間の考える事なんか、当然誰でも簡単に考えつくものなんだ。っていうか、「蛭ヶ小島」=「ヒルコ」の関連性なんて、得意になるまでもない安易でくだらない発想だ。
で、問題なのはそれが書いてあった本なのですが、それは天保年間に秋山富南翁が記した『豆州志稿』なのでした。なななんてこったい。基本中の基本の文献じゃないか。きっと、私がかなり前に読んだ文章の一部が、知らずのうちに頭に引っ掛かっていたに違いありません。
せっかくなので、豆州志稿を引用してみましょう。(原文はかなの部分がカタカナ)

「蛭が児島と称す。昔は草奔にして草蛭特に多きに因て名づけし証あり。水の抱ける地なるを以て島と名づく。旧記云、大蛭小蛭和田島の三島あり。頼朝初め大蛭島に住せしに、蛭多しとて奉行にわびて小蛭島に移り、又平兼隆にわびて和田島に居て耕作す。
今その畠をほむ山畠と云と。大蛭小蛭今畠となる。其内御殿と称する処に小塚を築きて標せしに、それも既に平らげたり。頃年此地に蛭島の碑を建つ。一説に云、此処は上古より流人を放つ処故蛭児を天磐樟船に載せて流しやりし故事に因て名付くと、憶説なり」

ついでに、『伊豆志』の記述も。(これも富南翁の文章です)

「韮山城山の麓西林下南四五町の処なり。今は田の中に笹藪の塚。兵衛佐配所の旧跡也。蛭子の神は日本流人の始なり、故に上古伊豆国に流人を置かるるの始め、蛭子島と名付けしを、後人蛭が島と言誤る」

頼朝が住んでいた蛭ヶ小島は長い年月の間に所在不明となっていて、その後現在の蛭ヶ小島の場所を確定したのは江戸時代後期の富南翁なので、思えば罪作りな人です。こんな、どうとでも取れる文章を書くなー。大蛭島ってどこじゃ。小蛭島に移るのを許した奉行って誰じゃ。ほむ山畠?

さてさてさて。
図書館通いをしていて見つけた逸品があります。
それが静岡県田方地区文化財保護審議委員等連絡協議会が編纂した『伊豆と頼朝~史蹟と伝説~』という書籍でして、これは見るからに、当地の教育関係者の方々が長年突き固めてきた持説を持ち寄ってまとめたような体裁になっているのです。或る程度歴史ファンを努めていますと通説と事実の間に乖離を認めざるを得ないのでありまして、それはその土地に長く暮らすとなおさらなのですね。伊豆北部に住んでたった3年のわたくしですら、すでにこんなに叩き売りできるくらいの持論を持てているのですから、齢重ねた余人の偉兄には量るべくもありませぬ。
この本は本当に驚くべき内容を持っています。というのは、私が“通説”に対して思う疑問(つまりこのブログに書いてあるようなこと)はすべて地元の有識者が昔から当然に感じている事で、それに対しての解答もすでに豊富な資料をもって解き明かされているということを簡潔に示しているからです。こんな痒い所に手が届く作りの資料は、見た事がありません。実を言うと上記の『豆州志稿』及び『伊豆志』の原文とそれについての解釈は、全部この本から抜き書きしたものです。ともかく私がこのブログで長々と書くつもりの内容は、すでにこの本で取り上げられ明快に述べられておりますので、この本を右手に置いておけば、すべて事が足ります。

・・・・・と言いたいんですが、こういう本こそ入手方法がさっぱりわかんないんですよなぁ。
これどこで買えますか?
買えないんですか? 教育関係者の中だけで配られたものなのでしょうか。一切が不明です。これだけで私も教育公務員に対する糾弾の声を強くしたいほどです。知識をひとりじめするなー! そして、地元資料なのに、韮山・大仁・伊豆長岡・修善寺の各図書館の中で一番地味な伊豆長岡にだけ置いてあります。むむむ。恐らく、歴史の真の追求は、丹念な各地の図書館の踏破と棚の閲覧で事が足りるんですよねぇ。見知らぬ図書館には見知らぬ宝が山のように眠っているに違いない。実はそれがなかなか大変なんですけど。図書館には行かぬ方が無難なのです。

というわけで、これを読んでしまった以上、この本の中で挙げられている豊富な伊豆の歴史史蹟を紹介すると同時に、さらなる踏み込んだつっこみをせざるを得ない、という困った状況になってしまいました。難儀な事だ。

さてさてさて。
この本には伊豆の蛭ヶ小島についても私が知らなかった事がいろいろ書いてあったのですが、しかしながらそれを読んでもなお、不思議に思う事がありました。そうです、これこそ歴史探究の醍醐味! 世の頭のいい大人たちの作り上げた通説って、いくらでもケチがつけられるものなのです。
イヤにならずに、聞いて下さいね。

吾妻鏡の山木攻めのくだりを良く読むと、変な事が書いてあります。
それは、頼朝が身を寄せていた北条郷の北条屋敷から山木判官が住んでいた山木郷に攻め寄せるには、ルートが2つあるということ。ひとつは「最短ルートだが騎馬で行くのが不可能な“蛭が小路”」と、「大回りだが騎馬での行軍が可能な“牛鍬大路”」。山木攻めの頼朝軍の精鋭は大事をとって牛鍬大路を通っていく事になるのですが、でも、これ、良く考えるとどういうこと? 私は以前、これを川の中の浅瀬を突っ切っていく「蛭島融り」と乾いた岸を選んで通る「牛鍬大路」(昔の下田街道?)は垂直に交わっていると考え、地図を書きました。でもこれは、良く考えるとおかしいですよね。吾妻鏡では「北条から山木に行く道」を書いてあるのですから、当然北条と山木の間を流れていたであろう渡河方法を述べたルートでないとおかしいからです。事実、上記『伊豆の頼朝』では、「茨木(原木)の付近に牛鍬という郷があって、その付近の渡河点を牛鍬大路と呼ぶ」という風に書いてあります。そそそそうだったのか。しかしながら、その様子はちっとも脳裏にイメージとしてわいて来ません。蛭島融としても牛鍬大路としても、当時の狩野川は現在と較べて(狩野川放水路が無いのだから)遥かに水量が多く流れも縦横無尽だったはず。いくら浅瀬とはいえ東西に横断できる、しかし橋ではない渡河点なんて有り得たのかしら。おまけに、牛鍬の方は「大路」なんて呼ばれているのです。そんな地形がありえます?

思わず“蛭ヶ融り”については、指輪物語の映画のゴクリが案内する「知る人だけが知ってる」死者の沼地のような光景がイメージとして頭に浮かんでしまいました。

 

中世の浮島ヶ原に限らず、中世の伊豆の各地の湿地帯ってどうなっていたんでしょうね。すすすす。いとしいしと。
そして問題は、いくら“馬では通れぬ”とはいえ、たったふたつの渡河点ぞいに幽閉された頼朝の「蛭ヶ小島」の、流刑の地としての位置づけはどうなるのか、ということです。
狩野川に2つしかない重要な場所だという事は、蛭ヶ小島という場所は交通の要衝だということになるじゃないですか。そして、いくら交通の要衝だとはいえ、現在の蛭ヶ小島の場所か本当の蛭ヶ小島だとしたら、北条屋敷とは狩野川の大河を挟んだ異郷だということで、より近い山木(韮山)とそこむ住む伊豆目代・山木兼隆との関係を、もう一度真剣に考え直さないといけないじゃないですか。


伊豆長岡の源氏山から見る韮山の町。伊豆ではどこでも見られるこのような「箱庭」のような地形と光景に私は無上に惹かれているのですが、中世にはここは全部水浸しだったんですねぇ。


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