源頼朝が最も信頼していた弟である阿野全成のお墓は、沼津市の西の方にあります。
士詠山大泉寺。曹洞宗。北条早雲の興国寺城のほんのすこし西にあります。
ここは愛鷹山の麓で、富士市と沼津市の境付近にあり、正確に言うともう伊豆ではないのですが、まあいいです。
現在の、国道1号・旧東海道に平行して北側を東西に走る根方街道沿いにあります。
阿野全成は荒武者として有名で、頼朝が鎌倉に居を構えた直後に、鎌倉の押さえとなることを期待して、頼朝は全成を多摩丘陵にある威光寺(現在は妙楽寺)の住職としました。また、時期がいずれか判らないのですが、(たぶん鎌倉造営の盛んな時期か)、沼津のこの地域を領地として与えたのです。この地を“阿野庄”といったので、全成は阿野全成と名乗るようになりました。
寺の入り口に建っている石碑に、「義経之兄開基」と彫られているのが泣ける。そりゃー阿野全成って言っても知ってる人は少ないのかも知れないけど、いくらなんでも義経は伊豆とは全然関係のない人じゃないですか。せめて、「頼朝之弟」が権威あっていいかと・・・・(同じか)
◎阿野全成(あのぜんじょう、ぜんせい)
仁平3年(1153)~建仁3年(1203)6.23
父は源義朝、母は常磐御前。幼名・今若丸。源義経の6歳違いの実兄。
(異母兄弟の範頼とは同年の生まれ。どっちが兄だろう? さがみさんは「全成が弟」としてますが、そもそも両方とも生年推定は?付きなんですね)
6歳の時、父が平治の乱で死んだ後、平清盛の温情で助命され、醍醐寺に入れられて出家させられた。この頃から暴れ者で“悪禅師”と呼ばれた。
頼朝が伊豆で旗揚げをすると、全成は京を抜け出して伊豆に走る。全成は僧形のままで頼朝に面会を求め、頼朝は涙を流して喜んだという。(黄瀬川での義経の対面と、どちらが先なのだろうか)
頼朝により全成は武蔵国長尾寺(=現在の妙楽寺)と駿河国阿野庄を与えられ、北条時政の娘の阿波の方と結婚。妻の阿波の方は頼朝の息子の実朝の乳母となったが、頼朝が死去すると、北条一族と親しかったがために次の将軍・頼家によって標的とされ、頼朝の死の4年後に、頼家によって放たれた武田信光によって捕縛され、常陸に配流。一月後に下野国で処刑された。
全成には4人の息子があったが、嫡子は4男の時元だった。兄の頼全は父の処刑後に京で斬られたが、時元は政子のとりなしでなんとか助命され、以後阿野庄で逼塞した生活を送る。父の死後16年後に将軍実朝が死んで頼朝の血筋が絶えると、時元は次の将軍位を要求して阿野庄で挙兵。しかし兵が集まらず、あっという間に討ち取られた。この出来事は北条義時の策謀によるものという見方もある。
しかし、阿野家の血筋は以後も続き、後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子は時元の子孫であるという。
全成のことについては、私はまだ何も調べていないので詳しい事を知らないのですが、文を読んでいて不思議に思うのは、「頼朝は本当に全成を信頼していたのか?」ということです。特に、「力自慢だった」「多摩丘陵に全成を置いて鎌倉の守護とした」とされている全成が、結局源平の戦いに一度も出撃しなかったのはどうしてなんだろう。力自慢と戦の上手下手は関係ないのかも知れませんが、兄の力になる為に鎌倉まで来たのに、結局一ヵ所に縛り付けられて悶々としている全成の姿が思い浮かんできてしまいます。結城秀康の嘆きと似たものであるような。
一方で、彼が与えられた阿野庄は要害の地です。北条家の都である伊豆の入り口でありますし、後年、富士下方十二郡を与えられた北条早雲がわざわざ富士の町から遥かに離れたこの地(興国寺)に城を築いて伊豆堀越御所(韮山)の攻略の足がかりとしたように、この地に立ってみるとついつい戦略的な意味を考えてしまいます。早雲はここから伊豆を攻めて成功し、阿野時元はここから鎌倉を攻めようとして失敗しました。
ま、でもここは、昔も今もかなりな田舎なのですが、でも改めて全成が与えられた領土(井出、今沢、東原、~浮島)の線を引いてみると、全成の領土は意外にも広いよ。
これは、源頼朝が弟に寄せた信頼が、ここに現れていると言ってもいいでしょうか。
≪阿野庄≫
ま、この地図を見て「狭いじゃん」と思う人も多いだろうし、領土を貰えなかった源義経は別にして、源範頼は三河一国を与えられているわけですが、でも、この阿野庄は沼津大岡の牧氏の領地と隣接しているし、北条一族との結びつきの深さを伺わせます。
この阿野庄の位置づけは、江戸時代の御三家の尾張藩に相当するのかな。
≪伝・全成と時元の墓≫
このお墓のある士詠山大泉寺は、駿豆横道三十三観音霊場のひとつで、昔から巡礼がたくさん訪れるお寺らしいです。境内の雰囲気からは、なかなかこのお寺が裕福であるらしい様子が感じられます。
もともと、このお寺は「阿野全成が開基」とされているのですが、その由来には二通りあるようです。ひとつは、「全成が頼朝から領地を賜ったとき、広大な屋敷の一角に先祖の霊を祀る持仏堂をつくった」、もうひとつは、「阿野全成が下野で八田知家に斬られた時、その首ははね上がって沼津を目指して飛んだ。その首が阿野の屋敷の中にあった松の木にひっかかったので、息子時元がそれを弔う寺を建てた」というものです。
しかし、境内を見回すと、なんだか異様な雰囲気。
なんだか、観客を喜ばせようとするサービス精神に溢れているようなところに、なんとなく韮山の願成就院と同じものを感じます。
金色の釈迦如来に、誕生佛に、すこやか小僧に、仏足石まで!
ありがたすぎて涙が出てきます。
しかし境内には無闇に蚊が多くて、仕方なく殺生を繰り返さなければならぬ自分の身がとても情けなく感じました。
しかしながら、あまり前調べをせずに出掛けた為、寺に隣接する保育園の敷地内に「阿野全成の首が掛かった松」の切り株のあとと、それから道路沿いに、頑丈な阿野屋敷の防備状態を示す頑丈な土塁の痕があるというのですが、それを見そびれてきてしまいました。残念。また行こう。
ところで、阿野全成をイメージ検索すると、僧兵姿で暴れている彼の姿が出てくるんですが、多摩丘陵の寺の住職に封ぜられたことと考え合わせると、彼は頼朝の元に参戦した後も、還俗しなかったのかな。
阿野全成とその妻・保子を主題とした小説作品に、永井路子の『炎環』という作品があるのですが、私はまだ手に入れそびれています。
えっ!? ええええええーーっ!?
阿野全成の妻が公暁に殺された源実朝の乳母であり、公暁は全成の義兄である義時を憎んで事を起こしたはずなので、すごく意外なおはなしです。ウィキペディアには「公暁の墓は伝説も含め存在しない」と書いてありますので、なんで?と思っていたのですが、北条義時が首実検をした行きがかり上、供養を高名な聖職者の義弟に頼んだんでしょうかね。そのあたりの過程を夢想するとウズウズしてきてしまう。でも、、、 全成の実朝に対する可愛がりぶりも眩想できるので、、、 ちょっとツライかもですね。なんてことだろう、なんてことだろう。そんなドラマがあったことを考えますと、ますますこのお寺の表口にある「義経之兄開基」の文字が恨めしく思えてきます。
>昔の住職(現在のご住職の先祖ではない)が寺宝だなんだを売り飛ばしてしまったらしく
なんてこったい。でも「売った」ってことは「買った」人もいるわけで、「戦災で焼け落ちた」よりは救いようがあるということですよね。いつかそれが世のおもてに出てくるといいなー、と前向きに考えてもいいわけですよね。(前向きに)。なんて貴重なご情報でしょう。空蝉さん、ありがとうございます。「ご住職が講座で」って、そんな機会に触れられるということはなんて羨ましい~。ご付近の方でしょうか。住職の代替わりも激しいんですね。あんなに隆盛している様子のお寺でしたのに。今のお寺のありがたくきらびやかな様子は新しいご住職の努力の結果なんですね。
「位牌」の風習は平凡社の『世界大百科』では「禅僧が中国から持ち帰った」と書いてあって、だとすると北条義時の時代から2世代ぐらい下るわけですが、その間隙の記録と伝説が失われているのがすごく残念ですね。公暁と阿野時元の間にはなにがあったのでしょうか~。阿野時元の父・阿野全成は公暁の父・源頼家の策謀によって死に、その頼家は全成の義兄弟の北条政子&義時によって殺され、全成の保護児の源実朝は公暁によって暗殺される。公暁の行動の影には誰の策謀があったのかいまだ分かっていない。北条家の野望のえじきになろうとしている阿野家の時元と源家の公暁(&三浦家と北条家)の間に何かの共謀があったとすると…。 …もうわけが分かりません。
全成を検索してて、こちらに辿り着きました。
公暁のお墓の場所は知りませんが、位牌は、なぜか大泉寺にあるそうです。(ちなみに、全成、時元以外、妻子や兄弟の位牌はないそうです)
以前、講座でご住職がおっしゃってました。
昔の住職(現在のご住職の先祖ではない)が寺宝だなんだを売り飛ばしてしまったらしく、過去の記録がないんだそうです。
公暁と時元に何らかの繋がりがあり、公暁の死を知って位牌を作った、というのは、想像の域でしかないですが、時間的に可能です。
なるほどーと感嘆することしきりです。政子はきっと近くの場所で眠る事を強く望んだんでしょうねぇ。(頼朝は浮気者だから)
でも、
>当時高位にある人の埋葬は(皇族を除く)
>生前住んでいた家を丸ごと寺院にしたり、その一角を供養エリアにしてそこに埋葬するということをしていたようです。
これを読んで、いろいろと知りたい事が出てきてしまいましたので、(「高位じゃない武士はどうだったのか」とか「一族歴代を一緒の場所に埋葬する習慣はいつできたのか」とか「それ以前の源氏はどうだったのか」とか)、ちょっといずれこれも調べてみる事を、自分の課題としてみたいと思います。
>勝長寿院に埋葬されたのは義朝、実朝、政子、竹御所、鎌田政家だけです。
そうすると、この勝長寿院というのもとても複雑な意味のある場所なんですね。「義朝」、「実朝」、「竹御所」・・・ 微妙すぎる。(竹御所ってのは頼朝の家系の最後の一人でしたっけ)
そういえば、公暁のお墓ってどこにあるんだろう。
>どうして頼朝と政子は一緒の場所に埋葬されなかったんですか?
これは当時の埋葬や供養の方法と社会情勢の関係があると思います。
当時高位にある人の埋葬は(皇族を除く)
生前住んでいた家を丸ごと寺院にしたり、その一角を供養エリアにしてそこに埋葬するということをしていたようです。
頼朝の場合は、生前に自分専用の「持仏堂」として利用していた大蔵御所の一角がそのまま彼の埋葬場所になったようです。
そこでは、彼の供養も行われていたようです。
そして、それ以降その場所は「初代鎌倉殿の聖地」となってしまったようです。
一方政子ですが、恐らく頼朝とは最後まで非常に愛し合っていた夫婦だったとは思いますが
いくら鎌倉殿正妻とはいえ、「聖地」に埋葬ということまではできなかったのではないのかと思います。
頼朝以降の鎌倉を纏め上げた功績者ではありますし、正室ではあり、二代の将軍の母ではありましたので「元持仏堂」に埋葬されても良かったのかもしれませんが
それ以上に内紛の続く幕府内においては「頼朝の神格化」が極めて重要な宗教的や政治的に必要だったのではないのかと思います。
つまり、頼朝は頼朝で単独死後も単独で輝いていなければならなかったのではないのかと思うのです。
また、政子の死の直後では北条一族は「将軍の血縁関係姻戚関係」を喪失して一歩幕府内で後退を余儀なくされていたという事情も関係したのではないのかと思います。
(執権政治の確立はもう少し時間が必要でしたし、得宗専制の開始は時頼晩年まで待たなければなりません)
それでも、源氏の菩提寺勝長寿院に埋葬されたということは、政子の権威を有る程度象徴しているのではないでしょうか?
勝長寿院に埋葬されたのは義朝、実朝、政子、竹御所、鎌田政家だけです。
ところで、どうして頼朝と政子は一緒の場所に埋葬されなかったんですか?
>「炎環」
以前はブックオフでたまに見かけたんですけど~。気長に探します
「平家物語」で出てくる挙兵を勧める例の部分はフィクションの可能性が大きいようです。
実際には頼朝が後白河法皇に奏上して、義朝の頭蓋骨を掘り出してもらって
「文覚の弟子」が鎌倉まで持ってきたというのが史実だそうです。その事実をもとに「平家物語」が話を作っていたようで・・・
その頭蓋骨は源氏の菩提寺の勝長寿院に埋葬されました。
ちなみに、勝長寿院には実朝と政子も埋葬されました。
でも、全成と文覚が実際にあったとしたらどのような関係だったのでしょうか。非常に興味がもてるところです。
「炎環」は単品では入手は難しいですが
「永井路子全集」の鎌倉時代編に所収されています。
もしかしたら図書館等で入手できるかもしれません。
小説の方はぼちぼち再開できるようにがんばります。
またこころおきなく小説の続きに取りかかれる日が来ることを、心待ちにしています。
いろいろ私が(あまり調べずに)疑問に思った事を、いろいろ教えて下さって、感謝感謝です。
>そういう意味では頼朝にとっては範頼・義経とはまた違った大切な役割を全成はもっていた
とすると、やっぱり頼朝はこの弟をとても頼りにしていたんですね。なんだか嬉しいです。
>全成は僧侶であり、僧侶ということで「宗教的な力」というものものそれなりにもっていたのではないかと思います。
ふむふむ、頼朝はそういう事をとても大切に考えていましたからね。
しかし、全成も僧侶としては相当型破りな暴力的な僧侶であったと思います。とすると、同じく型破りな文覚との関係はどうだったんでしょうか。伊豆マニアとして気になるのは「義朝の頭蓋骨」のこと。全成の母親コンプレックスの反動で父に対する思い入れはかなりなものだったんじゃないかと思うので(邸宅内に「先祖の霊を祀る廟」を建てたそうですし)、父の遺骨について、かなり激しく文覚上人につめよったんじゃないでしょうか?
>「炎環」いいですよ。
くぅぅ~~、古本屋で見かけたあの時に買っていれば…。探すと見つかりません。
全成さんの話が出ているではないですか。
うれしかったです。
私は比較的マイナー人物が好きなので便乗して語らせてください。
範頼と全成のどっちが年上かということは
範頼の生年が不明の為系図にしたがって範頼を六男にして兄にしてしまいました。
「黄瀬川」と全成と頼朝との対面は
頼朝が房総から鎌倉にむかう途中に全成と対面したという記録があるので
全成との面会の方が先のようです。
全成を戦に出さなかったという点に関してですが
(以下全て私の推論です)
鎌倉においては「軍事」の重要性は言うまでもありませんが
それに劣らず大切なのが「行政・訴訟の処理能力」と呪術などに通じる「宗教力」だったと思います。
当時、現在では想像もつかないくらい真面目に宗教の力が信じられていました。
全成は僧侶であり、僧侶ということで「宗教的な力」というものものそれなりにもっていたのではないかと思います。
当時、公家や武家はどんなに栄えている家でも男子が何人かいれば必ず誰かは出家させます。
家の中で「僧侶の役割」を担わされるひとが必要だったようなのです。
つまり全成は「頼朝家」における「出家者担当」ということで「武人」としての働きより「出家者」としての働きを期待されていたのではないのかと思います。
また、長いこと醍醐寺にいた全成は都や寺社勢力とそれなりの人脈をもっていたと思われます。
そういう意味では頼朝にとっては範頼・義経とはまた違った大切な役割を全成はもっていたのではないかと思うのです。(ここまで個人的な考えです)
それから阿野廉子に関してですが
確かに彼女は全成の子孫です。
ただし、頼朝の斡旋で都の公家阿野公佐に嫁がせた全成の娘の子孫です。つまり女系の子孫です。
「炎環」いいですよ。
短編四本のうち、全成が主役の一編とその妻(政子の妹)が主役の一編が両方あるので合わせ鏡のようでとてもよいです。