三嶋大社の拝殿の欄間にはとても豪華な彫刻が彫り込まれているのですが、その題材が、「源頼政の鵺退治」だ、ということを以前何かの本で読んだのを思い出して、見に行ってきました。
確かに彫刻は見事だ。
でも、あまりにたくさんの物が細々と描かれているので、どこの部分が当のヌエなのかを特定するのに苦労しました。確か「三嶋大社の欄間は鵺と頼政だ」と読んだ気がするので、てっきり主役が頼政で、全体に渡って壮大にその光景が描かれているのだと思って行ったのですが、そうではありませんでした。
さすがに夏なので人通りが多くて、本殿の中では、何組もの御祓いをしている家族や集団や、ひっきりなしに通る巫女さんや神主さんがいて、上ばかり見上げている私は思いっ切り不審人物だったのですが、一番目立つ入り口の真上の箇所にある彫り物は仙人っぽいじいさんが2人碁を打っている場面で、どうも違うっぽい。
それっぽい場面がいくつかあったので、とりあえずデジカメで写真を何枚か撮って、(←なにしろ私は目が極端に悪いので、その場で特定ができなかったのです)帰ってから眺める事にしました。もしかしたら神域は写真禁止かも知れないし、中では太鼓を打ったり御祓いをしていたりするし、キレイな巫女さんもいるので、怪しいヤツだと思われないようにコソコソ全方面から撮ってきました。(←余計あやしいわな)。ただし、入れない神殿背部にも彫刻はあるようだし、本殿とは別の舞殿にも豊富に彫刻があったので、「?????」と思いながら、それほど広くない神域内を巡りました。
で、特定したのが、本殿の正面から見てやや左の部分。その反対側の翼には何が彫ってあったか、 、、忘れました。
源三位頼政公は2回ヌエの退治をしたそうですが、左側に従者らしい人物がヌエ(・・・・・イヌ?)を取り押さえているところを見ると、これは一回目の鵺退治ですね。
参考までに、平凡社の『世界大百科』での記述をそのまま写します。
鵺(ぬえ) 平曲,能の曲名。
(1)平曲。“戊”とも書く。平物(ひらもの)。拾イ物。源頼政は,保元・平治の乱で戦功があったのにたいした恩賞も与えられなかったが,晩年になって「人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな」と詠んで昇殿を許され,その後「のぼるべき便りなき身は木のもとに椎(しい)を拾ひて世を渡るかな」と詠んで三位を与えられた。この人が世に名をあげたのは近衛院の御代のことである。そのころ,毎夜丑の刻になると黒雲が御殿を覆い,帝が怯え入るということがあり,僧の祈裳も効果がなかった。昔,源義家に鳴弦をさせて帝の災いを除いたという先例があったので,頼政に勅命が下った(強ノ声(こうのこえ)。頼政が家来の猪早太(いのはやた)を連れて待っていると,案の定,東三条の方から黒雲がかかり,雲中に怪しい姿が見えた。頼政が矢を射ると落ちてきたので,猪早太が刺し殺し,火をともして見ると,頭は猿,体は狸,尾は蛇,手足は虎という怪物で,鳴声は鵺の声に似ていた(拾イ)。この手柄で頼政は獅子王という剣を賜ったが,取次ぎをした宇治の左大臣が「ほととぎす名をも雲居に上ぐるかな」と詠むと,頼政は「弓張り月のいるに任せて」と応じて退出した。怪物の死骸はうつぼ舟に押し込んで流してしまった。その後,二条天皇のころ,鵺という怪鳥が禁中で鳴いて帝を悩ましたことがあり,また頼政に命が下った。5月半ばの闇夜のうえ,鵺がただ一声しか鳴かないのでねらいが定められない(三重(さんじゅう))。頼政はまず大鏑矢(かぶらや)を射上げ,鵺が驚いて羽音を立てたところを射止めた(拾イ)。このときは御衣を賜ったが,やはり取次ぎの右大臣藤原公能と和歌を詠み継いだ。
全体は武勇談だが,上歌・下歌という曲節で和歌を詠吟する個所を三つも設けて,歌人としての頼政を印象づけている。
(2)能。五番目物。世阿弥作。シテは鵺の霊。上記のように平曲では,鵺の声をした怪獣と鵺という名の怪鳥とは別物だが,能では前者を鵺としていて,後者には触れない。旅の僧(ワキ)が摂津の挿屋に着き,里人(アイ)に宿を頼むが断られ,光るものが出るといわれた州崎の堂に泊まる。そこへ髪をふり乱した怪しい姿の舟人(前ジテ)がやって来て,自分は鵺の亡魂だといい,頼政に退治されたありさまを物語り(クセ),うつぼ舟に乗って立ち去る。僧が弔いをすると,鵺の霊(後ジテ)が昔の姿で現れ,物語の後半,頼政が剣を賜り和歌を詠んだことから,うつぼ舟に押し込められて淀川に流されたことを仕方話で物語る(中ノリ地)。
だから、正確に言うと「ヌエの鳴き声で泣く動物を退治する源三位頼政公」の場面、なのでした(笑)。
頼政の鵺退治の話はとても有名な物語で、平家物語で書かれているだけでなく、上に挙げたように平曲や能にもなって広く親しまれていたのですが、それが神社に彫られている例がどれだけあるのかは知りません。でもそれが何をあろう三嶋大社に飾られているのは、この神社が源頼朝の旗揚げの地として選ばれ(頼朝が旗揚げ直前にここで熱心に願掛けをしたそうです)、その後も武門の守り神として(源氏の守護神八幡神と同等に)篤く尊崇したので、それに結びつけてのことでしょうね。
「三島明神を頼朝が武芸の神として崇めた」と聞いて地元民が違和感を感じるのは、地元の人は「三島明神はえびすさんのことである」と教え込まれているからです。毎年8月の祭礼では、福々しいエビスさんの絵が大きく掲げられ、“三島大社は商売と交通安全の神さま”という能書きが町なかにおどります。しかし、「三島明神=積羽八重事代主=恵比寿」だという説を最初に唱えたのは江戸時代中期の平田篤胤(が参考にした吉田兼方)で、それを取り入れて明治政府が、明治6年にそうと定めてからです。それ以前は三島大明神の正体は大山祇命だとされていました。そもそも事代主は海の神様ですが、三島には海はありませんからね。大山祇の神だって武神と言われると微妙に感じますが、古来から何度も富士山の噴火を眺めてきた三島の人々には、山といえば猛々しいイメージだったのだと思う。
記録に出てくる三嶋大社の最古の記録は、この「頼朝が願掛けをした」という頃のものだそうなので、その頃は本当に、現在の大社とは程遠い、地方の普通の規模のおやしろだったものと思われます。吾妻鏡にも、はるか韮山の住人が喜んで遠い三嶋の祭礼に出掛けていくサマが描かれていますが、その頃のお社に(彫刻があったとしたら)何が彫られていたのかが気になりますね。鎌倉時代の一遍上人絵伝にその頃の三嶋大社の詳細な図が載っているらしく、現在の社域とはちょっと様子が違うそうなのです。しかし頼朝時代に拡大して派手にした社殿は、文永5年(1268)に焼け、その後色々あって、三嶋大社は計4回焼けたり壊れたりして、現在の社殿は「安政の東海大地震」によって崩壊したものを、万延元年(1860)~明治2年(1869)に再建されたもので、この頼政の彫刻もそのとき新たに彫られ飾られたものだそうです。新たに彫られたので、それ以前にあったもののモチーフがどれほど影響している物か分かりませんが、「源氏といえば勇ましい」、「勇ましい源氏といえば鵺を退治した源頼政」なので、前から頼政がここに彫られていた可能性はあります。でも全然別のものだった可能性はもっと大きくあります。(だれか詳しい人に訊けばきっとわかるのだろう)
これを彫ったのは、幕末の伊豆の有名な彫物師・石田半兵ヱ(=小沢希道)と駿河の名工・後藤芳治郎のふたり。なんと、著名なこの二人に腕を競わせることとし、彼らは門人たちを総動員して派手に豪華な彫刻を彫らせたといいます。だからこんなに派手で、後ろの方までこまごまといるんなのが彫り込まれているんですね。
で、この頼政の部分はどっちの方が彫ったのかというと、、、、 どっちだったんでしょうね?
なお、片方の石田半兵衛(松崎出身)の息子の名前は小沢雅楽介(一仙)といって、幕末の伊豆で最も破天荒な風雲児として知られた人です。(伊豆の人しか知りませんが)。一番メチャクチャな業績として知られているのは、ペリーの黒船に刺激を受けて、「船を7隻繋げて両側に巨大な水車を付けた」無難車船というのを建造し駿河湾に浮かべたことですが、最後は偽官軍として甲州で捕まって処刑されました。きっとこのブログでもそのうちこの人を詳しく登場させることになるでしょう。
それから、全然関係がないのですが、一度目の頼政公のヌエ退治のとき、バケモノの死骸を詰めて川に(海に)流した「うつぼ船」というものの記述について、惹かれます。うつぼ船が何なのかは知りませんが、歴史オカルト関係の本を読んでいると頻繁に出てくる言葉です。宇宙人が乗っている乗り物だとか、異人が乗ってくる乗り物だとか。本当は何なんだろう、うつぼ船。なんでヌエをそれに詰めて流したんだろう?
で、三島明神だって(伝説によると)四国の方から伊豆諸島へ流れてきたんですから、「流れてくる」というのは伊豆のキーワードです。
≪神池のかわいい亀たち≫ ≪安達藤九郎盛長の駒止めの松…おいおい(細い)≫
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