ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

もろもろ進行中

2010-10-31 20:45:19 | Weblog
プランター農園でとれたトウガラシは、ちゃんと辛い。


赤い食材って、やはり、なんともいえない存在感があるなあ。

今日は、京水菜の種をまいた。
順調にいけば、1ヶ月くらいで収穫できるらしい。
水菜は、サラダにしても美味しいし、これからのお鍋の季節にもあうし、
パスタに乗せても美味しい。
味がないようで、なんにでもあう優れものだと思っている。
楽しみだ。

織物、次はマフラー。


結構いい光沢がでそうな雰囲気だ。
ゆっくり編もう。筋肉痛になるから。

いい秋だ。
これで栗が美味しければ・・・。
栗ごはん、大好きだから。

先日スーパーで買った栗は、中が黒いものが結構多くて、
例年よりも、なりが悪いように思った。猛暑のせいかな。
もう少し秋が深まるのを待とう。

織物、完成

2010-10-30 20:03:44 | Weblog
先週末にプランター農園の仲間入りをした「いちご」に新芽が出てきた。


引越後1週間、少し落ち着いてくれたようだ。
急に寒くなったけど、がんばれ。

同じく先週末に、縦糸を張った織物が完成した。
台風のせいで閉じこもったおかげだ。


和紙のような糸だったので、
色がたくさん入っているけど、実際はかなりしっとりとした雰囲気になった。

ピアノ上にかけることにした。


南国のピアノのようになった。

織り機をやっていると、腰が痛くなる。
体勢に無理があるのだろう。
少し工夫せねば。

コレラの時代の愛

2010-10-29 22:26:28 | Weblog
ガルシア=マルケス著、木村榮一訳、新潮社

ガルシア=マルケスは、『百年の孤独』を読んで以来のファン。
この『コレラの時代の愛』は、映画にもなったけれど、そちらは見ていない。
性の描写は、文字で見るのと映像で見るのでは、まるで印象が違うから、
というのが理由だ。

半世紀以上、ある女性を愛し、待ちつづけていたという男性。
多くの女性と付き合ったが独身を通し、
いつかその女性と一緒になることをずっと夢見てきた。
コロンビアでコレラが流行って、内戦があって、
川の両側に広がるジャングルがどんどん切り拓かれて、
自然がどんどん壊されていった時代のこと。

うつりかわるものと、かわないもの。
小説全体でアクセントになっているのは、嗅覚だと思った。

においをかいで、ふっと過去が戻ってきたり、
ある人の面影を思い出したりする。
でもそれは、確実につかまえることはできなくて、
思い出したとたんに、半分くらいもう、消えてしまった思い出。

男女の愛情についての小説は、正直にいって、
あまり得意なジャンルではないので、
読み始めてから結局3年近い月日が経ってしまった。
半世紀も同じ人を思いつづけた男性の話だから、
3年なんて、どうっていうことのない長さだろう。

ただ、不思議だったのは、少し読まない期間があっても、
それまでの展開をしっかりと覚えていて、
すぐに小説のなかに戻れたこと。

世界観がしっかり描けている小説だということなのだろう。

うつりかわるもの

2010-10-28 20:51:27 | Weblog
毎日生きていれば、仕事でいろいろなミスもする。
しかも加齢を感じるようなミスが増えてきている。
でも、人の能力は年齢とともに、出っ張ったり引っ込んだりするものだから、
それを回避する方法を徐々に見つけていくしかないと思っている。
できる努力は、とりあえずする。
でも、できるようになるかどうかはわからない。

こんなだから、まあまあ、自分としてはいい状態だと思っているのだけど、
こんなとき、むかしから必ず、「元気ない?」「具合悪い?」と聞かれる。

リラックスしていて、頭にちゃんと血がまわっていて、内面が活性化している。
でも、そうすると、もしかしたら外側に近いところは省エネモードになっていて、
不活性な印象を与えてしまうのかもしれない。

若いころと変わったと思うのは、
「元気ない?」と言われると、むかしはカラ元気を出して、
その人のイメージの中にある「私」に戻ろうと努力したんだけど、いま、そんな気はない。
人生は常に過渡期だとあらためて思う。
日々うつりかわっていく自分と正面から付き合うのは、本当に難しい。

昨日は絶好調!と思っていたのに、今日は少し落ち込む。
そして、明日は、いま恐れているほどひどい日ではないかもしれない。
少しずつうつりかわっていくこと、それを見つめる努力をしていたら、
いつか、おだやかな自分にすぐ戻れる自分と出会えるかもしれない。
怒りや嫉妬は、きっとなくならないけれど、
そんなネガティブな感情に縛られる時間を、どこまでも短くできるかもしれない。

そんなことを考えているから、最近、仏教の本をよく読むのだけど、
どうしても浄土教がしっくりこない。
浄土教系の幼稚園に通っていたので、仏教のお話と触れたのは比較的早かったけど、
その後、どんどん、阿弥陀様とキリストとの違いがわからなくなって混乱した。

でも、『誤解された仏教』(秋月龍珉著)を読んで、なんだかスッキリした。
日本には日本特有の仏教の伝統がある。
それはそれで必要があって発展してきたのだと思う。
お葬式の時にしかほとんど出会わないし、死んだ人はみんな仏様のところに行けて、
お金払って戒名をつけてもらって成仏できるようなんだけど、
それならキリストでもいいじゃないか、戒名代がないぶんキリストの方がいいかも、
とすら思ったことがある。

だから、「いやいや、仏教って、そもそもね」と、「そもそも論」を潔癖なくらいに展開してくれて、
すごくスッキリした。

楽しい仕事

2010-10-27 19:55:21 | Weblog
今日は、調べものをしながら原稿をまとめていく、ということをした。
文章のテーマはそんなに興味がある分野ではなかったけれど、
この仕事は、これがまた、すごく楽しかった。

電話やメールの本数が多いと、楽しいというゾーンに入る前に、イライラしてしまう。
ましてや調べながら少し脱線する、なんて余裕は持てない。
いろいろなことをしていると、
まず、「集中すること」に努力することになるが、結局ブツ切れではかどらず、ドッと疲れる。
今日は、むかしむかしに味わった向き合うことの楽しさを思い出して、すごく嬉しかった。

言語センスにはいろいろある。
詩的なセンスもあれば、論理構成力もある。
今日、私に求められたのは、
素人の「私」が読んだときに、
その文章が可能な限り正しく、そしてストレスなく伝わるか、という点を考えながらまとめる、
ということだった。

もっと若かったころには、私にも見栄があって、
文章を読むときに、校閲するような気持ちになったものだ。
でもいまは、そんな不要な見栄がとれてきて、
文章に対して、正直に向き合えるようになってきた。
それに、いまは便利なもので、
「ん?」と思ったことは、インターネットで調べることができる。
インターネットの情報がすべてではないけれど、ある程度、整理する役に立ってくれる。
ありがたい。

だからこそ、文章を読んでいて「ん?」と思えるかどうかが、ますます肝心になってきたと思う。
ある程度の知識がないと「ん?」と思うこともないかもしれないけど、
ひっかかるところには、文章の流れの中で、何らかの「ほつれ」があるわけだから、
それに気づけるかどうかは、知識量よりも言葉に対するセンスが重要になってくると思う。

あいまいな言葉に出会って、立ち止まって考える。
修正することもあれば、あいまいなまま残すこともある。
その決断までのあいだに、
人の人生や、自然科学、政治や経済など、いろいろな世界を縦横無尽に旅する。

「ほつれ」には、その文章を書いた人の心や、社会や歴史など、なんらかの背景がある。
ましてや、文章の上手・下手、頭のいい悪い、とは、まったく関係ない。
なにかがひそんでいる。
それを見つめるときに必要なのは、私の心にひそむ嫉妬や偏見といった、
眼をくもらせる私自身の心の乱れだ。

落ち着いてそっと眼を開け、心を開いて読む。
私はそんな仕事が大好きなんだと思った。

潔癖なので

2010-10-26 20:13:43 | Weblog
今朝、メールをチェックしたら、あるお店からメルマガが届いていた。
件名に、顔文字がついていた。
なにやら喜んでいるようだ。

もちろん、なかの文章を読まずに捨てた。

Twitterのツイートや、個人的なメールで顔文字や絵文字を使うのはいい。
私は使わないけど、他人が使っていても、別にイヤな気持ちはしない。

でも、お店のメルマガに顔文字がついているのは、生理的にとてもイヤだ。
それは、バラエティ番組を見ているときに、
「さあさあ、ここが笑うポイントですよ」と、
画面に字幕が出るのと同じくらい余計だ。

もらったメルマガの内容にワクワクしたり、
テレビを見て面白いと思ったり、
その内容もタイミングも、それは受け手の、ごく個人的なことだ。
その楽しみ方も、そのタイミングも、
発信者側から決められることではないと思う。

情報を、文字で補足されるならわかる。
でもなぜ、感情まで補足されなければならないのか、と思ってしまう。

ということで、メルマガの配信停止も申し込んだ。

筋肉痛

2010-10-25 20:06:04 | Weblog
筋肉痛である。
原因は、機織り。
昨日、無理な体勢で縦糸を仕掛けていたためか、
ちょうどいい高さの椅子がなかったため、
キングスライムのようなバランスボールの上に座って2日間機織りをしたためか、
とにかく、腰と太もも(内側と裏側)が筋肉痛である。
なまっている。

さて、今朝、電車のなかで筋肉痛のため揺れに耐える立ち方を模索しながら、
頭の中がボーッとしていたときに、
ふと、母がものすごく共産主義を大嫌いだったことを思い出した。

小学生のとき、ソ連、中国、北朝鮮、東ドイツという存在を知った私は、
母に、これらの国のことを質問した。

母は、私に輪をかけて好き嫌いがハッキリした人だったので、
いきなり「共産主義は嫌いよ」から話し始めた。
感情論から始まるけど、よくよく聞いてみると、その話は魅力的なことが多い人だった。

嫌いな理由は単純。
共産主義は、家族を解体して、個人と党のつながりを最優先させる。
つまり、共産党の私のつながりの方が、母と私のつながりよりも優先される。
そんなのって、耐えられないし、人間としての本質に反している。
無理だという以前に、意味がない、と。

ぽかんとしている私に、母は追い打ちをかける。

例えば、と話が続く。
仕事も住むところも党が与えてくれるんだけど、
母も私も気管支が弱いのに、党からお父さんが、
「あなたの仕事は高速道路を作ることなので、高速道路の下に住みなさい」と言われたら、
文句は言えないし、ありがたい、って言わなきゃいけない。

お父さんは、家族を幸せにしようと思って仕事を頑張るのに、
どんどんどんどん排気ガスのせいで、家族の気管支が悪くなったら、悲しい。
仕事や住むところを自由に選べる、というのは、
真の平等のために、とても大切なことなのよ。
人は、それぞれ違うのだから、と。

家族を大切にするということは、
自分以外の人を大切にする、ということ。
そして、町で出会った見ず知らずの人にも家族がいる、と思えることは、
やさしさが広がって行くこと。

だから、共産主義は、人間にとって一番大切なことを見失いがちなとても難しい思想だし、
根本的に「つくろうと思ってつくる」ものではなくて、
「中にいる人が気がつかないうちに出来ているはずのもの。しかも失ってはじめて気づくものなのだ」
と言っていた。

同様の理由から、お国のために死にましょうも大嫌いだった。
この世に、家族以上に大切なものはない、というのが母の口癖だった。

ということで、私が中国に留学したいと言った高校生のころ、
まず最初にちらりと否定的なことを言ったのは母だった。

中国の反日デモについて

2010-10-25 02:23:38 | Weblog
眠れないのは、明日、会社に行くのがイヤなのではなくて、
困ったことに、充実した休日のおかげで、思考が回り始めてしまったためだ。

中国の反日デモ、日本人としての反感をいったん保留して、いろいろと考えてみる。
そんな余裕がうまれたのは、中共が、本格的にデモを「ストップ」し始めたからだ。

中国で起きるデモは、ほとんどが政府主導のデモで、
反日デモであってもそうだったらしい。

もとより、反日教育が盛んになったのは、天安門事件の後からだ。
自国の政府に対して意見を言う人民よりも、
「日本帝国主義」に敵愾心を持っている愛国的な人民の方がいい。
そんな国民を育てようと江沢民が思った、と言われているらしい。

そのへんの中国の国内事情は、もう他人には口の出しようがない。
しょうがない歴史があるのだし、それをいまの人が、
どのように解釈し利用しようが、これは止めようがない。

ただ、反日デモのおかげで、
私は、「デモってなんだろう」と考える機会をもらえた。
暴徒に襲われた店舗や日系企業、不安な気持ちを抱えている
現地の日本人には申し訳ないのだけど。

右翼でも左翼でも、そんなことはどうでもいい。
どちらかが決定的に正しくも、間違ってもいない。
人間が何かを考える時、「枠組み」が必要だ、ということにすぎない。

ただ、デモという行為は少し違う。
これは、決定的に、根源的に、「革命」を求める行為だと思う。
また、「革命」を求めないデモは、デモではない。
だから政府主導の作られたデモは、デモではなくてマスゲームだ。
一方、主体的に行われるデモは、多かれ少なかれ「革命」への願望を帯びていて、
それへの熱望の度合いや、純化といった点では、いろいろな意見が出て来ると思うけど、
行為のあいだに、その目的や手段が純化される、純化されすぎてしまうという可能性はある。

大学生の就職が厳しい点では、中国も日本も同じだ。
いい大学に入れば普通よりは上の生活が保証されると言われて頑張ってきたのに、
卒業するいまそんな将来はない、と知った大学生たちの絶望は、
当然に、革命をもとめる要素をもつだろう。
この絶望の度合いは、中国人は日本人の比ではないと思う。

もし、あえて、デモをする中国とデモをしない日本の大学生の違いを挙げるなら、
「エリートであれば、社会的地位を得て、いい生活ができるはずだ」という中国人と、
「大学出るのは当たり前という親のためで、本当は、
お金やいい生活よりも、自分らしく生きたいと思っているんだよね」という日本人の違いかな。

だから、いまの日本の感覚で、
中国の大学生が行っているデモを見るのは非常にズレている、ような気がする。
安保闘争のころを思い浮かべて、中国のデモを見たときに、
はじめて代替戦争ならぬ代替デモと、中国政府の対応が見えてくるような気がする。

と、勢いで書いて、落ち着いたので、やっと眠れそうな気がする。

ハマるので

2010-10-24 22:31:07 | Weblog
昨日、玄関マットを作ってから、
もっとこうすればよかった、ああしたらどうだろう、と考え始め、
とまらなくなったので、
やはり今日も機織りを仕掛けることにした。

主に改善点は縦糸の張り方。
機織りは、主に横糸の通し方に目がいくけれど、
縦糸と横糸は、それぞれ半分ずつ織物を担っているわけなので、
縦糸をいかにコントロールするかは、非常に重要だと思う。

仕上がりの長さが、150センチくらいになるものを作ろうと思うので、
特に縦糸が気になった。
そして、どんなに丁寧に巻いても、必ず誤差は出るもの。
たるんでしまう糸が出て来る。

わかっているのに、扱いが難しそうな糸を選んでしまった。


さて、どんな道中になるか。
まとめてグッとやりたい縦糸のセッティングまでが休日に終わってよかった。

代替わり

2010-10-23 22:00:51 | Weblog
小2のときに、肺炎で1ヶ月半ほど入院した。
そのとき、遊び部屋に子ども用のプラスチック製の機織り機があった。
すごく興味があったのだけど、
いつもそれで遊んでいた子が末期のガンだったので、
「貸して」と言えなかった。

退院して両親に、退院祝いを買ってあげる、と言われ、
「機織り機が欲しい」と言った。

父に説明をすると、「よし、わかった。少し時間をくれよな」と。

少しすると、父が大きな箱を持って帰ってきた。
取り出してみると、木製の機織り機だった。
「プラスチックより、木のほうが、なんだかいいだろ」と、
父は自慢ぎみに言っていた。

小学生のころ、母が編物をした残りの毛糸で、小さなものをいくつかつくった。
そのうち、真ん中の糸を通すところが折れてしまった。
でも、25年間くらい、ずっと捨てられなかった。


先月、少し仕事を頑張ったので、機織り機を買うことにした。
少し大きめのにした。


夕方から、糸をセッティングして、織り始めると・・・、
案の定、途中ではとまらない。

玄関マットができた。
サイズは、思ったとおりにならないのが、初心者の手づくり。
そのわりには、まあまあかな。