ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

睡眠について

2009-07-30 23:29:03 | Weblog
私は寝付きがすごくいい。特技と言ってもいいほどいい。

お風呂から出た後、軽くストレッチをしながら本を読む。
本に熱中するから、ストレッチは自然といい加減になる。
ダラダラと横になって本を読む。
次第に眠くなる。
3行前の内容を覚えていない状態になったら、読書をあきらめる。
電気を消して、横になって・・・、約10秒後には寝入っている。

もっと本を読みたいのに、いつも睡魔には勝てない。
最近は仕事が忙しいので夜の自由な時間が少なく、ざっとこの間、30分。

出張先でも友人宅でも、寝ると決めて横になってから寝付くまで、30秒もかからない。
不眠、ということがわからない。
だから不眠症の人のつらさをわかってあげられない。

正確に言うと、不眠とはどんなことなのかを忘れてしまった。

以前はかなり神経質で、時計の針の音でも寝付けなかった。
北京に留学していた20歳のころは、ルームメートの物音にいつも起こされ、
年がら年中イライラしていた。
旅行に行っても、警戒心が強くて寝付けないことが普通だった。

きっと感受性が鈍くなったからなんだろうな、と思う。
もしくは、望んだとおりになんかならないさ、という諦めのため。

私の好きなサッカー選手は、飛行機でまず眠れないらしい。
だから遠征は寝不足になってたいへんだ。

私は飛行機のモーター音があがっていくと、すごく気分がよくなって安眠体制に入る。
たまに離陸すら気づけないくらいに、熟睡することがある。
あの回転音を聞くと、「落ちたら落ちたで、しょうがないじゃん」と思えてきて、
なんとなく、人生をあずけるような達観した気分になる。
そういえば、寝付きが早くなったのは、人生を余生だと思う気持ちが強くなった頃からだ。

最近は、少し飛行機が苦手になって来た。
これで落ちたら、もう好きな人に会えないんだなあ、と思うから。
今日の帰りの電車のなかでも、不慮の事故で死ぬのはイヤだなあ、と漠然と不安を感じた。

不眠が戻ってきませんように。

アンケセナーメン

2009-07-29 22:22:37 | Weblog
先日のNHKスペシャルで古代エジプトをやっていた。
王家の谷で新たに見つかったお墓が、
ツタンカーメンの王妃、アンケセナーメンのものではないかというニュースは、
少し前の新聞に載っていた。
その真偽を追う内容だった。

アンケセナーメンの名前を初めて知ったのは小学校5年生の時。
たしか『悲劇の王妃アンケセナーメン』というタイトルだったと思うが、
そんな感じの書名の本が、小学校の図書室にあった。

何となく手に取ったのが、古代エジプトとの出会いになった。

その後、ハワード・カーターのツタンカーメン王墓発掘記や、ピラミッド、
古代エジプトの神話、クレオパトラなど、いろいろな本を読んだ。

そして、いつも心のどこかにあったのはアンケセナーメンのこと。
ツタンカーメンの柩から見つかったヤグルマギクの花輪は、
アンケセナーメンが贈ったものと言われている。

思春期の入り口に立っていた私にとって、
20歳くらいで愛する人を失った王妃の話は、とてもとても強烈だった。
どんな気持ちで葬列にしたがい、最後に花束を手向けたのだろう。

幼い頃から一緒に育ち、将来は一緒にエジプトを統べると言われ、
でも、単なる政略結婚ではなくて、2人はきっと恋をしたのだろう。
ツタンカーメン王墓から見つかった黄金の玉座のレリーフには、
アンケセナーメンがツタンカーメンに香油を塗る様子が描かれている。
2人のとてもやさしい姿。

アンケセナーメンは、ツタンカーメンが亡くなった後、
王座を継いだアイと結婚したと言われている。
祖父ほどに年齢が離れた人との、王家を継ぐための結婚。
いったい、どんな気持ちだったのだろう。

私は、恋愛をして、とても楽しい時であっても、
ふと、相手を失った時のことを想像してしまう。
それは私がネガティブな性格だ、という理由だけではなくて、
きっと、小学生の頃、深く深くアンケセナーメンの気持ちを思ったためだと思う。

結局、今回の発掘ではアンケセナーメンのミイラは見つからなくて、
彼女はまだ、歴史の闇の中にいる。

彼女は、その後、いったいどんな人生を送ったのだろう。
きっと死ぬ間際、ようやく開放される、という安堵感が彼女を包んだのではないか。
なんとなく、そんな気がする。
いまは、静かで穏やかなところで眠っていますように。

他人の痛みについて

2009-07-28 22:01:01 | Weblog
『三国志』に登場する関羽は、痛みに強かったらしい。
毒矢におかされた肘を麻酔なしに切開し、骨を削った。
その間、酒宴をひらき、お酒を飲んでいたという。

まあ、おそらくフィクションだろう。
というか、そう信じたい。

関羽と言えば「義の人」と言われている。
そんな立派な人が、手術などという見る人をこわがらせるようなことを、
酒宴で、見せびらかしたとは思えない。
人間関係において、これほどの非礼はないだろう。
特に、三国時代は戦国の世。
次の合戦で、自分が討ち死にするかもしれないのだ。
そんなときに、酒宴で手術シーンを見せるなんて、趣味が悪すぎる。

小学生の頃、『三国志』を読んだ。
たしか馬良だったか、同席した同僚が気絶した、ということも書かれていた。
「関羽は強い、馬良はひ弱だ」という図式に、なんとなく違和感をもった記憶がある。

いま、アランの『幸福論』を読んでいる。
「わたしたちのなかには他人の苦痛に耐えるだけの力があるとは必ずしも言えない」
ということが、心の動きとともに書かれていた。

そうだ。母親は、子どもの痛みに心をくだく。
おそらく自分自身の痛みよりも、もっと。
同僚の痛みも同じだ。
生死をともにしている仲間が、血のしたたる手術をうけている。
それを肴に、お酒を飲むような無神経な人間はいないだろう。
アランの文章を読んで、むかしの違和感をひとつ消化した。

そんなことを考えながら帰って来たら、地元の駅を出たところで、
いかにも「にせもの」っぽい負傷をした物乞いにつかまった。

5駅先くらいまで行くお金がない、ということをまわりくどく話す。
酔っているのか、演技なのか、ろれつも回っていない。
右足をひきずり、松葉杖をついている。
でも、あまり身なりは汚くない。

「ああ、にせものだなあ」と思ったのだけど、1000円を渡して、
「気をつけてかえってね」と言った。

そんなことはしないほうがいいのかもしれない。
味をしめて物乞いを続けるだろうし、他の人がつかまったら、イヤな想いをするだろう。
そもそも、私はこれまで、にせもの物乞いにお金を渡したことがないのだ。中国でも。

でも、今日はすんなり渡してしまった。
お金に余裕があるわけでも、その人が特にかわいそうだったわけでもない。
ただ淡々と、5駅先くらいまで帰りたいというから、それに十分な額を渡した。
きっとその人が「1万円ください」と言ったら、
それはそれで、持っていたら渡していたかもしれない。

何も考えなかった。

家について、ふと笠井潔さんの小説を思い出した。
登場人物のカケルは、物乞いに言われたとおりの額を渡す人だった。

気の迷いかな。

考える時間

2009-07-27 21:57:35 | Weblog
平日の仕事中、1時間ほど考える時間がある。
ある意味、苦手な単純作業をしているあいだだ。

考えながら、心の中にはピアノの音が鳴っている。
以前、実際に弾けた曲を思い出しているときもあれば、
弾いたことのないような難易度が高い曲を弾いた気になっている時も多い。
一瞬先の音をつかまえるために神経を集中し、
その音が響いたとたんに、それは失われる。
音をつかまえているのは、実際にその音が鳴る一瞬前。

そんなイメージを繰り返しているからか、
曲に対する認識は深まって来たような気がする。
自分だったらこう表現するなあ、とか、
ああ、ここはこんな気持ちなのか、というような。

ジャンケレヴィッチは、ピアノを愛し、よく弾いていたらしい。
リストやラベルについても文章を書いている。

昨日読んだ本のなかで、印象に残る言葉があった。
西洋の音楽は、静寂の中から音のある世界が出現する。
いっぽう東洋の音楽は、音のある世界から、一瞬の静寂がおとずれる。
こんな感じのことが書かれていた。

なるほど、と思った。
ここでいう東洋の音楽には、イスラムの音楽も含まれるのだろう。
日本の雅楽の間合いなども、そういわれると、そんな気がする。

音は刹那の連続。
同じ楽譜を演奏したとしても、奏でたとたんに失われていく。
毎回があたらしく音をつくる作業で、決してつかまえつづけることはできない。

これまでに、いろいろな哲学者の本を読んで来たけれど、
なにか楽器を愛した人、音楽を愛した人の書く文章に、いちばん親しみをもてる。
自分が記している言葉すら、失われるものとして書いているからだろうか。

あまり好きではない時間に、イメージだけピアノの世界に行くからこそ、
きっと、いろいろな感情を曲の中に見いだせるのだろう。
いまほどピアノを弾きたい、と思っているときはないと思う。

哲学教師ジャンケレヴィッチ

2009-07-26 20:27:09 | Weblog
ジャン=ジャック リュブリナ著、原章二訳、青弓社刊

丸二日間、家に閉じこもり、本を読んではうたた寝をし、
風の音や鳥の声、音楽を聴いていた。
少し風が強くて、干した布団が飛ばされないか、という心配以外は、
とてもとても静かな気持ちで過ごした週末だった。

明日も、この先もずっと、こんな毎日が続けばいいのに。

仕事をしていて、いつも「疲れるなあ」と思うのは、精神的な縄張り争い。
人は誰でも、他人から認められたいという欲求をもっているものだけど、
誰よりも感性が優れていると「言って」、
賢いと「言って」、正しいと「言って」、
そして、誰よりも頑張っているんだから「やさしくして」、
と、絶えず求められると、ただ一言、「自由をください」と言いたくなる。

毎日、少しずつアレンジを変えて繰り返される、このせめぎ合い。
どうも「上司」や関係先などの「上位者」という人たちと仲良くなれないワケは、
このあたりの距離感に理由があるような気がする。

相手は、そんなつもりで言っているのでも、
私に聞いて欲しいわけでもなくて、
単にフラストレーションを発散しているだけなのだろう。
本人は、相手にそんな押し付けがましい態度をとっている自覚すらないと思う。
だから、聞き流せばいいことなのだろうと思う。

でも、私はそんな構造の中に、何とも言えない「暴力」があり、
他人に対する「甘え」があることを、どうしても受け流すことができない。
部下や年少の者には、上の人に対してそんな発散をする自由も、
与えられていないことがあるのだから。

そして、自分もそんな気持ちを他人に押し付けているのだろうか、と不安になる。
私も、年下の人たちに、同じような想いをさせてしまっているんだろう。
関係先の人たちにも、高圧的な態度に見えていることがあるだろう。
すごくすごくすごくイヤだ。

ジャンケレヴィッチについては、先日読んだ神谷美恵子さんの本で知った。
まずは入門書的な本から始めるか、と思って、この本を選んだ。

とてもよかった。
ジャンケレヴィッチの友人が著し、ジャンケレヴィッチのもとで論文を記した人物が翻訳している。
「自分で考えること」を伝えて来た哲学教師。
私もソルボンヌ大学で開かれた公開講座に潜り込んでみたかったものだ。
フランス語がわからなくても、声を聞くだけで何かを感じることができたかもしれない。

もっと読みたくなって、Amazonで、翻訳本を探したけれど、多くが在庫切れになっていた。
惜しい。久しぶりに図書館通いか。

明日からまた仕事。自分で考えて苦しむわけだから、まあ、価値があるのだろう。

神の痕跡―ハイデガーとレヴィナス

2009-07-25 23:41:32 | Weblog
岩田靖夫著、岩波書房刊

存在への問い。
西洋哲学は、人間に対する、素晴らしいアプローチのひとつだと思う。

自由を倫理という側面からとらえる。
愛によって充足する。
他者への応答。
自分の肉体と不可分な主観。

そして、認識に対する考察が深まる。

こういった本を休日に読むと、即、仕事を辞めたくなる。
他者という鏡なくして、自分はない。
だから、世間の目を気にする。
仕事で求められている役回りに徹しようとする。
そもそも、収入がなくては食事もできないし、生物的に生きてはゆけないとも思う。

でも、自分が代替不可能な存在だと信じたい。
結婚もせず、子どももいない。
生存の根底から突きつけられる「立場」を持たない。
そんな人間が、本当に、自分を代替不可能な存在だと信じられるのだろうか。
もし、信じられるとしたら、それはどこにあるのか。

これはすでに、哲学の領域を越えた問いのような気がする。
自分でも、本を読んでいて、求めているのは哲学ではなく、
ある種の宗教ではないかと感じることがある。

いっそ、新興宗教でもはじめてみるか。

そんな発想は、ニヒルな笑いにしかならない。
私は自分なりの「神学」というか「宗教」を持っていると思うけど、
それを既存の宗教はおろか、新しく団体をつくって、
他人と集い、共有した気分になることは、たぶん生理的にできない。

それほどまでに執着する、私という個。

ふだん、うまく自分をごまかしているのに、
ふと時間ができた週末に、ゾンビのように出てくる自分。

私にとって、仕事は収入のためだけのものではない。
でも、本当に自分のために仕事をしているのか。
そして、自分なんかのためだけに頑張れるのか、と思う。
共存って、なんだ。

日曜日も一人で引きこもる。
願わくば、上の家の子どもが静かで、思索の時間がとれますように。

会話と対話

2009-07-25 11:28:07 | Weblog
昨日、久しぶりに友人と長話をした。
話をしながら、頭のバックグラウンドで、
「話をする」ってどういうことだろう、と考えていた。

いつも仕事でいろいろな人と話をしている。
メインは、仕事場にいる仲間たち。
彼らは独特の世界観をもっているようなので、
会話の内容が肝心な価値観の部分になると、基本的には聞き役にまわる。

双方向のやり取りになるのは、社外の人。
私は仕事場で雑用係をしているから、多い時で30人以上の人と言葉をかわし、
メールは、多い日で60通程度のやりとりがある。

そんなボリュームになってくると、
もう頭の中がざわついて、何かをじっくり考えるような余裕はなくなる。
話をしている相手にとって、一番いいだろうと思われるソリューションを
テンポよく繰り出すことに徹する。
そして、そこそこ上手くハマった時は、それなりにテトリス的な気持ちよさがある。

でも、それは、想定の範囲を超える会話ではない。

そもそも仕事では、想定外のことが頻繁に起こると困るわけだから、
落としどころに誘導するように、話を進めることが多い。
何か不測の事態が起きたときにも、優先順位を決めて、
核がぶれないように情報を整理していれば、たいていのことは何とかなる。
それを順序よく、気持ちよく進めようと努力すると、何年かに1回くらい
「仕事ができる人だ」などというよくわからない賛辞をいただけたりする。

でも、これって飽きちゃうんだ。

昨日会った友人は「ブログを書いてみたら」と勧めてくれた人。
おかげで、このブログを始めた。

私にとってブログを書くことは、その日にあったことや感じたことを
読んだ本の内容を中心に整理して、自分なりの言葉にすること。
でも、日記とは違う。
日記なら、仕事であったイヤなこととか、
悩んでいることをストレートに書くことになるだろう。
それはそれでいいことだと思うけれど、
私の場合、それだと堂々めぐりの感情論になってしまって、
結局嫌気がさして書けなくなってしまう。
本の感想などに置き換えるから、はじめて整理できる気持ちがある。

仕事で交わしているのは「会話」で、
友人やこのブログで行っているのは「対話」、というところか。
私は最近、仕事で「対話」をしなくなったなあ。

騒音

2009-07-23 21:17:30 | Weblog
上の階に住む家の子どもが育って来た。
その家とはまったく没交渉だけど、成長ぶりはうかがえる。

なぜなら、足音が大きくなって来たし、
大騒ぎをしている時間が深夜に及ぶようになってきたから!!!

元気な子どもはいい。
少なくとも、ずっとじーっとテレビゲームをしている子どもよりは、
気があうだろうとも思う。

でも、頼むから22時以降は走り回らないでほしいと思う。
子どもが成長すれば、同時にこちらは歳をとっていくのだ。
相手は体力が向上し、わたしは体力が低下する。
体力の差はいつの間にか逆転し、広がるばかりだ。

お願いのお手紙を書こうと思う。
以前、体調が悪くて休んでいた平日の午後、
あまりにも大騒ぎしていたので、電話をかけて静かにしてもらえるよう
お願いしたことがある。
あれから、すでに5年。
そんな昔のお願いは、とっくに忘れられている。

外で遊べる場所は減っているし、家の中で走り回りたくなる気持ちはわかる。
それに、自分が小学生だったころ、どれだけうるさかったかを思い出すと、
とても他人に注意できるような立場ではないと思う。
家で楽器はならすし、歌はうたうし、踊るし、
まあ、うちは1階だから下の家のことは気にしなくてよかったけど、
トータルで考えると、たくさん音を出していた。
いまでも、休日の昼間は、ピアノを弾いている。
でも、一応、夜は静かにしようと、こころがけるようになってきた。
こんな殊勝なこころがけも、実は最近やっとめばえてきた気持ちだ。

こういう役回りは、順繰りに訪れるもの。
「最近の若いもんは・・・」というのと同じだ。
だから、いまは私が苦情を言おうと思う。

仕事の苦情メールは、なんてラクなんだろう。
書く方も受け取る方も、ある程度は役割として、割り切ることができる。

一方、プライベートは難しい。
対人関係において、精神的な丸裸状態なだけに、逃げ場はない。

なんとなく、主婦の苦労がわかったような気がした。
子どもの学校や、自治会やらで、いつもこんな気持ちになっているんだろう。
仕事をしているほうが、よっぽどラクちんだ。

実は、週末から昨日まで、上の家は比較的静かだった。
もしかしたら、日食でも見に行っていたのか?
それなら、不完全燃焼で、いま、家で騒ぎたくなる気持ちも理解できてしまう。

そんなこと、グルグル考えるまでもなく、
ただ「夜は静かにしてください」と手紙を書けばいいことなのに、
なんで、私はこんなに考えているのか。

今日は・・・、とりあえず気乗りしないから、手紙は書かないでおこう。

摩天楼の怪人

2009-07-22 22:52:58 | Weblog
島田荘司著、創元推理文庫刊。

先日、通勤電車で前に立っていた若い男性が、
満員のなか、身をよじらせながらも一心不乱に本を読んでいた。

まったく、こんな無理をしてまで、いったい何を読んでいるんだ、
と覗き込んでみたら、『占星術殺人事件』だった。
まあ、しょうがないか、納得。
そして久しぶりに島田さんの本が読みたくなった。

若い頃の御手洗潔が、約50年前のマンハッタンで起きた殺人事件を解くお話。
21世紀になったら公表してもいいという殺人事件の真相。
大きな世界大戦が2回もおき、生活スタイルや価値観が大きく変化した20世紀という時代について、
ミステリーにしかできない「喪の服し方」を描いた作品だったと思う。

高所恐怖症の私には、おそらく実際以上に怖く感じるシーンもあったけれど、
とても面白かったので、昨晩は、思わず寝不足。
最後の謎解きの途中でやめることができなかった。

今日の皆既日食で、NHKが硫黄島から中継をしていた。
『摩天楼の怪人』では、太平洋戦争について直接的に語られたわけではないけれど、
激戦地だった硫黄島の景色を見て、なんだか、いろいろな気持ちが去来した。

皆既日食の中継は、まるで台風中継だったけど、
皆既中の上海で、真っ暗な中で雷が光っていたのは、なんだか面白かった。
それにしても、今年の梅雨前線は・・・、少しいじわるだ。

ナスの歯みがき

2009-07-21 22:00:44 | Weblog
昨日ロフトで歯みがき粉を物色していたら、
「ナスの黒焼が配合された自然塩入りの歯みがき」というものを見つけた。

今日の昼食後、使ってみた。

チューブからにゅ~っと出てくるのは、イカスミのような黒い歯みがき。
使用上の注意では、洋服につかないように、と書かれている。
確かにすごく危険な感じ。
歯みがき中、思い出し笑いなんかをしてはいけない。
鼻が詰まっているときは、ずっと口を閉じて磨くわけにはいかないから、最高に危険だと思う。
頭の中でいろいろなシミュレーションをしながら、
とりあえず今日のところは、無事に歯みがきを終えた。

味は普通の塩入りの歯みがきと同じだと思う。
違いと言えば、口をゆすいだとき、洗面台が黒くなるので、
少しいつもよりも念入りに水を流したり、口をゆすぐくらいの違い。
つまり、いろいろな残留物も少なくなるし、
総じて、きれいになる感覚があった。

で、今日は仕事に謀殺されて、いつの間にか16時。
ふと、水も飲んでいなかったことに気づいて、ミネラルウォーターをくみにいったとき、
口の中が、とても快適だということに気がついた。

サッパリしている。
でも、これは塩入りだからなのか、ナスのおかげなのかが、いまひとつわからない。

それにしても、ナスが歯みがきに入るなんて、
商品化には、いろいろな技があるものだなあ。