ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

社会は存在しない ― セカイ系文化論

2009-10-30 22:07:08 | Weblog
限界小説研究会編、南雲堂刊。

昨日同僚に言われた。
「もっと開放的な性格なのかと思っていたけど、かなりの引きこもりで、オタク気質なのですね」と。
「ようやくわかってくれたか」と思って、とても嬉しかった。

その同僚は、私からすると「セカイ系」を凝縮したような存在。
大きすぎるけど希薄な自分という存在のほか、たった一人の心を開く相手がいる。
そして、それ以外の外野は、すべて敵のような存在だ。
その敵という存在は、私からすると単なる想像の産物に見え、具体性をもたないものに思える。

そしていつも、
なぜそんなに漠然としたものに傷つくのか、と思う。

ウィキペディアによる「セカイ系」の定義。
セカイ系とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、
日本のサブカルチャー諸分野におけるストーリー類型の一つである。
セカイ系は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、
具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、
抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と定義される場合がある。

この本は、いろいろな角度からセカイ系をとらえる。
その1つひとつが、その同僚の言動、そして私の思考パターンを裏打ちしているように感じた。
「世代」と言ってしまったら、他愛もないけど。

私は、自分をセカイ系だと思う。その理由は、読む本の好みだ。
でも、正直に言って、純文学とセカイ系の違いが、私にはよくわからない。
私が大好きな三島由紀夫の『豊饒の海』や『愛の渇き』。あれは、セカイ系ではないのか。
よくわからない。

ただ、なんとなくだけれど、
私は自分のセカイ系の部分を、そのままアウトプットしてお金をいただくことに、
すごくすごく大きな抵抗感がある。

そこを割り切るようになったら、また違う展開があるのだろうなあ。

久しぶりの純愛本

2009-10-29 16:10:37 | Weblog
『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。―神谷美恵子との日々』
野村一彦著、港の人刊

久しぶりというよりも、こんな純愛本は初めてかもしれない。
別世界、異文化の本だった。
少女マンガでも、小説でもなく、
実在した一人の男性の日記をまとめたものなので、
なんだか薄汚れた自分にホッとするような気分になった。

日記の執筆者に配慮して、
タイトルは、神谷さんではなく旧姓で載せてあげたらよかったのに、とも思ったけど、
旧姓だったら、私がAmazonで検索したときに引っかからなかったわけなので、
まあ、しょうがないか、とも思う。
人の手にとってもらわなければ、結局は本として出す意味がないからね。

そうなんだ。
本にかぎらす、商品となりうるものって、どんなものだろうと思う。
このブログのような自己満足とは違い、販売するものである場合、
価値は販売側と購買側の両方が認めなければ、売買が成立することはない。

商品を購入するということは、単にそのときお金を払う、ということだけでなく、
一緒に、後からそれに費やす時間や体力も投資している。
もっと別のことをする可能性もつぎ込んでいる。
適正な価格かどうか、というのは、難しいなあと思う。

最近はコンテンツがあふれているし、受け取る側の目もこえていると思う。
多くの類似商品の中から選ぶことができるわりには、
「これ」というものに、なかなか巡りあうことができない。

そして、そんなとき、
感動できないのは、感心できないのは、心を全開にして喜べないのは、
自分の感性が閉じているからではないか、と私は自分を責める。

なにかの過渡期にあるのかな。

収容所群島

2009-10-28 21:04:17 | Weblog
1ー6巻、ソルジェニーツィン著、木村浩訳、ブッキング刊

ようやく読み終わった。長かった。
寝る前に読むと、悪夢を見る。深く深く心に沈殿する。
どんどんつらくなって、最後のほうは斜め読みになってしまった。

旧ソ連の収容所については、いろいろな本で語られているし、
雑誌などでも読んだことがある。
また、以前、カンボジアの強制収容所を訪れたことがあるので、
そこで見たことや、ガイドさんから聞いた話などが重なって来て・・・、
複合的に、どんどんどんどんこわくなった。

何と言っても、一番こわいのは、
その場にいたら、自分も、それに加担してしまうだろうと思うこと。
いくらでも仲間をいじめ抜いてしまうだろうと思う。

あまりにも得体がしれなくて、どうも言葉としてまとめられない。
そんな気分だ。

最近、仕事をしていてよく思うのは、
人は、自分の弱さをかくすために、いろいろとごまかし、隠蔽するものだなあ、ということ。
なかでも一番痛むのは自分の心。
心をごまかすために、たくさんの理由をひねりだす。
この発想力はものすごい。

現実世界なんてなくて、仮想の世界で生きている。
バーチャルだ。

それならせめて、楽しいことを考えたい。
でも、他人を傷つけることに楽しみを感じてしまったら・・・、
きっと発想力を駆使して、理由を見つけるんだろうなあ。私も。

体力と気力

2009-10-27 21:05:47 | Weblog
むかし部活をやっていたときは、筋トレが大嫌いだった。
体力づくりが、なぜ精神力に直結するのか実感がなかったし、
なんだか「筋肉バカ」みたいで、かっこわるいなあ、とも思っていた。

でも最近、むかし運動部に入っていてよかったと実感している。

まず、自分が体力的な限界に近づいたとき、どんなふうになるのかを明確に認識している。
疲れが蓄積している状態や、それが限界なのかどうかがわかるし、
同時に、判断力や気力がどのように奪われていくのかを知っている。
つまり、どのくらい自分が「ヘタレ」なのかを自覚している。

だから、何かをやるときにはペース配分ができるし、
その感覚があるから、慌てずに自分自身と会話ができる。
まだ頑張れるのかどうかと。
これまでは、それで済んでいたし、うまくいっていたと思う。

中年になって、どんどん体質が変化している。
これから先は、自覚していない疾病もどんどん出てくるだろう。

そんな自覚できない経年劣化に、どこまで対応できるだろう。
これまでの自分との会話では、ついていけないような気がする。
「老い」とどのように付き合うのか。

周囲の少し年上の人を見るとき、自分の身に置き換えて考えるようになってきた。

こどもに胸をはれる仕事

2009-10-26 20:23:23 | Weblog
私よりも10歳ほど目上の男性が、
「こどもに胸をはって語れる仕事がしたい」と言って、方向転換した。

もともと自分で会社をやっている人だったのだけれど、
業務内容を大きく転換することになった。
きっと、少し前から自宅で仕事をするようになったので、
学校から帰って来たこどもに仕事場を見られることが増え、
気持ちが動いたのだろうと思う。

これからの仕事の内容は、脱サラに近い。寅さん化とも言える。
ホワイトカラーからブルーカラーへの転換だ。
でも、胸をはって、自分の仕事は社会貢献だ、と言えることのほうが
彼にとっては重要なのだと言う。

稼いだお金の大小だけが仕事の価値ではない。
嫌々仕事に行く父親を見るのは、こどもにとってよくないことだとも思う。
でも、ある程度は稼がないと胸がはれないのも事実だと思う。

我慢しても会社や仕事のために努力する姿は、それはそれで素晴らしい。
でも自分の本分をさがし、それに向かってあるとき飛躍できる姿もカッコいい。
私にはこどもがいないので、そんな観点で仕事を考えたことはなかった。

昨日、サザエさんを見ていたら、波平さんがゴルフで入賞して賞品をゲットしたときに、
こどもたちが玄関まで迎えに出るシーンがあった。
まるで獲物をしとめたサバンナの肉食獣の姿を見ているようだった。
なんだかホッとして懐かしい気持ちになると同時に、
すごく後ろめたい気持ちにもなった。

私はよく「肉食系」と言われるけれども、
だれか守るべき人のために狩りをしたことはないような気がする。
なんだか自分がすごく足りない人間のような気がしてきた。

ただ、それを受け止めて、悩むことを楽しもうと思う。

追悼

2009-10-25 22:56:59 | Weblog
昨日、ある作家さんの追悼座談会を聞きにいった。

中学生のころ、コバルト文庫にはまった。
そのときの人気作家さんが、少し前に亡くなった。
友人の作家さんや漫画家さんが故人の思い出を語る、というもので、
なかなか面白かった。

ずっと忘れていたけど、当時、書店に貼られていたコバルト文庫のポスターに
話が及んだとき、一気に時をこえて、思い出された。
そうだ。その作家さんは、あまりにもあっけらかんと楽しんで写真におさまり、ポスターでこちらを見ていたから、
当時、鬱屈していた私としては、きっとこの人の文章はまぶしすぎる、と思って敬遠したのだった。
作家というものは、もっと内向的なものだと、勝手にイメージを固定していたから。

その後、帰りの電車の中で、
当時読んだコバルト文庫の内容がいろいろと浮かんできたのだけど、
見事に署名も作家名も忘れている。
ただ、母がコバルト文庫を読むことに反対していたので、
宿題をやるフリをして、こっそり読んでいたことを、よくよく思い出した。

こう考えると、親の検閲というか、思想教育は、
まったく効力がない場合もあると思える。
コバルト文庫の中でも、私は自分が読みたい本と、いまは読みたくない本をちゃんと選んでいたわけだし、
それによって、母が懸念していたような流行に流されやすい人間になったとは
いま自分では思わないから。

亡くなった作家さんは、自分の小説が漫画になったり、テレビドラマになったとき、
そのカタチが移り変わっていくことに、無頓着だったらしい。
違う媒体になれば、違う表現がある。
それをおおらかに楽しんでいたようだし、
読者一人ひとりの受けとめかたに託していたようだ。
本当のカリスマ性をもった人というのは、そういうものなのだろうか。

少し引きこもって、文章しか自分を表現する方法がない、
というところまで、少し自分を追い込んでみたくなった。
そして、またコバルト文庫を読んでみたくなった。

たまには 和

2009-10-24 09:55:14 | Weblog
昨日はチベット展に行った後、「皇室の名宝」も見に行った。
和はいい。

細かいところや、あまり目につかないところも、
きちんと丁寧に、手を抜かずに作っている。
若仲さんは、きっと鶏が大好きだったのだろう。
優雅で優美な鳥よりも、鶏がなんとも生き生きと、生命として美しく描かれていた。
対象を愛して描いているのって、どれだけ時が経っても伝わるもんだなあ、と感心した。

明治や大正に作られたものは、
確かに技術は素晴らしいし、繊細で完成度は高いんだけれども、
なんというか、江戸時代の作品に比べると、
「面白さ」は、どんどん減ってきたような印象を受けた。

とはいえ、やはり「和」はいいなあ、ホッとすると思った。

もうすぐすると、この展示会の展示物は入れ替わるらしい。
正倉院の宝物も見たいので、もう一度行こうと思う。
あの頃のものになると、「和」はいいなあ、と思ってキャプションを見ると、
中国や朝鮮から持ってこられたものであることも多いし、
日本で作られたものであっても、渡来人が作ったというものも多いから、また面白くなる。

そんな総称が「和」なのだけれど、
きっと心のどこかで、日本のお寺や庭園などを思い浮かべながら
宝物たちを見つめるので、勝手にこれは「和」だと、情報を補っているのだろう。

外国人から見れば、中国も朝鮮半島も日本も、
同じようにくくられて混同されてしまうのは、
この微妙な情報の「補完」がなされないからかもしれない。

イメージというのは、その場で受け取ったものだけではなく、
過去のあらゆる経験が多層的に補い合って作られるものなのだろうなあ。

チベット展

2009-10-23 23:00:27 | Weblog
今日は、上野で開催中のチベット展に行って来た。

最低最悪であることを覚悟して行ったので、
思っていたよりも展示物が多かったことはよかった。

印象としては、チベット外交史の一端、という感じだろうか。
外国からの贈答品というような、
美しくて小振りな仏像が、とても平坦に並べられていた。

確かに保存状態がよくて、見栄えがするものが来ていたけど、
ライティングものっぺりしていたし・・・、
ご本尊級のものと、どちらかというと端役のものの区別もあまりつけられていなかったし、
信仰の対象と言うよりも、フィギュア売り場に迷い込んだような気分だった。

これだけ見たら、チベット仏教は金ぴか仏教だ、という印象かな。
まあ、チベット主導ではない展示会なんて、こんなもんだろう。
しょうがないさ。主催者側の狙いどおりといったところか。

せめてジョカン寺の雰囲気でも出てたらねえ。
ダライ・ラマや高僧に関する資料も、申し訳程度にしかなかったし、
このフラストレーションを払拭するには、
もう一度、ラサをはじめ、チベットのお寺に行くしかないけど、
そのときまで、残っているといいなあ。

ひとつだけ、日本で行っている展示会ならではだなあ、と思ったのは、
歓喜仏の腰回りが隠されていなかったこと。
中国ではよく、布などがグルグル巻きにされていたり、
ガラスケースに目隠しがしてあって、見えないことがある。
この点は、さすが日本。

チベットの文化や信仰が、ちゃんと残されて行きますように。

花の生涯 梅蘭芳

2009-10-22 18:41:55 | Weblog
今日は、東京・中国映画週間で、陳凱歌監督の作品「花の生涯 梅蘭芳」を観た。

梅蘭芳は、中国の京劇を代表する役者さん。
たぶん中国人で梅蘭芳を知らない人はいないだろう。
これは、その生涯を描いた作品。

陳凱歌監督の映画は、いつもどの作品を観ても、知らないうちに、その世界に没入している。
頭で考える必要などない。すんなりと実際にその場にいるような気持ちになる。
本当に優れた映画を撮る監督さんだと思うのだけど、
どこが、これほど傑出しているのか、と、いつも思う。

「花の生涯 梅蘭芳」は、途中少しモッサリした印象を受けるものの、やはり面白かった。
ただ、
・西太后は京劇が大好きだった。
・梅蘭芳は男性だけど、京劇の舞台の上では女性を演じている。
・上海には昔、疎開があった。
というようなことに馴染みがない人にとっては、「これはなんだ?」と思うことが多くて、
やはり付いて行きづらいと感じる作品かもしれない。
とはいえ、このタイトルで「観に行こう」と思うような人なら、ほとんど問題はないのだろう。
よけいな説明などはなくて、スッと人物描写に入り、
たくさんいる登場人物それぞれについて、その個性を十分に伝えている表現は、本当に素晴らしかった。

帰りの電車の中で、いろいろなことが心に浮かんだ。
映画にはいろいろな魅力があるけれども、私が一番おもしろいと思うのは、やはり人物描写。
人の顔を見るとき、一番注目するのは、その人の目。次に口元。
役者さんの演技の大半も、この2つのパーツの表現がポイントになっている。

例えば、すごいCG映像があっても、
まだ人の表情の表現は、人間のもつ表現力に達していない。
ゲームなどに使われているCGは、どんどんレベルが上がって来ているけれども、
2時間以上に及ぶ人物描写をCGだけで、
生身の人間のようなリアリティで描いて持たせることは、まだ無理だろう。
もちろんアニメの手法を使えば可能なのだけど。

そして、この映画の場合、作中に京劇という舞台が入っている。
舞台は、観客に役者の表情までをつぶさに見せることが難しいので、
ポーズや衣装などの「きまりごと」があり、
そこに「声や歌」「身のこなし」という表現力が加わる。

見せ方が映画とは違う舞台というものを、どのようにスクリーンで見せるか。
ここには、カット割りやカメラアングルなど、独特の計算が必要なのだろうと思う。
よく、舞台をそのままテレビで流していることがあるけれど、
そんなとき私は、いっそのこと音だけを聞きたいと思う。

アニメと舞台の主な違いは、どこだろう。
表現が記号化されている、という切り口で考えたら、どんな共通点があるだろう。
などと考えて、結構楽しかった。

そして、梅蘭芳のお師匠さんが、「定軍山」を演じるシーンが少しだけあったのだけど、
「ああ~、夏侯淵かあ、懐かしいなあ」と、知り合いではないのに、感慨に耽ったりと、
とても楽しい時間を過ごした。

映画は、観た後の時間が楽しい。

うすもや

2009-10-21 20:40:09 | Weblog
今日はどうも、心の中がもやもやする。
なんだ、これは。

きっとバックグラウンドで、なにかが走っているのだろう。
でも、何がそんなにCPUを占領しているのか、いま表層には出て来ていない。
ああ、今晩は悪夢を見るなあ。

今日、仕事で中国の人と話す機会があった。
いつも思うんだけど、中国の人は何かトラブルがあった場合、
日本人のようには謝罪しない。
「ああ、そう。そうなんだ。じゃあ、こうしよう」と、とても前向き(?)だ。

その回答があまりにも「あっけらかん」としているので、
日本人からは、不誠実に見えることがままある。
「なぜ謝らないんだ。お前は」と、日本人はムッとし、話が頓挫すると、
中国人は「なんで? こっちの事情は話したし、解決策は見つかるはずでしょ」となる。

このすれ違いは、ハタで見ていると、とても面白い。

今日は、ハタで見ていたので、正直言ってかなり面白かった。
ただし、この「ハタで見ている」という心理的な距離感が、
きっと心がモヤモヤしている原因のひとつなのだろうと思う。

冷めてしまったんだろうと思う。
でも「冷めてしまってはいけない、やらなければ」と、
何とか自分を鼓舞しようとして、それで疲れている部分はあると思う。
コロコロ変わるのは、秋の空と女心だけではない。
日替わりだとワクワクするのはランチだけで、仕事が朝令暮改だと疲れる。

最近よく思うのは、人の言葉を、そのまま鵜呑みにしてはいけないということ。
心の底から絞り出しているような言葉であっても、それがそのまま真実とは限らない。
すべてを言い尽くせるような言葉なんて、そうそうあるものではないし、
それに、何かを隠蔽していることもあれば、口に出したことでスッキリしてしまい、
違う気持ちになることは、誰にでもよくあることだ。
私にだってある。
だから、朝令暮改でも、その相手を責める気はしない。

ただ、冷める。冷めてしまう。
根気がない。当事者意識がない。
何と言われようが、冷めてしまうんだ。