ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

筋肉痛

2010-10-25 20:06:04 | Weblog
筋肉痛である。
原因は、機織り。
昨日、無理な体勢で縦糸を仕掛けていたためか、
ちょうどいい高さの椅子がなかったため、
キングスライムのようなバランスボールの上に座って2日間機織りをしたためか、
とにかく、腰と太もも(内側と裏側)が筋肉痛である。
なまっている。

さて、今朝、電車のなかで筋肉痛のため揺れに耐える立ち方を模索しながら、
頭の中がボーッとしていたときに、
ふと、母がものすごく共産主義を大嫌いだったことを思い出した。

小学生のとき、ソ連、中国、北朝鮮、東ドイツという存在を知った私は、
母に、これらの国のことを質問した。

母は、私に輪をかけて好き嫌いがハッキリした人だったので、
いきなり「共産主義は嫌いよ」から話し始めた。
感情論から始まるけど、よくよく聞いてみると、その話は魅力的なことが多い人だった。

嫌いな理由は単純。
共産主義は、家族を解体して、個人と党のつながりを最優先させる。
つまり、共産党の私のつながりの方が、母と私のつながりよりも優先される。
そんなのって、耐えられないし、人間としての本質に反している。
無理だという以前に、意味がない、と。

ぽかんとしている私に、母は追い打ちをかける。

例えば、と話が続く。
仕事も住むところも党が与えてくれるんだけど、
母も私も気管支が弱いのに、党からお父さんが、
「あなたの仕事は高速道路を作ることなので、高速道路の下に住みなさい」と言われたら、
文句は言えないし、ありがたい、って言わなきゃいけない。

お父さんは、家族を幸せにしようと思って仕事を頑張るのに、
どんどんどんどん排気ガスのせいで、家族の気管支が悪くなったら、悲しい。
仕事や住むところを自由に選べる、というのは、
真の平等のために、とても大切なことなのよ。
人は、それぞれ違うのだから、と。

家族を大切にするということは、
自分以外の人を大切にする、ということ。
そして、町で出会った見ず知らずの人にも家族がいる、と思えることは、
やさしさが広がって行くこと。

だから、共産主義は、人間にとって一番大切なことを見失いがちなとても難しい思想だし、
根本的に「つくろうと思ってつくる」ものではなくて、
「中にいる人が気がつかないうちに出来ているはずのもの。しかも失ってはじめて気づくものなのだ」
と言っていた。

同様の理由から、お国のために死にましょうも大嫌いだった。
この世に、家族以上に大切なものはない、というのが母の口癖だった。

ということで、私が中国に留学したいと言った高校生のころ、
まず最初にちらりと否定的なことを言ったのは母だった。

中国の反日デモについて

2010-10-25 02:23:38 | Weblog
眠れないのは、明日、会社に行くのがイヤなのではなくて、
困ったことに、充実した休日のおかげで、思考が回り始めてしまったためだ。

中国の反日デモ、日本人としての反感をいったん保留して、いろいろと考えてみる。
そんな余裕がうまれたのは、中共が、本格的にデモを「ストップ」し始めたからだ。

中国で起きるデモは、ほとんどが政府主導のデモで、
反日デモであってもそうだったらしい。

もとより、反日教育が盛んになったのは、天安門事件の後からだ。
自国の政府に対して意見を言う人民よりも、
「日本帝国主義」に敵愾心を持っている愛国的な人民の方がいい。
そんな国民を育てようと江沢民が思った、と言われているらしい。

そのへんの中国の国内事情は、もう他人には口の出しようがない。
しょうがない歴史があるのだし、それをいまの人が、
どのように解釈し利用しようが、これは止めようがない。

ただ、反日デモのおかげで、
私は、「デモってなんだろう」と考える機会をもらえた。
暴徒に襲われた店舗や日系企業、不安な気持ちを抱えている
現地の日本人には申し訳ないのだけど。

右翼でも左翼でも、そんなことはどうでもいい。
どちらかが決定的に正しくも、間違ってもいない。
人間が何かを考える時、「枠組み」が必要だ、ということにすぎない。

ただ、デモという行為は少し違う。
これは、決定的に、根源的に、「革命」を求める行為だと思う。
また、「革命」を求めないデモは、デモではない。
だから政府主導の作られたデモは、デモではなくてマスゲームだ。
一方、主体的に行われるデモは、多かれ少なかれ「革命」への願望を帯びていて、
それへの熱望の度合いや、純化といった点では、いろいろな意見が出て来ると思うけど、
行為のあいだに、その目的や手段が純化される、純化されすぎてしまうという可能性はある。

大学生の就職が厳しい点では、中国も日本も同じだ。
いい大学に入れば普通よりは上の生活が保証されると言われて頑張ってきたのに、
卒業するいまそんな将来はない、と知った大学生たちの絶望は、
当然に、革命をもとめる要素をもつだろう。
この絶望の度合いは、中国人は日本人の比ではないと思う。

もし、あえて、デモをする中国とデモをしない日本の大学生の違いを挙げるなら、
「エリートであれば、社会的地位を得て、いい生活ができるはずだ」という中国人と、
「大学出るのは当たり前という親のためで、本当は、
お金やいい生活よりも、自分らしく生きたいと思っているんだよね」という日本人の違いかな。

だから、いまの日本の感覚で、
中国の大学生が行っているデモを見るのは非常にズレている、ような気がする。
安保闘争のころを思い浮かべて、中国のデモを見たときに、
はじめて代替戦争ならぬ代替デモと、中国政府の対応が見えてくるような気がする。

と、勢いで書いて、落ち着いたので、やっと眠れそうな気がする。