ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

イグアナの娘

2009-03-31 23:40:04 | Weblog
萩尾望都、小学館文庫。

先日『母は娘の人生を支配する』を読んで、その中で紹介されていたので、
友人からさっそく借りた。

私は一人娘なので、よくわからないけれど、
姉妹のいる友人からは、よく「母は妹のほうが好きみたいだ」とか
「姉のほうがかわいいらしい」と聞く。
当人だけの言葉を聞くと、本当にそう信じられてくる。

本当にそんなことがあるのか???
と思うけれど、頻繁に耳にするから、実際にあるのだろう。
ただし、姉と妹、両方と友だちである場合、
得てして、姉は「妹のほうがかわいがられている」と言うし、
妹は「なにかにつけて姉のわがままは通っている」のように、
お互いがお互いを「ずるい」と思っているみたいなので摩訶不思議だ。

特に、母プラス姉妹という図式は、濃い。

私の母には妹がいるが、その叔母との付き合いが、私は一番難しいと感じている。
なぜなら、姉である母との確執を、私にまで敷衍してくるからだ。
その一番の理由は、私と母の顔や声、しぐさが似ているから、
私を見ていると、どうもモヤモヤくるということらしい。
これを「とばっちり」と言う。

でも、こういったとばっちりは意外と多い。

人は、知らず知らずのうちに、周囲の人の影響を受けて似てしまうことがある。
それが、母親なら当然。
そして、自己嫌悪から、自分に似ているものを憎んでしまうのも当然。
ナルシストが、歪んで出ると、そんな感じになってしまう。

私は、母に似ている部分があるけど、というか無理して似せていた部分もあるけど、
以前父が、「おまえは母親が一番コンプレックスに感じていたことを
まったく何とも思っていない。だから全然違う人間だよ」と言ってくれて、
救われたことがある。

読んだ後、思っていたほどには暗くならなかった。

迷宮の将軍

2009-03-29 19:55:19 | Weblog
ガブリエル・ガルシア=マルケス著、木村榮一訳、新潮社刊。

中南米諸国をスペインの植民地から解放した将軍。
権力の座を追われ、失意の迷宮にあった最後の7ヶ月。

絶頂の時期ではなく、その失意の最晩年を書くのが、
いかにもガルシア=マルケスらしい。

小説の内容は、迷宮の中にいるところを書いているだけあって、
もやもやして、つらくて、真綿で首をしめられているような
とてもゆるやかな閉塞感がある。
疲れていたり、落ち込んでいるときに読むと、もっと暗くなってしまうかもしれない。

でも、そんな迷宮の中にあっても、人は命がある以上、なんとか活路を見出そうとしてしまう。
人間の中にある根本的な生きようとする力、
どうしても諦めらめることなどできない上昇への執念のほうが、
私の心には、強く響いた。
このどうしようもない「流れ」こそが、命があるということなのだと思う。

そして、決定的な死の瞬間が描かれるのではなく、ゆるやかに訪れる「死」。
最後のシーンは、いささか唐突だ。
「次の土曜日は喪に服して家が閉め切られ、そのせいで窓の外に咲く黄色い花を見ることはできなかった。
さらに、生命のきらめくような光がみられた。
それは以後何世紀にもわたってふたたびあらわれることのない輝きだった。」

なぜ「さらに、生命のきらめくような光がみられた」と続くのか。

いつも深い深い余韻の残るガルシア=マルケスの文章。
この一文に出会うための一冊なのだと思った。

夜の来訪者

2009-03-27 23:27:27 | Weblog
プリーストリー著、安藤貞雄訳、岩波文庫。

また酔った勢いで、Amazon.comの注文を確定してしまった。
で、家に届いた箱を開けて、「こんな本、注文してたんだ」と思った一冊。

イギリスの劇作家によるサスペンスで、舞台や映画でよく使われているお話。
裕福な実業家の家庭が舞台。
ある夜、娘の婚約祝いの団欒のときに、警部を名乗る男が訪れ、
若い女性が自殺したことを告げ、その自殺に全員が関係していると暴露していくお話なんだけど、
きっと、「裕福な実業家の家庭の傲慢さ」に何となくピントがあって
注文を確定したんだったんじゃないか、と自己分析した。

つまり、いつカートに入れ、注文を確定したのか、まったく記憶にない。
今週は仕事が忙しかったとはいえ、これは末期症状だ。

話の展開はテンポがよく、
また、特権階級だと信じている裕福な家庭のお父さん、お母さんがとても鼻について、
なんだかフラストレーションがたまっている金曜夜の仕事帰りに読むには、
とても痛快な内容だった。
ネガティブな読み方だけど。

「家」に対する忠誠心ねえ・・・。
明日は従弟の結婚式なので、久しぶりに親戚たちが集まるのだけど、
私も久しぶりに血のつながり、というやつを感じるんだろうなあ。
この本の感想が、私の心の中でどのように変化していくか、それも楽しみだ。

宗教画に対する一般的な印象

2009-03-25 23:50:16 | Weblog
今日は、ふと思ったことを少し。

昼間、なかなか素敵な絵を見た。
色づかいはやさしいし、東洋的な「幽玄」な雰囲気がよかった。
蓮の華や、ちょっと曼荼羅のようなモチーフ。
ただし、バリバリの宗教画ではない。

でも、パンフレットすら、あまり手にとってもらえないらしい。

ある人の意見によると、それは、モチーフが仏教色に偏っているせいだという。
十数年前にあった、ある仏教系の新興宗教による負のイメージが、
いまでも影響しているのだと。
つまり、そういった絵に興味をもっていることを表明してしまうと、
絵の後ろ側にいる新興宗教に勧誘されるのではないかと、みな心配するというのだ。

あの事件は、まだ風化していないんだ。

私は、完璧に宗教の勧誘を断る自信があるから、
少しくらい宗教色の出ている絵や音楽でも、ぜんぜんこわくない。
好きなら好きという。
宗教の勧誘、キャッチセールス、何でも来い!と思ってる。
でも、道を歩いていても宗教の勧誘されたことないなあ。
なんせ、ナンパすらされたことすらないし。←これは自慢にならないか。

それでも不思議だと思うのは、
頻繁に美術館では仏教美術の展覧会をやっていて、すべて満員御礼なこと。
鑑真和上像も、一年のうち限られた日数しかお会いできなかったはずなのに、
東京まで来てくれるようになったらしい。
たまたま、鑑真和上像に会えた修学旅行の思い出が一気に色あせるような気分だ。
これは、ちょっとした愚痴だけど、
みんなもっと宗教には寛容なのかと思ってた。

新興宗教と、文化遺産は違う、ということなのかな。
私にはよくわからないや。

不可能な交換

2009-03-24 23:19:16 | Weblog
ジャン・ボードリヤール著、塚原史訳、紀伊國屋書店刊。

少し背伸びをして読んでみたけれども、とても面白い本だった。

改めて、西洋にとってのキリスト教の存在感を知ったように思う。
キリスト教の世界が、ある意味で決定的に無力化したことが、
こんなにも個人の存在の根幹にかかわる一大事だったのか。
日本は、敗戦のショックと平和ボケ、なんて言われるけれども、
そんなことの比ではないほどの喪失感があるのかもしれない。
そう思った。

そして、文中に出て来たカッコ書きの一文が、とても心に響いた。

(悪を為すことができなくても、他人を不幸にすることなら、いつでも可能だーー
もっとも、それもまた他人を幸福にするのとおなじ錯覚ではある)

うむ。
仕事をしていると、頻繁にこんな状況に出くわす。

私は、どんな組織、どんなプロジェクトに属していても、
常に「思想」の自由は持ち続けたいと思う。
たとえその「思想」が幻想に過ぎなかったとしても。

でも、普通はそんなことはゆるされない。
「他人(組織)からこう求められているから、これが正しい」と
自分で勝手に思い込んだ考え方に則り、そういった言動をとる。

でも、そこでもう一度「でも」と思う。
私の「思想」の自由は、どこかで保ち続けたいと。
だって、他人(組織)にとって、私はただの「交換が可能なパーツ」に過ぎないから。

そう思って考えたり行動をしたりはじめると、
他人を「不幸」にしたり、他人から「不幸」にされたりする確率があがる。
そして、その傷つけ傷つけられ、ということ自体が錯覚だったりする。
そもそも、相手はまったく違うようにイメージしているかもしれないし、
私も曲解している可能性は大きいのだから。

私は、交換ができない存在である。
それを「神話」が与えてくれないのなら、せめて幻想的な私の「思想」を信じたくなる。
これが私にとっての「オタク」な世界。

英語のプレゼンはつらい

2009-03-22 22:05:51 | Weblog
日本人による英語のプレゼンは、話す方も聞く方も両方つらい。
ただでさえメリハリがないプレゼンが、英語での緊張によってよけい平坦になる。

でも、英語のプレゼンが下手な日本人は、なぜかマジメで誠実な「いい人」に見える。
一方、プレゼンが下手な白人は、頼りなくて不誠実に見える。
先入観って、こわい。

私は英語がダメだけれど、予備知識がある分野であれば、かろうじて聞き取れる、
というか、何となく何を話しているのかはわかる。
でも、日本語でも理解していないことを、まして英語で初めて聞いて理解するのは無理。

今日は、3社による最先端技術のプレゼンを聞くことがあった。
半分くらいかな、理解できたのは。

途中で英語にアンテナをあわせるのが辛くなって来て、ついつい空想に走ってしまった。
3社による、プレゼン。それはまるで、三国志。
さて、魏呉蜀それぞれの君主にこのプレゼンをさせたら、どうでしょう。

まず、一番魅力的なプレゼンをするのは、間違いなく曹操でしょう。
豊富な実験データ、論理的な展開と独創的な発想、そしてカリスマ的な語り。
居並ぶ聴衆が、話に引き込まれること間違いなし!
でも、少し展開に強引なところがあって、誰かがそこにツッコミを入れると、
ふいに機嫌が悪くなって、途中でプレゼンを切り上げてしまうかも。
ちょっとこわい。

次は、呉の孫権。
なんとなく自分ではプレゼンをせずに、周瑜や陸遜に任せるような気がする。
魯粛は、最新技術のプレゼンはかわいそうだから、孫権の横で一緒に話を聞く。
周瑜は、ビジュアル的にとてもいいだろうと思うけど、
こちらの理解が悪いと、露骨にバカにされるような気がする。
陸遜も同じで、バカは横目でちらりとにらむ。
内輪でやってて、と言いたくなるような気がする。

最後は蜀。
劉備は、なにげに権威主義だから、「うちのが本家本元」ばかりを強調されて、
聞いてるうちにしらけそう。
ここで諸葛亮が出て来たら、そりゃーバッチリ決まるだろうけど、あえて封印。

場がしらけたところで、関羽がフォローするものの、
マジメで誠実すぎるから魏や呉の技術も正直にほめてしまい、
聞いている方はそれぞれの人格にひかれるけど、プレゼンとしてはますます混乱。
しかも、大けがの治療をしながら平気でプレゼンをするものだから、
見ている方のなかに、失神者続出! 
張飛の場合は、酒の飲み過ぎで、そもそもプレゼンの時間に遅刻しそうだから、
こういった場合、あまり戦力にはならないだろう。

と、想像しているうちに、いつの間にか時間が過ぎていた。

ダライ・ラマ 科学への旅

2009-03-21 21:16:44 | Weblog
原子の中の宇宙。ダライ・ラマ著、伊藤真訳、サンガ刊。

ダライ・ラマの魅力のひとつは、あくなき探究心。
その守備範囲は、仏教を中心としつつも、量子物理学や生命科学など、とてもとても広い。
好奇心旺盛な、70歳を超えた一人の魅力的な人間だ。

チベット難民の学校に西洋科学を学ぶ課程を入れたりと、
よいと思ったものは、どんどん取り入れる。
そして、その「よい」という基準が、
この世に生きる人々から「苦」がなくなるように、という慈悲心からだからすごい。
西洋科学というアプローチは、仏教と決して相反するものではない。

そして、仏教を学び深めるなかで育んだ緻密な論理的思考と、
瞑想から得られた深い智慧は、西洋科学を進めるうえでも、
新しいヒントを与えてくれる。
だからこそ、西洋の著名な科学者や哲学者が、ダライ・ラマとの対話を求め楽しむのではないか。

ダライ・ラマは、自分は数学を学習したことがないから、数学は苦手だと言っているけど、
仏教経典の学習をとおして、あらゆる論理的な思考法を学んでいる訳だから、
私の文系受験用高校数学のレベルなどは、はるかに超えている。

さて、さきほどテレビでやっていた古代エジプトの特番。
最後のほうだけ見た。

ふむ。ツタンカーメンは感染症で亡くなったという説なのか。

小学生のときに読んだツタンカーメン王墓の発掘記。
王妃アンケセナーメンがツタンカーメンに最後に送った矢車菊の花束。
あのくだりを読んだとき、とてもとても涙が流れた。

エジプト、一度行ってみたいなあ。

スポーツの実況中継

2009-03-20 11:02:39 | Weblog
ふだんは野球を見ないのだけど、WBCの中継はなるべく見ている。

スポーツは、二度と同じ試合が見られない。
刻一刻と風がかわり、人の強さと弱さが出る。

舞台の芝居に似ているけれども、目に見える「勝負」という結果がついてくるものなだけ、
厳しさがあると思う。
また、ある個人が演出などで「大いなる神」を演じたいと思ったとしても、
そんなエゴは通用しないのが、スポーツの世界。
私が芝居よりもスポーツ観戦にひかれるのは、
きっと、ある個人が描く「大いなる物語」に対する期待が小さく、
もっと混沌としたものに惹かれるからだと思う。

さて、スポーツをテレビ観戦していて、最近思う。
日本の野球中継は、レベルが高い。
カメラアングルも実況や解説の話し方も、ある落ち着く型ができている。
試合のペースにあわせた間合いというか、進行がみな上手だと思う。
あるチャンネルでは、無理にアイドル的な人を出そうと無理することもあるが、
全般的に見て、レベルは安定している。
さすが、ほぼ毎晩中継をしている国民的スポーツなだけあるし、
きっと日本人メジャーリーガーが増えたおかげで、
海外の中継との比較も加速し、全般的に中継レベルが向上したのだろう。

それに比べると、サッカーやバレーボールの中継は劣ると思う。
まず、音が多すぎるし、騒がしすぎる。

サッカーについては、カメラワークも実況や解説の話し方も、まだ歴史があさく、
「これでいいの? みんなわかる? 楽しい?」と探っているように感じるし、
解説で来ている専門家のコメントが、まったく解説になっていないことも多くてびっくりする。

確かにスカパー!で海外リーグの放送を見ていると、
かなり「自由」にやっているから、サッカーとはこういう競技なのだ、と言えばそうかもしれない。
でも、海外の中継の場合は、無音の時間と言うか、間合いのとり方がうまいんだよな。
野球とサッカーはリズムが違うから、同じ方法は使えないけど、もう少しこなれて欲しいと思う。
サッカーは、テレビ中継よりラジオ中継のほうが上手なので、
たまにテレビの音を消して、画面はテレビ、音はラジオ、というコンビで観戦している。

バレーボールは、もともと好きだったので、20年前はよく見ていたけど、
最近は、私の守備範囲をこえたアイドルの若い人たちが映る回数が多くて、
試合に集中できるような雰囲気ではないから、まったく見なくなった。
あれは、すでにスポーツの中継ではないと私は思う。

その点、テニスはスポーツの特性が出ているのか、静かで集中できる中継だ。
その他、あまり人気がないスポーツの解説も、変に盛り上げようとしていないから、
落ち着いてていい。

WBCの韓国チームの監督、きっとものすごくいい人で、
尊敬を集めているんだろうと思う。
5回目の対戦がかなって、そしていい試合ができますように。

モルダウ

2009-03-19 22:47:13 | Weblog
スメタナ「わが祖国」より。

今日の午前中、仕事場でラジオがかかっていた。
ふいに、モルダウが始まった。すごく美しい旋律だった。

あれは、小学生か中学生のとき、音楽の縦笛の課題で「モルダウ」を吹いた。
あまりの美しい旋律に、笛を奏でることを本当に楽しく感じ、
旋律とは、人の息吹そのものなのだと思った。
それは、ピアノを弾いている時とは、またひと味違った音との一体感だった。

それ以来、モルダウがかかると全神経が耳に集中してしまう。
仕事でどんな真剣な話をしていても、「あ、モルダウだ」と条件反射。

同僚の女性は、音楽を楽しむとき、曲を聴いて絵のイメージが浮かぶかどうかが
好きな曲とそうではない曲の判断基準だと言う。
それは作曲者の思い描く絵ではなく、彼女自身の心象風景。

私は違って、音だけに集中できるかどうかが、好きかそうではないかの基準。
ある意味視界も、自分という身体のカラも、そして精神の境界すらなくなる世界、
ただメロディーにたゆたい、あたたかく、もわもわしていて、それでいて凛としている、
すべてが渾然一体となった世界。これが私にとって気持ちがいい音楽の世界。

そんな気持ちにさせてくれる曲のひとつがモルダウ。
聴いていると、とてもせつない気持ちになる。

今日は暖かかった。
うちの前の桜が、ほんの少し咲いた。

チャイコフスキー 交響曲第1番、第2番、第3番

2009-03-18 22:04:35 | Weblog
CD2枚組。 マゼール指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。

とても美しい。
旋律も美しければ、オケの演奏もいい。きっと指揮者もいいのだろう。
朝の通勤電車の中で、聴きながら鳥肌が立った。

もともとチャイコフスキーは好きだけれども、
そして10年ぶりくらいに聴いたことによって、
一気に第一音から何かのスイッチが入ったようにも思うけど、
でも、それでもやはり演奏がよかったから感動したのだと思う。
うん。いいCDを買った。

先日、はじめて気がついたのだけど、
私が好きな曲は、どんな時代のどんな曲であっても、
あまり「リズム」が激しくない曲だ。
旋律が美しい曲が、もっとも安心する。

ジャズもすきだけど、ハードロックにはいけない。
ここの大きな境目は、私のことばでいうと、
リズムの音を、外から到来する実際の音として聴くか、
自分の身体(内部)で補完する音なのかの違いのような気がする。

拍をとるのは、あくまで自分でいいんだよな。
音として聴かないからこそ、自然と身体が動くような気もする。
私は、クラシックでもジャズでも、聴いていると自然と身体を動かしたくなる。
でも、激しいリズムに「ついていく」気にはなれない。
きっと、ロックコンサートには「ついていけない」だろう。

このあたり、身体として許容できる範囲がせまくなってきたことから、
自分の年齢を感じ始めた。