ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

新しいソフト

2009-11-30 22:27:18 | Weblog
昨日、新しいソフトをパソコンにインストールした。
Dreamweaverというソフトで、知人のホームページの更新を手伝うため。

新しいソフトをインストールすると、なんだかとてもワクワクする。
別に何かが急にできるようになったわけではないし、
使いこなせるようにならなければ、今と何も変わらないのだけど、
できちゃうような気がするから不思議だ。

実際、ソフトは自発的に何かをしてくれるわけではない。
私が「こんなふうに動いて」とお願いして、やっと動いてくれるけど、
思ったようにいかないことも多い。

たまに、私の指示が不完全で、面白い結果が画面に表示されると、
むかし、あるおばあさんと交わした会話を思い出す。
私がExcelを使っているのを見たおばあさんが、
「あら、式を入力するのね。ということは、式が作れないとダメなのね。
ポンと打って、パッと出る訳じゃないの!」と、非常に驚いていた。

もし、パソコンを使っている私が考えつかないことを、
「必要だと思ったので、やっておきました」とか言って、
パソコンが自発的に考えて行ってくれるとしたら、それこそ「魔法の箱」だ。
パソコンのおかげで、私も驚異的にスキルアップするだろう。

でも、それは他の人も同じ。
そこまでパソコンの性能が向上すると、
結局は、どんなスペックのパソコンを持っているか、
相性はどうか、ということが鍵になってくるだろうから、
そんなに上手いことばかりではないだろう。
いまの人間関係と同じようなとことが繰り返されるだけだと思う。
急にデータが飛んだりするから、人間関係よりもっと始末が悪いかもしれない。

20年後、私はパソコンとどんな付き合いをしているんだろうなあ。

般若経の真理

2009-11-29 23:20:54 | Weblog
三枝充悳著、春秋社刊。

友人が先日、古本屋さんで見つけて買ってくれた。
この本は当たりだった。
ものすごく専門的なことを、私のような仏教について独学をしている人間にも、
わかりやすいようにまとめられている。
でも、入門書というわけではない。
研究書のレベルを保ちつつ、でも私にもついていける。そこがすごい。

私の般若経についての予備知識は、
1 般若心経を知っている。
2 般若心経は般若経のエッセンスをぎゅっと凝縮したものだ。
この程度。

でも、もっと知りたいと思っていた。
そして、たまたまこの本と巡りあった。
ものすごくラッキーだ。
こういう興奮が、古本のよさだよなあ、と思う。

久しぶりに、函入りで、表紙がクロス貼りの本だったことも、
なんとなく感動を補完していると思う。
最近、こんな造作の本が減った。
別にコスト削減はいいと思う。それで買いやすくなるなら、いい。
新書でも、内容がしっかりした本はあるし、
持ち歩きできるから便利だ。

でも、たまにこんな本が持ってみたくなる。
すごく丁寧に作られていて、本当にいい本だった。
満足感ってこういうものだよなあ、という余韻が残っている。

こういう本を読んだ後は、次にどんな本が読みたいかな、と真剣に考える。
消費ではなく、蓄積として、文章を考える。
そして、この感覚こそ、本の楽しみだと思う。

話は変わって・・・、
昨日Twitterを試してみて、学生時代なら楽しめたかもしれないなあ、と思った。
いま、私の周囲には、これで誰かの行動をフォローするようなノリの人がいなく、
とりあえず、ひとりで試してみたところで満足した。
私が学生だったころ、友人はポケベルをやっていた。
きっと、あんな感じで使っているんだろうなあ。

後ろ姿

2009-11-27 23:03:38 | Weblog
日本人が歩いている後ろ姿を見るのが好きだ。
すごく平和を感じる。

外国の街でも、日本人はたいてい見分けることができる。
雰囲気が、ほんわかしているから。

今日、新宿高島屋の13階のレストランから、下の道を眺めていた。
いろんな人が歩いている姿を見ていて、
「ああ、日本は虚勢がいらない国なんだなあ」と思った。
変に肩を揺らしながら歩いている人もいないし、みんなこぎれいだ。
そして、ある意味、後ろ姿にスキがある。
警戒心がない。

でも、ふと気づいたのだけど、
きっとこのうち何人かは外国人だろう。
最近、新宿ですれ違う人に中国語や韓国語を話しているが増えた。

そう思って、もう一度歩いている人を眺めてみると、
今度は、あの夫婦は台湾からの旅行客、
あの若い女性は韓国人と、外国人だらけに見えて来た。

私はどこの国へ行っても、中国人に見られる。
台北で日本語のガイドブックを見ていても、中国語で道を聞かれたし、
ネパールのポカラでボート遊びをしていたときも、
すれ違った香港人に北京語で話しかけられた。
新宿で、中国人に中国語で道を聞かれたこともある。

みんな、どこで見分けてるんだろうなあ。

論理力

2009-11-26 19:25:22 | Weblog
先日、NHKのクローズアップ現代で、
いま若い人を中心に、
日本語によるコミュニケーション能力が低下していることについて取り上げていた。

携帯メールでは、単語の羅列でも十分に意思表示ができるので、
その感覚のまま作文を書いてしまうため、言いたいことが伝わらなくなるらしい。
大切な「どうして」の部分が欠落したり、主語と述語がちぐはぐな文章を書く。
そして、その違和感に、ぜんぜん気がつかない若い人が増えているのだとか。

また、日本のサッカーは、よく決定力不足を指摘されるけれども、
その原因のひとつが、日本語の伝達能力不足にあるらしく、
サッカー協会がその対策に取り組み始めているとも言っていて、とても驚いた。
つまり、チームワークで戦って行くサッカーにおいて、「なにがしたいのか」を
明確に伝える能力が不足していると、決定力不足につながる。
言語による意思表示能力は、人としての意思伝達の基礎になるものなので、
日本が点をとれないのは、根底に日本語のコミュニケーション能力不足がある、というのだ。

思わず、「すげー」と声を出してしまった。

何年か前に、新入社員研修の課題の回答文を読む機会があった。
ある一般的なテーマについて、200文字以内であなたの考えを書きなさい、という課題。
かなり内容を絞り込まないと、書きたいことを盛り込みきれない文字数だ。

言葉遣いで一番気になったのは、「いまいち」。
5人に1人は、文章の中で「いまいち・・・だ。」もしくは、
「・・は、いまいちだ。」という表現を使っていた。

まず「いまいち」は、私の尺度では書き言葉ではない。
そして、「いまいち」という表現を使っている人は、
たいてい「いまいち」だから、どうしたいのか、どうだったらいいのか、という
その後のオチを書いていなかったし、
書かれていたとしても、非常に漠然とした内容で、「いまいち」の繰り返しに近かった。
読んでいて、すごくすごく、むずむずした。

敬語の間違いなんて、かわいいものだと思う。
社会に出たら自然と学ぶものだし、恥をかけばイヤでも覚える。
でも、言語による論理力は、努力しないと身に付かないものだし、
論理力は、死ぬまで向上するものだから、常にトレーニングが必要だ。

日本語は、あいまいな表現があるからいいのじゃない、という意見もある。
私もそう思う。
でも、あいまいな表現で表現する、のと、判断保留にする、のは根本的に違う。
最近、時には判断保留も有効な方法なのだと気づいたけれども、
いずれ判断すべき時がくる。
それまで、ずっと頭の片隅で考え続けること。
これが論理力であり、意思伝達能力につながるのだと思う。

ゆらぎ

2009-11-25 15:50:36 | Weblog
瀉血でもしたい気持ちが続いている。
でも、喀血はしたくない。つらそうだから。

なんだか仰々しい音楽が聞きたくなって、マーラーの「復活」を流している。
久しぶりに聴くと、思っていたよりもずっと繊細な曲で驚いた。
記憶を上書きしなければ。

朝、仕事場に着いたら、ほわほわした音楽が流れていて、
「ああ、この世には、こんな世界もあったよなあ」という気分になった。
その人は、いつも脱臼したような音楽を聴いている。
私とは、まったく音楽の趣味が重ならない人だ。

先日、別の友人と音楽に関係する話をしていたときに、
その人が「ゆらぐ」という言葉を使った。
きっとピアノを弾くと、その人は「ゆらぐ」のだろう。

確か、小林秀雄さんが「モオツアルト」で「ゆらぎ」という言葉を使っていた。
その文章を読んだ後にモーツアルトの曲を聴いて、
「なるほど」と思ったことがある。
そして、私がモーツアルトを聴いても、いまひとつ「いい」と思えなくて、
どちらかというと好んで聴かないのは、
この「ゆらぎ」のせいなんだ、とも思った記憶がある。

そしてずっと、音楽と接して「ゆらぐ」ことについて考えている。

私は音楽を聴いたり、ピアノを弾くと、頭の中に光のイメージがやってくる。
木の葉に日の光が反射しているところ、
月光が水面に揺れているところ、
たまに、macのスクリーンセーバーのようなイメージのときもある。

すべてが一刹那の重なりで、
大好きな曲を聴いているときは、
その光の重なりが一点に集約して、自分の一番深いところに、
すーっと落ちて行くような気持ちがする。
その「落ちる」感覚を得られるかどうかが、私にとっての「好き」の境界線だ。

もし「ゆらぐ」という言葉が、最初に私の頭に到来する光のイメージに近いのなら、
なんとなくわかったような、通じたような気持ちになって嬉しい。
もしかしたら、ゆらいだ状態のまま純粋に音の世界に遊べる人が音楽家で、
音の天才なのかもしれない。

以前、天才と言われているピアニストが弾いたラフマニノフの
ピアノ協奏曲第2番のCDを聴いた。
ただ純粋に音と向き合っている姿がとても美しくもあり、
「人生それだけじゃないだろう!」と、言いたくなる反感も
同時に覚えたことがある。

私は音楽に救いを求めることが多いけど、
私が求めているような音に出会うことはとても稀で、
いつも欠乏気味な気持ちがする。
この飢餓感も、これはこれで自分なりに楽しもうと思う。

楽しいことを想像してみる

2009-11-24 18:40:34 | Weblog
ここ数日、気持ちが鬱いでいるので、無理して楽しいことを考えてみようと思う。

楽しいこと、楽しいこと・・・。
難しいなあ。あまりに発想力が乏しい。
ここでまた落ち込むと元の木阿弥なので、もう少し無理して楽しいことを考えてみよう。
楽しいこと。やってみたいこともアリだ。

それでも浮かばない。どんだけウツなんだ。
そうだ。小さい頃にやってみたかったことを思い出してみよう。

小学生の頃は、母が読んでいた『唐書』が私のあこがれだった。
あと、アンコールワット、古代エジプト、インカ帝国、このあたりがブームだったんだよな。

そうだ。アンコールワット。
私が初めて神秘的な体験をした場所。

本当に憧れていたので、いつもいろいろな想像をして詩にしていた。
中学生の頃は、授業中、ノートに思い浮かんだ詩を書きつけていたために、
それを同級生に見つけられて、すごくからかわれた苦い思い出もある。

アンコールワットには、10年以上前に友人と卒業旅行で行った。
あまりにも行きたかったところだったせいか、
旅行中に起こることを、事前に夢で見て「知っていた」。

ガイドさんが何と言うか、買い物に寄ったお店の人が何と言うかを知っていたし、
バンコク経由で行ったのだけど、飛行機に乗った時から、
若い女性がずっと右肩に乗っていて、クメール語の歌をうたっていた。
彼女は、私たちについてカンボジアに帰れることを、本当に喜んでいて、
プノンペンの飛行場に着いたとき、本当に嬉しそうな歓声をあげていた。
誰だったのだろう。

アンコールワット本殿には、虹の橋を渡って行くのだけど、
私はいつも、その時の足音を想像していた。
実際は、想像していたよりも、ずっとかわいた軽い音がした。
渡りきってしまうのがもったいなくて、牛歩をしたい気持ちだった。

そうだ。アンコールワットへは、もう一度行きたい。
今度はぜひ、朝日と夕陽が見たい。
そして、もう一度、あんな瑞々しい気持ちになれたらいいなあ。

自己嫌悪が募る

2009-11-23 22:59:57 | Weblog
久しぶりにある作家の詩を読んだ。
妹さんが亡くなったあとに詠んだ詩で、悲しみがあふれている詩だ。

早世した妹への思いと、無力感から生まれる罪悪感、
この世の移り変わりへのやり場のない気持ち、いろいろなことが込められている。

なかで私が一番共感するのは、
大切な人がどこへ行ったのかわからないということは、なんといいことだろう、
というようなことを述べているところだ。
私も両親と別れたとき、同じようなことを感じた。

私は正直に言って、母が亡くなったときに、少しホッとした。
解放感すらあった。
それは、「苦しむ時間が引き延ばされなくてよかったね」なんていう
きれいな感情ではなくて、
まったくもって自己中心的な感情で、
「ああ、これで私の範疇を超えた。もう苦しまなくてすむんだ」という気持ち。

そして母が亡くなったあと、この気持ちと正面から向き合うことをしなかったので、
父の死で、痛いほど向き合うことになったと思う。
父が事故にあって瀕死の状態で集中治療室にいたとき、
駆けつけた私がまず最初に感じたことは、
「ああ、また私はこの匂いと何年も付き合っていかなければならないのか」ということ。
父に対する心配ではなかった。

そしていま、日々、罪悪感にさいなまれている。

私が毎晩寝る前に考えることは、
いつか、この罪悪感を少しでも越えることができるように、ということ。
そして、私の死は引き延ばされないように、ということ。

でも、こんな無目的な毎日を生きている。
すでに、毎日が引き延ばされた死のような気持ちすらする。

あんなに美しく、そして温かい人間の血が流れているような詩が書けるような人間に
私はなれない。
詩が書けるかどうかという点ではなく、大事な人を思うという人間らしさの一点において、
私はきれいな心に接するのがこわい。

やり残していること ひとつ

2009-11-23 10:49:53 | Weblog
昨日はいろいろと自己嫌悪、自信喪失になる一日だった。
そして、体力も頭も使わなかったから夜眠くもならなくて、
いつもより少し長めに読書をした。

いま、道元の『正法眼蔵』を少しずつ読んでいる。
読み始める前は、道元といえば禅僧。
禅といえば、京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』という小説は面白かった、と、まず浮かぶ。
あとは、禅問答はわからない。
最近、座禅はよさそうだと思い始めている、くらいの印象か。

昨晩、とりあえず第4巻を読み終わったので、
ネットで道元について少し調べてみた。
日本曹洞宗の開祖で、南宋で5年ほど学んでいる。

曹洞宗といえば、父の家の菩提寺が曹洞宗だった。
あのお寺さんは、とてもお布施が高いことで地元でも有名で、
つい数年前、住職さんと話していて私も少しイヤな気分になった。
なるほど。禅僧にも、いろいろな人がいるのだな。
それなら、私でも心を正しくたもつよう努力すれば、なんとかなるんじゃないか。
そんな気分になった。
昨日は、自信喪失気味だったから、夜更けに物事を考えるとこうなる、
という、思考パターンだったのだな。

そして、南宋に留学か。
南宋でも仏様の教えが守られていない、乱れている、と
道元は、痛烈な批判をしているところもあるけど、
それでも、南宋といえば「南朝四百八十寺 多少楼台煙雨中」。

杜牧の「江南春」。
高校生のとき、漢文の教科書にこの絶句が出てきて、
いったいどんな景色なのだろうと、すごくいろいろと想像した。

そういえば、大学時代に元朝を調べていたときも、
南宋の都があった臨安は行ってみたい、行かなければと思いつつ、
これまで訪れたことがなかった。
臨安はいまの杭州。観光名所だし、いつでも行けると思って逃している。
久しぶりに、一人でぶらぶら遊びに行ってみるか。
元気で体が動くうちに、自分が本当に興味のあることをやるべきだよなあ。

これも一種の苦行

2009-11-22 22:25:22 | Weblog
友人宅で、たぶん初めて「みんなのゴルフ」というゲームをやった。
とてもよくできたゲームだと思う。
風や芝で状況が変わるのはもちろん、キャラクターの個性もいろいろあって、
きっとリアルなゴルフが好きな人でも、十分楽しめるゲームなのだろうと思う。
どこまでボールが転がって行くのかを、すごく興味津々に眺めてしまった。

私は、リアルなゴルフはまったくダメ。
自分がプレーするのはもちろん、テレビでの中継なども見ることができない。
ゴルフは、下手な人ほどたくさん打たなければならなくて、
打てば打つほど消耗して、集中力がどんどんなくなっていって、
もっともっと打って、とことんまで消耗しつくさなければならない。
しかも18もコースがあるから、なかなか終われない。
苦行の極みだと思う。
だから、私はとてもではないけど、自分ではやれないと思う。

ゲームでカップインしても、そんなに嬉しくはない。
もっと上手くなりたいなあ、とは思うのは、たぶん終わった直後だけ。
こういうゲームって、男性のほうがハマる人が多いと思うけど、
女性とはやはり脳のつくりが違うのかな。
それとも私個人の趣味があわないのかな。
まあ、いいや。

ゲームってすごいなあ、と思うのは、
私がリアルで大の苦手な車の運転も、ゲームだとできること。
ただ、ゲームだと楽しくてもっとやりたいと思っても、
実際のリアル世界では、やってみたいと思わない。
この違いはなんだろうなあ。